わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

五井先生と呼んで下さい

2013-01-18 08:32:29 | 癒し
 私は落語家じゃないかなあと言われた時が随分
生きている時にあるんですね。それは、話の中に
冗談とかね軽口とか。やっぱり法話という
ものはね、わかりやすくやさしい言葉で言って、
5つ6つの子供にも分かるような話し言葉
でないと、本当に深い言葉というものは入って
いかない。深い真理というものも入っていかない。
 で、こうしなきゃならん、こうした方がいい
ということは分かっていてもね、人間というものは
そんなに出来るもんじゃないんです。簡単に
出来るのなら、五井先生はいらないの。釈迦や
キリスト、その人たちでも救いきれない、今の
この世の中の複雑な色んな要素があるでしょ。
 釈迦やキリストだけでもとうてい駄目という
ところにもってきて、深淵な言葉だけじゃね
駄目なんです。

 だから、本質論も必要だけれども、本質論と
同時に、具体的にやっぱり、寂しいですねえ
悲しいですねえ、大変ですねえ、本当に大変
でしょうという、そういういたわりの気持ちが
ないと駄目なんですよね。それがあって初めて、
人を導くことも可愛がることも愛することも
出来る。

 会館でやってた最初の頃に、皆熱心でしたよ。
 皆くい入るように話を聞いてくれてね、最初の
白光の人たちは。今の人たちが駄目だというん
じゃないですよ。本当にくい入るように聞いて
くれたけれども、あんまり深い話をし過ぎると
くたびれちゃってね、みんな。とっても私は
出来ないわとかね、思っちゃうから。
 だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、
ある時は八百屋になったり、それから、本当に
落語家じゃないかという位軽口とばして、
そうして、ふーっと気がついたら神様のことを
考えていたという風にもっていく。これ方便
なんですね。

 で、その時々によって色んな話し方をする。
 さっきの私と今の私と違うのかといったら、
違わないんですよ。全然違わない。だけども、
とに角機をみてね、人をみてね。人をみて法を
説けというでしょ。あれと一緒なんですよ。
 その時々その場相手によってさっきのような
しゃっちょこばったああいう講演口調の、ねば
ならぬ存じます式が通じる時もあるんです。そう
じゃなくて、こりゃあもうそんなこと言ったら
逃げ出しちゃうなあという場合は、こういう口調も
あるんですよね。どれも五井昌久。どれも神様。
 神様といったって、私が神様じゃないですよ。
 そうじゃなくって、神様が色んな働きを
こうやってなさるということの証をここでやって
いるようなもんだね。そうじゃなきゃ、こんな
講演会なんかやりませんよ。そんな無駄なことを
神様はやらないと思いませんか。本当にそうですよ。
 やっぱり誰かに聞いて欲しいという気持ちが
皆あるでしょ、皆苦しいから。聞いて欲しい
といっても、吸いとり紙のようにね、自分という
ものをさしはさまないで、深くうなづきながらね、
ああそれは大変ですねえって聞くというのは
これは大変なことよ。実際に。絶対に自分が
出るもの。そんなことはあなた言うけれども、
私の経験によればということになるよね。なる
けれども、そこは本当に難しい。

 人に対する時というのはね、私の経験に
よればと、それを出しちゃうと相手が悲しむね。
 60 70 80生きて来た人がね、私はこう
生きて来たと言いたくなるのもよく分かる
けれども、悩んで苦しんで切羽詰まって来る人
というのは、それどころじゃないんですよ。
 その人の経験談を聞きに来た訳じゃなくって、
とに角ただ単純に慰めて欲しい。そこから悲しみを
とって欲しい。軽くして欲しいんです、まず。
 医者のね、頭痛がするから頓服下さいという
のと同じなんです。頓服あげといてね、熱下げて
頭痛とって、頭痛とった後にね、何で頭痛く
なったかというの一緒に考えましょうよという
ゆとりを、そこから導き出すんですよ。頭痛
とらないでね、説教したってしょうがないの。
 だから、ある人は頭痛で来るかもわからない、
ある人はおなかが痛いといってとんで来るかも
わからない。先生、姑が!という人も沢山
いたしね。嫁さんとうまくいきませんという
人もいたしね。どっちにもいい顔しなさい
というの。それじゃあどっちもいい加減に
しなさいというんじゃないですよ。そうじゃ
なくって、どっちもに対していたわりがないと、
人間関係なんていうものは本当にうまくやって
ゆけないということですよね。

 だから、そこで気をつけなきゃいけないのが、
自己愛というものですね。自分を可愛がりすぎる
あまりに、相手が見えないということに
なっちゃうとこれはあぶないんです。
 自分自分自分が辛い辛い辛いと想うとね、
その辛い辛い辛いが相手を変に傷つけたりね。
 あるいは、こう気持ちをにぶくさせてることが
あるんですよ。自分が一番辛いと想うからね。
 だけども、自分も辛いけれども本当は相手も
辛い。

 ところが、人間というのは不便というか何と
いうかね、そんな吸いとり紙みたいな人は、
いないでしょ。とってもじゃないけど
ありませんよ。だから私が出来たという訳じゃ
なくって、私はもうずっと十字架にかかった
ようなもんですからね、前も言ったように。
 神様に自分の生命というものを差し上げ
ちゃって、投げ出しちゃって、それで、どうなと
して下さいといったら、まあやくざみたい
だけれどもねえ、そこで自分の生命の本体という
ものを見たから。もう私安心しちゃいました
からね。安心した人間は今度、皆さんの中に
その大安心というものを分けないとね、
いけませんでしょ。

 そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、
お浄めしたり話を聞いたりする訳だけれども、
そうやって皆さんと話をしたり、今こっちから
見たり聞いたり、祈りを届いたりするのを見て
いると、あるいは感じてるとね、本当に何とか
して下さい、どうにかして下さい、本当に辛い
祈りが多い。

 だけども、その辛さをね、とかして、そうして
本当は、あなたの中に光があるんですよという
ことを、こっちはね、皆さんの守護霊さん
守護神さんと一緒になって出してゆく訳
ですからね、その流れを。その役目を未来永劫
五井先生は引き受けた訳だから、だから、
皆さんは安心してね、五井先生と呼んで下すって
いいんですよ。五井先生にこんなつまんない
ことを聞かせるなんて、とてもじゃないけど
私の気持ちがゆるさないとかね。どっかで
かっこうつけたりとか、ありますね。恥ずかし
がったりとかね。だけども、そんなこと言ってる
内にストレスが溜まってくんのね。そういう
遠慮はいらないんです。どこでもいいんですよ、
五井先生と呼べば行くんですからこっちはね。
 行ってどういう手当てが出来るか分からない
けれども、しかし、最善の手当てをするわけよ。
 どういう手当てが出来るか分からない
というのは、皆さんの心に思ってるような手当てが
果たしてこっちが出来るかどうか、その時期
かどうか、よくは分かんないけれども、しかし、
神様の愛というものを携えてこっちが行くという
ことは確かなんです。そうして、皆さんの悩みも
苦しみも抱きとって浄めてるということも
確かなんです。だから、いつかその悩みとか
苦しみとか辛さというものは消えてゆくんだ、
五井先生に任せてれば消えてゆくんだ、
五井先生を通して神様の愛というものが通って
きて、その大愛によって我々の諸々のもの
というのは消えてゆくんだということね。
 そこさえしっかり見ていてもらえば、こっちは
本当に守り易いんですよね。やりやすいんです。

 まあ、バカ話みたいにしゃべってますけど、
やっぱりねえ、生命の流れをね滞らせないように
しておかないとね。これはしんどいですよ。
 辛いんです。本当にね。今しんどいという
大阪弁を使ったけれどね、あれは心労なんですね。
 あれは心疲れるんです。心労ですね。だから、
しんどいという言葉はね、あれは実際、心の憂さ
という言葉があるけれども、本当に心が疲れて
疲れて大変だという言葉ですがね。ですけど、
ずっと申してますように、本心というものは、
心が疲れているように見えても、本当に疲れを
しらない。疲れを知らないどころか、神様の側
から光というものを受けとってね、そして、
あなた方の中のそういう想いとか悩みとか
いうものを軽く軽くして、光の方へ引っ張ろう
としている。そういうものが同時にあなた方の
奥に深くにあるのですからね。
 だから、心だけを感情だけを自分だと思って
しまうと、勘定は払わなければいけないですね。
 勘定払って借金払ってね、そうして、本心の
方へ降りて行ってね、ハシゴを使わないと降りて
ゆけないという人もあるかもしれないけれども、
だから祈りのエレベーターの世界人類が平和で
ありますようにというのをつくったんだから。
 せっかくエレベーターがあるんですから、
ハシゴで一段一段降りなくともね、
エレベーターを使って降りてくれれば
いいわけです。それで、エレベーターで
サーッとね神様のところへ行く。

 さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念が
どんどん出るけど大丈夫だろうかと。大丈夫です。
 自分の中の雑念というものはそんなに気にする
必要はありません。出させとけばいいんです。
 そういうものもこっち側はもうよく
知ってますしね。前も話したかわからない
けれども、法然さんという偉いお坊さんが、
ある信者さんに聞かれたでしょう。南無阿弥陀仏
と言うんだけれども、南無阿弥陀仏と言えば
言う程雑念が出てきて困ると。法然さんが偉い
人でねえ。あんたもそうか、わしもだという話が
あったよね。あれと一緒なんですよ。統一会に
来てね、眠ってもいいいんです。本心のところで
霊体は聞いていますからね。肉体は疲れるから
眠っちゃってもいいんですよ。そこをねびしっと
して、絶対にお話だからお祈りだから、
まっすぐに背筋を伸ばしてと、そんなもんじゃ
ないんです。もっと生命というものはほがらかでね、
本当は障りのないもんでしょ。ひろやかな
もんですよ。だから、そこを目指して我々は
祈っていくんですからねえ。窮屈になる為に祈る
わけじゃないでしょ。もっともっと自分のたがを
はずす。それを目指して祈るんです。何々をする
為に祈るとかね、そういう風にしてしまうとね、
その為にが主人になっちゃってね、目指してる
ものがねえ、めざしが嫌いでいわしがいいとかね。
 生がいいとかいう人もあるかもしれないけれど、
そんなんじゃないんですよ。

 神様の御心というものは深くて暖かくって
本当はやわらかい。北風と太陽の話じゃ
ないけど、北風が吹いたって旅人の衣はずっと
寒いから脱ぎっ放しにできない、むしろ、どんな
風が吹いてもしがみついたでしょう。だけど、
太陽の場合はポカポカ照ったから、サーッと
脱いじゃったね。あれと一緒なんです。どんな
ものもゆるしてね、どんなものも溶かす。それが
太陽ね、それが神様の愛なんですよ。そういう
ふるさとをあなた方はもってるわけ、自分の中
にね。それを日常の慌しい中ではね、ここに
ふるさとがあると思えたってなかなか
思えないから、だから、祈るわけでしょ。
 で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除を
してもらって、そうして、そのひびきにのって
統一してもらってねえ、もらってというのは、
私があなた方にしてもらうんですよ。あなた方が
五井先生にしてもらうんじゃないのよ。一緒に
祈って、祈りの階段をのぼってもらって、
お互いに神様の大生命の中に入ってゆくんです。
 そのお手伝いを私がしているんです。だから、
安心してどうぞ私のところへ色々もってきて
下すって結構ですから。

 やっぱり人間というものは、そんな窮屈な
ことを目指すんじゃない。祈りというものは
窮屈なことを目指すんじゃない。こうしなければ
ならぬというものじゃないからね。人間の中の
想いの枠をはずしてゆく。世界を広げてゆく、
光の世界の住人になってゆくということは、
自分を素直に朗らかにひろやかに深くね、広々と
させることですよ。

 しかし、人間にはそれぞれの立場というものが
あってね、立場によって出てくる言葉って
あるんですよ。私は前に妙好人ということを
言いましたよね。白光に寄ってくる人は特別な
人は来なくていいと言いましたよ。妙好人
みたいな人が集まりゃいいって。それは何も
妙好人を理想にした訳じゃない。けれども、
神仏へのあるいは大生命へのものすごく素直な
祈りがあり希求がある。そういう人をやはり
理想にしたい。他の、社会的な地位だとか立場
だとか、そういうものは一切いらない。そういう
ものはむしろ宗教にとっては本当に雑なものに
なるんです。やっぱり、すっきりと生き通しの
生命になってゆく為には、自分の中のそういう
雑物をのけてゆく、その為に祈りがあるわけ
ですから。

 ですけれどもね、さっき言いかけましたように
立場があってねえ。例えば、高橋君なんかは、
この人善人ですかって問いかけてくればねえ、
ああそうだよと答えなきゃしょうがないし。で、
善人だけがいいわけでもないんです。善人という
ことはいいことだけども、ある時にはいいけども、
ある時には大変だろうなあという時があります。
 例えば、バカ正直という言葉がありましょ。正直
ということはいいけれども、何でもかんでも言って
しまうということが、その人の人生にとっても
他の人の人生にとっても良いことか悪いことか
といったら、何でもかんでもつつみ隠さず自分の
気持ちを相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれないけれども、
それによって相手が傷つくということもある。
 だから、その立場立場によってね、ある時
ある人が善人に見えることもある。ある時ある人が
ずるく見える時もある。それは、その人がその人の
生きてきた環境とか色んなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人だなあとか
感じる。その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一たん認めてやらないといけない
訳ですよ。善人なら善人、ずるい人ならずるい人、
だけど放っとくとね、とてもじゃないけど
すっきりいい生命にはなっていかない。

 我々の目指してゆくところは、そういう色んな
面を持っていても、その生命をさながらに明るく
朗らかにしてゆくということですから、そこへ
向かってゆかなきゃいけないわけですからねえ。
 だから、私達はその立場立場によって、見える
感じる想えるということをまず認めた上でね、
その上でさらにその人の成長に従って、ああ
ここまでならこの人行けるなというところまで、
一段一段いっしょに階段を登ってやるという
こと。降りて行ってやるということね。それが
大事なんです。上からね、あなたこうしなきゃ
いけませんよ、こうすべきですよ、という風に
言ってしまいますとね、それがしたくとも出来ない
という人が沢山いるわけですよ。おもいは一杯
あるけれども弱くって出来ない、ありますよ。
 だから、それがいけないと言ってしまうと、
もうその人全体を否定することになる。禁止する
ことになる。おまえがいけないということになる。

 だけど、神様というものは、おまえはいけないは
ないんです。おまえは可愛いけれど、おまえは
駄目だ、おまえは良い子だけど、おまえは悪い
子だ、それは全くないんですよ、神様の側
からすれば。
 だから、それぞれその時々に応じてね、人間の
我々の目から見ますとね、ああしょうがない人
だなあ、やっかいな人だなあ、こんなつまんない
人がいるかしら、もう色々言ったって何にも
わからないような・・・と思いますよ、あせりますよ。
 だけども、やっぱりその人はその人なりに悟る
時期、分かる時期気づく時期、あるいは、
傷ついて一歩進む時期、色々あるわけね。そこで、
へたに我々が裁断をしてねえ、この人は駄目だとか、
この人を標準にして話をしようとかねえ、そういう
ことは言っちゃあいけないし想っちゃあいけない。
 何故なら、神様というものはね、そういう
標準を何ももっていない無限定なんですよ。神様
というものは、無限定な愛なんですよね。その愛
というものは測り知れない、測るものは
ないんです。そういうものから我々の生命
というものは出てきているんですね。

 その生命というものは、どんなに豊か
であることか。これは分からない程豊か
なんですよね。言葉なんかでは言いつくせない
でしょう。量とか質の問題じゃない。存在
そのものが愛なんだから、その愛に抱きとられて、
そこから出てきた生命というものが我々自身
だとすれば、我々というのはすごい宝物をもって
いただいてこの世の中に出てきてる訳ですよ。
だから、その宝物をもってながら、もちきれ
ませんすいませんということは、やっぱりこれは
傲慢不遜になる訳です。いただいたもの
なんだから、それをどう使うかは神様の方で
お決めになるんだから、そこですっきりと神様に
お任せをしてね、そうして、どう使っていただく
かはわかりませんけれども、日々私共はつとめて
まいりますというつもりで、世界人類が平和で
ありますようにとやっていきますとね、いつの
間にか我々を使って下さるわけですね。我々は、
我々も気づかない内に器になってまいります。
 その器になるということは自分を磨くという
ことでもあれば、皆さんに喜びを分けるという
ことでもあれば、自分の深い本心がそこで
満たされて光になってゆくということでも
ございます。そんなに難しいことでもない
けれども、しかし、不断に祈って、そうして、
超越者に任せて愛の源に任せてやっていく
ということが大事だろうと。

 その為に、色々申しましたけど、てっとり早い
のは、五井先生と呼ばれれば私はゆく訳ですから。
 呼んで下されば、引き出すお手伝いを致します
からね。その引き出しがいくつあるか、その幅
とか量とかそんなものは神様の方で決めること
であって、皆さんの方で、私量が少ないから
なんて、そんな遠慮することはありません。ただ、
そういうものを引き出すお手伝いを私はしに
まいりますので、どんな時でも構いません。文句
たらたら恨みごとたらたら、色んなものを
引き受けます。私はずっと十字架にかかって
おりますから、かかりっ放しですから。
 私に全部言って下すって結構です。だけども、
神様の御心というものは、そういう深いところに
あるんだということをねやはり承知なすって、
その上で祈って下すったら、光のエレベーターも
もっと輝いて、皆さん方を光の世界へ引きつれて
ゆくことが出来る。そうして、自己の為にも
他己の為にも、世界人類の為、宇宙人類の為にも
なっていく。そういう世界が、皆さんとともに
築いてまいれることだと思っています。
              昭和63年8月26日