わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

業を浄める

2013-01-15 07:58:58 | 癒し
 業を浄めるという題を出しましたけれども
業というものは非常にやっかいなものでしてね、
本当に次から次から湧いてくる。
 この間も質問があって、五井先生、なくなる時に
業を全部持っていくといって、後カスみたいな
ものだと言ったけど、あれは嘘だったのか
というね、そういう質問がくる位、肉体の人間
というものは業を湧かせますでしょ。
 業といったらちょっと言葉がきついけれども、
こうして欲しいああして欲しい、こうなりたい
ああなりたい、ね、そういうものもやっぱり度が
過ぎると業になっていく。それだけならいいけど、
念になってね、そうして、その想いというものは
いつも申しますように飛びますでしょ、飛んで
色んな所へ行きますよ。

 例えば、皆さん気がつかないけれど、眠ってる
間に、自分の友達が死にそうだとか、何か心配事が
ある、離れてる人がいるなんていうと、あなた方の
霊体のね、一番動きやすいところへさあっと飛んで
行って、そして、その人の枕辺に行って慰めたり
手を握ったり光を与えたりして、さあっと帰って
来る。そういうことは皆やっているんです。ただ
それを気がつかないだけの話でね。浄めてるん
ですね。

 だけど、実際に業というものはやっぱり
生きている証かと思う位湧いてくるね。業と
いうものに把われても、もう把われたら最後
いっぱいになるでしょ。

 生きてる時も死んでからも本当にまあずっと
浄め続けていますけれどね、ただ、業を浄める
時にね、皆さん浄める立場の方だから申し上げ
ますけれど、業というものに対して、やっぱり
恐れるとかね。例えばですよ、どこかお家を
浄めてください。すごい病人がおります、浄めて
下さい。想いがくっついて来ますよ。だから、
〇〇さんなんて、いつか病気になったんじゃ
なかったかな。出すぎてね、印をもらっちゃった
時にね、あれだって、病気になるというのはね、
こっちから見ていると大変なことだけれども、
あれで、体の中の余分な、〇〇さんの業なら業
というかなあ、そういうものに対する抵抗力
ですよね。それをつける為に病気にさせて、病気が
治ったとたんにというか、病気をとり去った時に、
光がうーんと中へ入って、そして浄める力
というのがうんとアップするように、病気をする
ということはそういう事です。病気をするという
ことは、熱を出すということでも何でも、
浄化作用なんですね。だからその時に、ああ病気に
なってありがとうございますと言えたら一番
いいんだけれども、苦しいのが先にくるね。
 だけども、煎じ詰めて言えばそういうことですね。

 業を浄める時にね、一番大事なのは恐怖心を
なくすことね。それから、私がいつも言ってます
ように、私がやるんじゃないということ、神様が
させて下さる。守護霊さん守護神さんがついてて
下さる。お浄めする相手にもね、どんな人にでも
守護霊守護神というものがついてましょ。だから、
その人たちから頼まれて私は代理人でやるんだから。
 私がやるんじゃなくて、私の後ろの神霊が
動くんですね。あるいは五井先生が動くんです。
 あるいは、五井先生を通しての神様の愛情が
動くんですね。そこをちゃんと見てますとね、
私の体を使って私の祈りを用いて私の言葉を用いて、
実は、そういう大愛というものが動くから、だから、
スーッと色んなものが上に昇っていくんですよ。

 この間、ほら、五井先生がどうのこうのというの
大変だったでしょう。あれだってもうちょっとね、
君がさ、きっちり信仰してればといったらあなたを
責めることになるかもしれないけれども。君だって
皆そうだけれども私に出来るだろうかというのが
あるから、ある間はやっぱり昇り切らないんだよ。

 印をきる時だって、私がやるんじゃないんです。
 任せてしまって、向こうから力がきて
エネルギーがきて、いつの間にか消えるんですよね。
 そういうもんなんです。

 浄めるということは祈るということと
いっしょなの。祈るということは自分をなくす
ことですと先程言いましたよね。なくする練習を
することです。浄めるということはもっと
すごいでしょ。もっと色んな想いとか病気とか
いうものをねえ、浄めて下さいとか、浄めること
によって窮地から脱却させて下さいとか、そういう
色んな人の想いを受けますでしょ。受けて
受け取ったまんま、苦しいまんま印をきったって
しょうがない。仕方がない。それじゃあ駄目なのね。
 それは、業というものは消えるんだから。色んな
意味でです。神様すいませんお願いしますと言った
とたんに神様が受けとって下さってるんですよ。目
には見えなくてもね。そこをちゃんと信じて、
そこをおもいながら祈って統一して、印なら印を
きらないと。僕みたいなのがやって出来るかなあ
とかね、私みたいなのがやって出来るかしらとかね。
 それがやる間ってのはあれは大変ですよ。上に
昇らない。昇りきらない。もうちょっとなんだよね。
 又別の課題を出しますから、その時にはちゃんと
今度は切るんだよ。

 結局ね、自分がさせていただいているというのを
もう少し進めていくと、私がするんじゃないになる
でしょ。そして、私がするんじゃないというのを
もっと進めていくと、神様の愛がこの業を消して
下さるんだでしょ。業というものはなくなって、
光になっていくということになりますね。

 闇というものはないんです。本質的に言えば。
 本来の世界から言えばね。だけど、闇と見える
ものはいっぱいあるんですよ。その闇と見える
ものを闇だとおもい間違えてね、とらえ間違えて、
そこへ引っかかっちゃうと、苦しくって苦しくって
しょうがなくなる。例えば、痛みがくる、痛みが
辛い、もう本当に痛みが辛いという時に、その
辛い辛いつらいで辛いにひっかかってるとね、
その痛みそのものがずっと続いていきますよ。頭の
中から心の中から離れないから、あるいは、体から
離れないように自分でぐっとおもっちゃってるから。
 ところが、痛みの最中でも、誰かから電話が
かかってくるとか、何かしなきゃなんないことが
あるとか、何かそういうことがあると、何分間
かでもその痛みを忘れているということが
ありましょう。あら痛みが消えてる、何故か。
 その時に、そういう仕事を通して守護の神霊がね、
後ろで、痛みどころじゃない、何かそういうものが
あるんだよということを皆さんに知らせるんですよ。
 皆さんだって、そういう意味で、祈りじゃなくっ
たってちゃんと統一できるんですよ。そういう体を
持っているんです。肉体というものは業がとっつき
やすいかもしれないけれども、本来の皆さんの
心だって本心だって体だってね、痛みとか業とか
把われとか、そういうものが寄りつきっこない体に
なってるんです。人間の体というものはそういう
もんなんですね。本当の自分自身に返す為にお浄め
するんだということですよね。

 五井先生なんかは、もう私もあなたもないし。
 私はね、本にも書いたけれど、色んな人が
来ますよ。そして、ひどいのになると、先生、
受験を受からして下さいとかね、色々ありますって。
 そういう人の色んな想いをお浄めする時に、何と
お浄めするか、一つしかない。この人の天命が
完うされますようにしかないんです。それによって
そりゃあ運命修正してゆきますよ。それによって
叶えられることがある。

 斉藤さんだってさ、巡講した時に、斉藤さんの
話を聞いただけで足の痛みが治りました、入院
してたのに退院できました、とでてくる。それで
斉藤さんは、何かあの先生が来ると奇跡が来るとか
言われて困ってさ、私にこぼしたことがあるけれども、
そういうことじゃないんです。本当はね。それは、
ちゃんと喜びを分け与えるんだけれども、そういう
ことじゃなくって、斉藤さんなら斉藤さんが、
村田さんなら村田さんが、高橋君なら高橋君がね、
無になって、そうして神様の言葉をしゃべってる
時に、本当に自分というものを忘れて、神様だけの
おもいで一杯になって言葉をしゃべっている時に、
やっぱり、その人はその人なりに皆光になるん
ですね。誰一人として、この人の光が高い、
この人の光が低いというものはないんですよ。
 だから、その時斉藤さんの話を聞いて、村田さんの
話を聞いて、ね、病気が治ったとか痛みが少なく
なったとかということになれば、それはその二人を
通して、その一人一人を通して、神様の光がパーッと
行ったんですよ。そこまで。そういうことなんです。

 例えば、ここから北海道の誰それの為に祈ると
いっても、離れているからなあーとか想いながら
お浄めしたら駄目ですよ。想いが入っちゃあ駄目
なんです。そういう人間の想いが湧いてくるのは
当然だけれども。

 しかし、神様ってものは、どんなことでも出来る。
 何でも出来る。癒し方は我々の都合とは違うかも
わからないけれども、決して我々を悪くなさらない
方でしょ。だから、神様の中に想いを投げ込んでね、
そして、お願いしますといって、叩いたり印を
切ったりしちゃえば、その光というのはすごい光が
いきますからね。そこを信じることですね。色んな
業がありますよ。もう間断なく来ますね。だけども、
その業の数よりも量よりも神様の愛の方が、何十倍
何百倍何千倍深いか分からない。そうでなかったら、
地球だけでなく宇宙ってものはとっくの昔に
潰れちゃってね、人間なんてものもとっくの昔に
死んでますよ。死滅している。それがこうやって
生きてられるというのは、神様の愛というものが
何物にもまして優っているからです。ただ物だけの
世界だったら、ただ科学だけの世界だったら、
祈りのない世界だったら、もうとっくの昔に色んな
所で戦争が始まって滅んでますよ。

 我々は滅びのない生命へ向かう為に祈りを
やっている。その滅びのない生命というのは、ただ
我々だけが助かろうとか、我々だけの神様であって
欲しいとか、愛念であって欲しいとか、そういう
利己を求めての祈りではないわけです。我々の
本来心というもの、本心の座というものね、そこへ
深く信頼して、それが皆の生命の中に平等にある
ということを思って、そして、その光のおもいを
世界中にまくんだ結ぶんだという信仰でもって、
この祈りをずっと続けていった時に、私達の
この祈りというものは、ただ本当に光になって
光明になってかけ巡るんです。

 だから、私よりもあの人の方が経験があるから
とかね、そんなことは、神様から見たら問題じゃ
ありません。あなた方の魂というのはだいたい
古いんだからね。皆それ相応に古いんですよ。誰が
特別古いとかいうんじゃなくって皆古いんです。
 古い魂をもった人たちが、何十代何百代と生きて
きて、五井昌久に会ったんです。だから、あなた方に
印をきれとか、何とかという。私に出来るだろうか
という様なことをいう時というのは、あなた方が
やるんじゃないの。あなた方を通して神様が
働くんですよ。私に出来っこないとかね。そんな
こといってたらいつまでたっても地上の光明化
というのは、狭い範囲でしか出来ていかないん
ですね。そんなことでは駄目なんです。

 世界平和の祈りというのは、人間本来の生命に
根ざしたエネルギーというものをね、それぞれの
立場の人達の心の中に植えて、そうして、それを
引き出して広がらせる。そういうものすごい力を
持っている。だから、ピースポールが一本しか
立たないとか何とか、そんな小っぽけなこと
考えるなということですよ。ピースポールが一本
立つか立たないかというのは、それはその時の
時期の問題ね。色んなことがからまってるんです。
 で、その色んなことがからまる上に、皆の想い
とか思惑(わく)とか、そういうものが邪魔を
しちゃあ駄目なんです。何事も神様がいいように
して下さる。だから、そこへ向かって、想いを
明るく切り変えてね、そうして精進してゆく。する
だけのことはしました。後はお任せしますってね、
ということばがありますよ、あれなんですね。

 イエスの十字架だってそうです。釈迦だって
そうですよ。大涅槃に入ってね、後は、あれは
お任せしますなんです。任せるということがない
ことには宗教というものは本当には根づいて
ゆかない。我々を導く生命の根元の神様の大愛
というものがあるということを信頼しないことには、
我々の信仰というものは深まってゆかないんです。

 何も無理なこととか、あなた方の分相応以上の
ことを突然やらせようなんてことは誰も思わない。
 だけども、あなた方がこれが私の分相応だとか、
これ以上私は出来ないとか思ってるその枠という
ものを、神様というのは守護の神霊というのは
取っぱらってね、本当の人間というものはそんな
小っぽけなもんじゃないよ、あなた方の中にも
本当の人間が息づいているんだよということを
知らせよう知らせようとしている。だから一番
いいのは、私は何も出来ないけれど、神様がさせて
下さるんだったら私はやりましょうという、
そういう心ですよ。そういう心でもって、皆で
和顔愛語でやってかないと。神様の言葉だから
といって、しかめっ面でやっていっちゃあ駄目。
 和顔愛語なんです。色んな人がいるんですから。
 色んな人の悲しみがあり悩みがあり苦しみが
あるでしょう。それをね、溶かしてゆくのは
柔らげていくのは笑顔なんです。何をどう難しい
ことを真理の言葉を言えるか言えないか、そう
じゃない。やっぱり笑顔なんです。笑顔という
ものはね、色んなものをとかしますよ。色んな
立場の人、たとえ宗教の人であっても何であっても、
笑顔というものを見た時に、人間というものは
やっぱり慰められるね。笑顔にはぬくもりがある。
 笑顔とぬくもりというものでもって人間は
息づいていくんです。ほっとするんです。何故か
というと、その笑顔とぬくもりの中に神様の愛の
源というものはあるんだから。

 だから、難しいことを言おうとかね、これは
こう言わなきゃいけないとかね。ねばならぬからは
何も生まれてこない。ねばならぬと思わないで
神様に任せてしまえばね、そこから言葉も出て
くる、想いも出てくる、ね。真理の言葉だって、
自分がこんなことを言おうと思わなくったって、
色んないい深い言葉が出てくる。口をついて出て
くる。それは神様がしゃべらせて下さる。語らして
下さる。あるいは、そこへおもむかせて下さる
訳ですから。

 だから、人間への他力本願ではなくて、本当の
意味で神様に任せて、他力になって、そうして
その他力になった上での自力をね、自分の努力をね。
 自分の癖は自分がよく知ってましょ。だから
その癖をよくとらえて、自分が息をしやすいように、
決して自分に無理がいかないようにね、自力と
他力を融合させて明るい生命の宗教というものを
作っていかないといけない。それが、私が
大神様から命じられたことなんだから。

 今、もう人類が、人間がね、分かれて、
ああだこうだ、こっちだあっちだと言ってる。
 そういう時代じゃないんです。どんな人でも、
とに角、結び合って寄り合って生きていける、
そういう世界をつくってゆく。それが神様の本来の
願いなんだから、祈りなんだから、その心で人間が
皆ここへ来ているんですからね。その為に皆が
生きてる訳だから。そこへ目指しての祈りをやって
いかなきゃいけません。ね、だから、私は出来ない
というのだけはやめて、私にさせて下さい、何が
来ても、私は出来ないと思うかもしれないけれども、
次の瞬間には、神様、あなたの中に全部
放り込みます、というそういう信仰を養って
いただきたいと思います。
                  昭和63年8月26日