神の愛念についてということでありますが、
いつも申しておりますように、神様の愛念
というものは、これは絶えることなく、
ゆるしの大河ともいうべき大生命の根元から
流れてきているものであります。そして、
神様の愛念というものは、我々人間のこの
肉体や想いや、我だとか何だとか、余分な
ものが色々くっついてはいるけれども、
しかし、その中を貫いて流れている。つまり、
神様の愛念というものは、離れて何か遠くに
あるものではなくて、自分の中に絶えず
息づいている。生命そのものなんだという
ことをまずここで覚えておかないと、我々は
大変な間違いをすることになってゆく。
今、何でもって生きていったらいいか
分からないというような生きにくい世の中
ですよね。不安がある、色んなことが起こって
くる。事故はあるし、災害はあるし、
今年みたいに天候が不順じゃあとか
言ってるけれども。実際に毎日毎日、
今もどこかで大雨が降り雷が鳴って、雷に
打たれて死ぬ人だってある。雨に流されて
家がどっかへいっちゃう人もある。つぶれて
下敷きになってけがをする人やなくなっちゃう
人がある。そういう不浄の世の中というもの、
これを見ていると、何を頼りにして何を
よりどころにして生きていったらいいか
分からないという不安がつきあげてくる。と
いうのがこの世の中の本当のところであります。
で、そういうところをふまえて、私は何を
申し上げるかというと、我々というものは、
常に神様の愛によって生きているのである
ということ。これを忘れてしまっては
困るんです。ここが本道なんです。
なくなったり何だかんだしているが、
それが何で神様の愛なんだと、肉体をもつ
人間は思うけれども、しかし、神様の愛と
いうのはね、あなた方一人一人の天命を
抱きとって、この世だけじゃなくてずっと
深い天命を愛して、そうして、もちろん、
あなた方という一人一人を愛して、そこを
見つめての光をむこうから流し続けて
いらっしゃる。その愛なんですね。だから、
個人の小さな喜びもささやかな喜びも、
良かったねといってむこうから光を送って
下さるけれども、しかし、一人の人間の
生き死にが問題ではないというところに
神様の愛というものがあるんです。
こう言うと、非常に無情のように思う
けれどもね、そうじゃない。つまり、本当に
人間の姿、そして、神様の愛というものを
知って行く時には、肉体の死とか、いくつで
死んだとか、若くて死んでしまってかわいそう
だとか、そういうことというのは何となく
問題にならなくなってくる。
私なんかは、むこうの方からこっちを今
見てますでしょ。そうしますと、本当に
こっちもむこうもないんですよね。むこうの
世界もこっちの世界も、ずうっと連なっている。
ただ、あなた方の場合は、肉体の肉眼という
目でもってみているから、あっちの世界が
見えてこないだけで。
しかし、そういう把われも何もかも捨てて
しまってね、祈り一念、世界平和の祈り一念に
なって、五井先生、神様、お願いしますと。
世界平和の祈りで教義を唱える。その教義を
唱えるということはどういうことかというと、
つまり、無になって、自分もなく人もなく、
自分が祈るということも忘れて、その大きな
流れの中へ入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が消えるんですよ。
肉体の波が消えて、そうして、自分がここにいる
ということも忘れて、ただ、祈りの光と一緒に
なっていく。そういうものなんですね。本来
そういうものなんです。それは、どんな赤ん坊
であっても子供であっても、あるいは、老人
であっても、神様を知らないと思っている様な
人であっても、あれは無神論者だと皆が非難
するような人であってもね、そのスイッチ
というものはもってるんです。
いつも申しますように、信仰というのは、
例えば、キリスト教なら礼拝堂へ行き、あるいは
お寺に行って、神様とか仏様に祈って、その
祈る姿だけが信仰じゃない。芸術家は芸術家で、
音楽家は音楽家で、大工さんは大工さんで、
一所懸命に何か一つのことに打ち込んで、
無になって一つのことを成し遂げる。その中に
神様がいらっしゃる。その中で神様が働くんです。
自分をなくした時に神様というものが現われて
くる。愛念というものは現われてくる。その愛念
というものが現出して、そうして、本当に今度は
神様の愛に洗われる。
我々の生命というものは、毎日毎日毎瞬毎瞬
新しくなってゆくんですね。そういうことが
本当は生きるということなんです。
そんなこと言ってもね、五井先生、やっぱり
毎日死んでゆく人がある、重病の床にふしてる
人がある、事故にあって困ってる人がある、
そういう悲しみというのはどうなるんですかと、
皆思うでしょうねえ。確かにそれはそうなんですよ。
私だって、愛弟子を何人も失くしたり、大けがを
して入院させたり、ありますよ、この世の中に
いた時にはね。だけども、心配してるけれども
心配しないんだよ。高橋君に答えたことが
あるけれども、分かるかね、やっぱり心配してる
けれども心配しないんです。心配してるというのは、
この肉体の人間の気持ちというものを
味わってしまうと、確かに心配なんです。オロオロ
しますよ。どうなるだろう。手術が必要ならば
早く手術が成功してと思います。それは人間の情
というものなんです。自然なんです。そこで
オロオロしたり、弱くなったり、神様がいるん
だろうかと思ったり、そういうことは私は否定
しませんよ。私はそういう気持ちを通り抜けて
きてるんだから。
だけども、そこを通り抜けたところで、神様
というものは、もう一つ深いところでね、人間を
抱きとって、そうして、その人の天命が
真っすぐに明るく神様に向かって貫いて
行けるように、守護霊とか守護神が道を備えてね、
そして、あなた達がこの世に生きていく糧も、
肉体を養ってゆくべき色々なものも、悲しみも
辛さもいつの間にか癒していくように、
道をつけてゆく訳ですね。そこへの信仰
というものが、我々にとって一番大事になって
いく訳です。
ところが、やっぱり人間というのは
弱いでしょう。斉藤さんが、おれがおれがという
そのがを取ってと書いたでしょ。そのが(我)を
取ってというけども、なかなか我というものは
なくならないんですよ。だから、世界平和の祈りが
ある。その我をもって、すいません任せ切れない
私ですけれども、どうぞ世界平和の祈りの中で、
祈りのエレベーターの中で、五井先生の柏手
によって口笛によって、あるいは霊団の皆さんの
光によって、神様の愛によって、そうして、この
我を少しでも少なくして下さい、消して下さい
と言って祈る。
その時には、少なくして欲しいと想って祈って
いても、こっちから見ていれば、もう空っぽに
なってるんです、皆さんは。だけども、皆私なんて
とか私なんかが祈ったってとか、そういう想いが
しみついちゃってるからね、だから出来ないん
ですよね。空っぽになっていると想えないんですね。
昌美とか裕夫君とか真宏会が今一所懸命やって
いる、それというのは、皆がね、空っぽに
なってる、つまり、任せてしまうと器になれるんだ
ということね。それは、私がやってるとか何とか
想ってしまうと、苦しくってなれないんですね。
肉体の人間というものは、余分なものを地球上に
降りてから一杯くっつけちゃったから、その肉体の
人間を自分自身だと思っている以上はね。自分の
感情の動き快不快だけを自分だと思ってる以上は、
そこへとどまっちゃうんですよ。それが自分
だと思っちゃう。ところが、神様というのは
そうじゃない。あなた方の生き方とかおもい方
とかね、それから、過去の苦しみとか、全部、
歴史というものはご存知の上でね、しかし、
あなた方の中に貫いている、明るい生命そのものを
引っぱり出そう引っぱり出そうと思ってる訳ね。
で、素直にさせよう素直にさせようとね。苦しい
けども行ったらこうなるよということを示しながら、
何とか明るい方へ明るい方へというのが神様
なんですよ。何故かというと、あなた方の元の生命
というのは明るいんだから。神様が明るい方へ
明るい方へ、光明の方へ光明の方へ、光の方へ
光の方へなんです。だから皆が光の子なんです。
何度も言うけれども、やっぱり毎日のこと、煩い
とか何だとかやって過ごしてゆくと、とても
そんなこと思えないでしょ。だから、
その思えないなあ、とてもそうじゃあないなあ
というのを、もう死ぬまでね、何百回何千回
思ったって構わない。そうは思えない、そこまでは
私はいかない、そこまでは俺はそんなとても
じゃないけど、五井先生が言うようなところまで
いかないと思って構わないから、とに角、祈りの
中へ入っちゃいなさいよ。入っちゃったら後は、
守護霊さん守護神さんや私だとか皆で、洗って
きれいにして、そうして、又明日やっていく力を
こっちから与えてあげるんだからね。ただ、私が
するんだと思えば苦しくってしょうがないんです。
それはさせていただくということなんです。
そのさせていただくというのが皆間違うのはね、
いい事をさせていただくのならば、こりゃあ皆
気持ちいいですよ。ところがね、この世の中
人間関係です絶対にね。そうしますと、こっちが
いくら真心をこめて誠実を尽くしてやっても、
ある時とても辛いことがやってきたり、悪口雑言
がきたりね。あるいは、集会なんかなすって
ますと、色んな中傷が来たりね、つまんない我が
出てきますでしょ。
しかし、そういうことを勉強して、そうして、
荷を負わせていただいて、で、悪口を言われると、
やっぱりそれもありがとうなんですよ。それ
だって、私が受けさせていただきますなんです。
だから、あの人はこんなこと言って、こんな
考え方をしてけしからんというのは、やっぱり
消えてゆく姿なんだね。けしからんという想いは
辛いけれども、それで過去世のあなた方の何か
業というものが一つずつ消えるんですよ。だから、
カッと腹が立った時に、あっと思ってね、反省
するだけじゃなくて、ああこれで消えたんだなあ、
ありがとうございますと思えたら、そこで光が
入るんですね。そこで、たとえあなた方が
思えなくても、その時にさあっと守護霊さんや
守護神さんや私の方から光が行くんですよ。
そこを信じるということが任せるということ
なんです。
我々は、肉体の我々を我々だと思っている以上は
限界がありますよ。体力にだって気力にだってね
限界がある。肉体というものはいつか脱がなきゃ
いけない。百年生きる人は少ない訳でしょ。
その百年の間たとえ生きたとしても、生き生きと
毎日喜び深くなんて、そんなことはなかなか
出来にくい訳ですよ。そうじゃなくて、肉体に
おもきを置くんじゃなくてね。私の生命を
つき動かしているものは神様なんだ、神様の愛
なんだ。私の深いところは神様がみんな
ご存知なんだ。だから、今は私は辛いけれども、
何だか分からない程辛いけれども、しかし、
神様が全部抱きとって、祈って、明るい方へ
導いて下さるんだというそこだけ信じることが
出来ればね、そういうことを思って、あるいは
念じて祈ることが出来ればですね、そうしたら
もうこれは明るい方へ生命の大元の方へ、
皆さんの流れがいくに決まってるんです。
そうなるように、世界平和の祈りを私が
大神様から受けたんですね。これでなきゃ
救われないんですよ。皆凡夫なんだから。
皆神様と同じですといったって、この
できそこないの自分のどこが神様なんだろう
かと思ったら、もう苦しくって辛くって
やりきれない。つき詰めていくと、一日だって
生きちゃいられない位になるね。そうじゃ
ないんです。そういう弱さとか辛さとかいう
ものをもってて構わない。この間も言ったけど、
そういうものが人の話を聞く時の財産に
なるんですよ。だから、弱いから駄目なんだ
ではなく、駄目をね押し出す為に神様が
いる訳じゃない。そういう弱さをあなた方は
もってるけれど、もっともっと奥には光を
もってるんだと。
光が自分たちの中にある、それをうまく神様
引き出して下さい。守護霊様守護神様引き出して
下さい。五井先生お願いします。皆さんお願い
しますと言って預けることね。想いの銀行に
預けることですよ。私に預けること。それを
やっていくことですよ。そうすると、我々の
生命がもういつの間にかきれいに掃除をされて
大生命の中へ完うされてゆくんです。私達の
天命が完うされますようにという祈りが
あるでしょ、あれはこれなんですよ。
自分では掃除が出来ないけれども、神様
お願いしますといって任せてしまえば、
いつの間にか軽くして下さるんです。
ただ人間は、毎日毎日二十四時間という時間の
単位で生きていますからね。今祈って、早く
とって欲しい。早く早くと想うとそれがやっぱり
業になるの。その早く早くという気持ちは
分かるけれども、早く早くと想えば想う程、
こっちは掃除しにくいんだな。しにくいから
任せる。そして、任せたんだからあとは
神様の方でよくして下さると思って、こっちへ
呼びかけて下さればね、とに角やりやすいんだ。
ところが、それを人間というのはなかなか
やりにくいんですよ。だから、こっちから光を
送って色々やるんだけれどもね、とてもじゃ
ないけど、やっぱり呼びかける対象祈りの
対象がなきゃ駄目だ。
そうして、その祈りの対象が、ただ神様と
いうんじゃなくて、世界人類が平和で
ありますようにと言って、世界の人々の、
全宇宙人類の真心に向かって呼びかける
ことによって、あなた方一人一人もその
真心の中に入っちゃうんです。そういう大きい
深い祈りの中で浄められることによって、神様の
愛念が私達をつき動かしているということをね、
ここで何ていうかなあ、胸が一杯になっちゃう
けれども、きっちりと覚えていただいて
やって行って欲しいなあと思いますねえ。
壇上からこうやって見てますとねえ、
この世の中の色んな有様が分かる訳ですよ。
そして、あなた方の一人一人の気持ちの動きも
分かるわけ。だから、一人一人の中へ本当は
降りていって、そうして、辛いね苦しいね
と言ってあげたいですよね。本当にそうだよね。
そうだけれども、そこにとどまっちゃあ、
肉体人間のこの限界のところだけに
終っちゃうんですね。
我々の生命というのは、何度も言うけれど、
本当は明るいもんだから、そこを見つめた人間が
言うんだから、これは間違いないですよ。私が
全部引き受けたんだから、私の方へ色んな煩いを
みんな投げてくれればいいんです。
ただ焦ったら駄目なんだね。私も本当に
気短かで、悟る前も悟った後もあんまりいい人間
ではなかったけどさ、やっぱり焦るんですよ。
でも、焦ったら本当に神様が光を出しにくく
なるんだよね。そのことだけを覚えてね、
そうして、すいません色々な想いが出ます
けれども、よろしくお願いしますという気持ちで
統一をして下さいな。そうすると、こっちが
あなた方のそういうものは全部分かっているから、
悪いようにはしませんよ。
絶対に悪いようにはしませんから、そこの
ところを信じるということね、おもいではなくて、
信仰というのはね、神様が絶対に我々を悪いよう
にはしないんだ。神様は絶対に私達を愛して
下さるんだ。たとえ明日死んでも私達は神様の器
なんだ。その為に私達はここにいるんだ。
そういう自信をもって祈る。祈って、動く。
それは言葉だけじゃないんです。そういう風に
一旦思っちゃえば、あなた方の体というのは、
あなた方が自覚するしないに関わらず、とに角、
祈りで一杯になるんですよ。世界平和の祈りで
一杯になる。あるいは、神様という想いで一杯に
なってるんですよ。あなた方にはそれは分から
ないけれども、こっちから見てると
そうなんですよね。
だから、神様の想いで一杯になって、神様の
祈りで一杯になって、神様という呼びかける声で
一杯になってるあなた方を、本当にいいように、
その場その場でね、用いて下さる。たとえ、祈りの
場所にいなくてもね、職場であっても、煩わしい
人間関係の中であっても、あなた方がふっと自分を
消して仕事に勤しむ時に、あるいは、人と話を
する時に、その相手だけじゃなくて、まわりにも
神様の光というものは及ぶんですね。そんなもの
なんです。神様というのは何だかんだ言い訳を
しませんよ。予告もしません。私だって預言を
したことはないですよね。預言は嫌いだもの。
預言なんかしたら、それに把われちゃって、
五井先生はああ言ったのにならないじゃないか、
という想いに把われるでしょ。だから預言
しません。預言しないということはね、
ある意味で辛いことがあるけれども、でも、
本当に神様の生命にあなた方を導いていく
為には、あなた方が素直で明るい生命である
ということを知らせていく為には、ただただ
私は無心に祈って、あなた方に光を送る。
それだけなんです。だから、そのことをよく
覚えて、祈りに勤しんで下さい。
昭和63年8月26日
いつも申しておりますように、神様の愛念
というものは、これは絶えることなく、
ゆるしの大河ともいうべき大生命の根元から
流れてきているものであります。そして、
神様の愛念というものは、我々人間のこの
肉体や想いや、我だとか何だとか、余分な
ものが色々くっついてはいるけれども、
しかし、その中を貫いて流れている。つまり、
神様の愛念というものは、離れて何か遠くに
あるものではなくて、自分の中に絶えず
息づいている。生命そのものなんだという
ことをまずここで覚えておかないと、我々は
大変な間違いをすることになってゆく。
今、何でもって生きていったらいいか
分からないというような生きにくい世の中
ですよね。不安がある、色んなことが起こって
くる。事故はあるし、災害はあるし、
今年みたいに天候が不順じゃあとか
言ってるけれども。実際に毎日毎日、
今もどこかで大雨が降り雷が鳴って、雷に
打たれて死ぬ人だってある。雨に流されて
家がどっかへいっちゃう人もある。つぶれて
下敷きになってけがをする人やなくなっちゃう
人がある。そういう不浄の世の中というもの、
これを見ていると、何を頼りにして何を
よりどころにして生きていったらいいか
分からないという不安がつきあげてくる。と
いうのがこの世の中の本当のところであります。
で、そういうところをふまえて、私は何を
申し上げるかというと、我々というものは、
常に神様の愛によって生きているのである
ということ。これを忘れてしまっては
困るんです。ここが本道なんです。
なくなったり何だかんだしているが、
それが何で神様の愛なんだと、肉体をもつ
人間は思うけれども、しかし、神様の愛と
いうのはね、あなた方一人一人の天命を
抱きとって、この世だけじゃなくてずっと
深い天命を愛して、そうして、もちろん、
あなた方という一人一人を愛して、そこを
見つめての光をむこうから流し続けて
いらっしゃる。その愛なんですね。だから、
個人の小さな喜びもささやかな喜びも、
良かったねといってむこうから光を送って
下さるけれども、しかし、一人の人間の
生き死にが問題ではないというところに
神様の愛というものがあるんです。
こう言うと、非常に無情のように思う
けれどもね、そうじゃない。つまり、本当に
人間の姿、そして、神様の愛というものを
知って行く時には、肉体の死とか、いくつで
死んだとか、若くて死んでしまってかわいそう
だとか、そういうことというのは何となく
問題にならなくなってくる。
私なんかは、むこうの方からこっちを今
見てますでしょ。そうしますと、本当に
こっちもむこうもないんですよね。むこうの
世界もこっちの世界も、ずうっと連なっている。
ただ、あなた方の場合は、肉体の肉眼という
目でもってみているから、あっちの世界が
見えてこないだけで。
しかし、そういう把われも何もかも捨てて
しまってね、祈り一念、世界平和の祈り一念に
なって、五井先生、神様、お願いしますと。
世界平和の祈りで教義を唱える。その教義を
唱えるということはどういうことかというと、
つまり、無になって、自分もなく人もなく、
自分が祈るということも忘れて、その大きな
流れの中へ入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が消えるんですよ。
肉体の波が消えて、そうして、自分がここにいる
ということも忘れて、ただ、祈りの光と一緒に
なっていく。そういうものなんですね。本来
そういうものなんです。それは、どんな赤ん坊
であっても子供であっても、あるいは、老人
であっても、神様を知らないと思っている様な
人であっても、あれは無神論者だと皆が非難
するような人であってもね、そのスイッチ
というものはもってるんです。
いつも申しますように、信仰というのは、
例えば、キリスト教なら礼拝堂へ行き、あるいは
お寺に行って、神様とか仏様に祈って、その
祈る姿だけが信仰じゃない。芸術家は芸術家で、
音楽家は音楽家で、大工さんは大工さんで、
一所懸命に何か一つのことに打ち込んで、
無になって一つのことを成し遂げる。その中に
神様がいらっしゃる。その中で神様が働くんです。
自分をなくした時に神様というものが現われて
くる。愛念というものは現われてくる。その愛念
というものが現出して、そうして、本当に今度は
神様の愛に洗われる。
我々の生命というものは、毎日毎日毎瞬毎瞬
新しくなってゆくんですね。そういうことが
本当は生きるということなんです。
そんなこと言ってもね、五井先生、やっぱり
毎日死んでゆく人がある、重病の床にふしてる
人がある、事故にあって困ってる人がある、
そういう悲しみというのはどうなるんですかと、
皆思うでしょうねえ。確かにそれはそうなんですよ。
私だって、愛弟子を何人も失くしたり、大けがを
して入院させたり、ありますよ、この世の中に
いた時にはね。だけども、心配してるけれども
心配しないんだよ。高橋君に答えたことが
あるけれども、分かるかね、やっぱり心配してる
けれども心配しないんです。心配してるというのは、
この肉体の人間の気持ちというものを
味わってしまうと、確かに心配なんです。オロオロ
しますよ。どうなるだろう。手術が必要ならば
早く手術が成功してと思います。それは人間の情
というものなんです。自然なんです。そこで
オロオロしたり、弱くなったり、神様がいるん
だろうかと思ったり、そういうことは私は否定
しませんよ。私はそういう気持ちを通り抜けて
きてるんだから。
だけども、そこを通り抜けたところで、神様
というものは、もう一つ深いところでね、人間を
抱きとって、そうして、その人の天命が
真っすぐに明るく神様に向かって貫いて
行けるように、守護霊とか守護神が道を備えてね、
そして、あなた達がこの世に生きていく糧も、
肉体を養ってゆくべき色々なものも、悲しみも
辛さもいつの間にか癒していくように、
道をつけてゆく訳ですね。そこへの信仰
というものが、我々にとって一番大事になって
いく訳です。
ところが、やっぱり人間というのは
弱いでしょう。斉藤さんが、おれがおれがという
そのがを取ってと書いたでしょ。そのが(我)を
取ってというけども、なかなか我というものは
なくならないんですよ。だから、世界平和の祈りが
ある。その我をもって、すいません任せ切れない
私ですけれども、どうぞ世界平和の祈りの中で、
祈りのエレベーターの中で、五井先生の柏手
によって口笛によって、あるいは霊団の皆さんの
光によって、神様の愛によって、そうして、この
我を少しでも少なくして下さい、消して下さい
と言って祈る。
その時には、少なくして欲しいと想って祈って
いても、こっちから見ていれば、もう空っぽに
なってるんです、皆さんは。だけども、皆私なんて
とか私なんかが祈ったってとか、そういう想いが
しみついちゃってるからね、だから出来ないん
ですよね。空っぽになっていると想えないんですね。
昌美とか裕夫君とか真宏会が今一所懸命やって
いる、それというのは、皆がね、空っぽに
なってる、つまり、任せてしまうと器になれるんだ
ということね。それは、私がやってるとか何とか
想ってしまうと、苦しくってなれないんですね。
肉体の人間というものは、余分なものを地球上に
降りてから一杯くっつけちゃったから、その肉体の
人間を自分自身だと思っている以上はね。自分の
感情の動き快不快だけを自分だと思ってる以上は、
そこへとどまっちゃうんですよ。それが自分
だと思っちゃう。ところが、神様というのは
そうじゃない。あなた方の生き方とかおもい方
とかね、それから、過去の苦しみとか、全部、
歴史というものはご存知の上でね、しかし、
あなた方の中に貫いている、明るい生命そのものを
引っぱり出そう引っぱり出そうと思ってる訳ね。
で、素直にさせよう素直にさせようとね。苦しい
けども行ったらこうなるよということを示しながら、
何とか明るい方へ明るい方へというのが神様
なんですよ。何故かというと、あなた方の元の生命
というのは明るいんだから。神様が明るい方へ
明るい方へ、光明の方へ光明の方へ、光の方へ
光の方へなんです。だから皆が光の子なんです。
何度も言うけれども、やっぱり毎日のこと、煩い
とか何だとかやって過ごしてゆくと、とても
そんなこと思えないでしょ。だから、
その思えないなあ、とてもそうじゃあないなあ
というのを、もう死ぬまでね、何百回何千回
思ったって構わない。そうは思えない、そこまでは
私はいかない、そこまでは俺はそんなとても
じゃないけど、五井先生が言うようなところまで
いかないと思って構わないから、とに角、祈りの
中へ入っちゃいなさいよ。入っちゃったら後は、
守護霊さん守護神さんや私だとか皆で、洗って
きれいにして、そうして、又明日やっていく力を
こっちから与えてあげるんだからね。ただ、私が
するんだと思えば苦しくってしょうがないんです。
それはさせていただくということなんです。
そのさせていただくというのが皆間違うのはね、
いい事をさせていただくのならば、こりゃあ皆
気持ちいいですよ。ところがね、この世の中
人間関係です絶対にね。そうしますと、こっちが
いくら真心をこめて誠実を尽くしてやっても、
ある時とても辛いことがやってきたり、悪口雑言
がきたりね。あるいは、集会なんかなすって
ますと、色んな中傷が来たりね、つまんない我が
出てきますでしょ。
しかし、そういうことを勉強して、そうして、
荷を負わせていただいて、で、悪口を言われると、
やっぱりそれもありがとうなんですよ。それ
だって、私が受けさせていただきますなんです。
だから、あの人はこんなこと言って、こんな
考え方をしてけしからんというのは、やっぱり
消えてゆく姿なんだね。けしからんという想いは
辛いけれども、それで過去世のあなた方の何か
業というものが一つずつ消えるんですよ。だから、
カッと腹が立った時に、あっと思ってね、反省
するだけじゃなくて、ああこれで消えたんだなあ、
ありがとうございますと思えたら、そこで光が
入るんですね。そこで、たとえあなた方が
思えなくても、その時にさあっと守護霊さんや
守護神さんや私の方から光が行くんですよ。
そこを信じるということが任せるということ
なんです。
我々は、肉体の我々を我々だと思っている以上は
限界がありますよ。体力にだって気力にだってね
限界がある。肉体というものはいつか脱がなきゃ
いけない。百年生きる人は少ない訳でしょ。
その百年の間たとえ生きたとしても、生き生きと
毎日喜び深くなんて、そんなことはなかなか
出来にくい訳ですよ。そうじゃなくて、肉体に
おもきを置くんじゃなくてね。私の生命を
つき動かしているものは神様なんだ、神様の愛
なんだ。私の深いところは神様がみんな
ご存知なんだ。だから、今は私は辛いけれども、
何だか分からない程辛いけれども、しかし、
神様が全部抱きとって、祈って、明るい方へ
導いて下さるんだというそこだけ信じることが
出来ればね、そういうことを思って、あるいは
念じて祈ることが出来ればですね、そうしたら
もうこれは明るい方へ生命の大元の方へ、
皆さんの流れがいくに決まってるんです。
そうなるように、世界平和の祈りを私が
大神様から受けたんですね。これでなきゃ
救われないんですよ。皆凡夫なんだから。
皆神様と同じですといったって、この
できそこないの自分のどこが神様なんだろう
かと思ったら、もう苦しくって辛くって
やりきれない。つき詰めていくと、一日だって
生きちゃいられない位になるね。そうじゃ
ないんです。そういう弱さとか辛さとかいう
ものをもってて構わない。この間も言ったけど、
そういうものが人の話を聞く時の財産に
なるんですよ。だから、弱いから駄目なんだ
ではなく、駄目をね押し出す為に神様が
いる訳じゃない。そういう弱さをあなた方は
もってるけれど、もっともっと奥には光を
もってるんだと。
光が自分たちの中にある、それをうまく神様
引き出して下さい。守護霊様守護神様引き出して
下さい。五井先生お願いします。皆さんお願い
しますと言って預けることね。想いの銀行に
預けることですよ。私に預けること。それを
やっていくことですよ。そうすると、我々の
生命がもういつの間にかきれいに掃除をされて
大生命の中へ完うされてゆくんです。私達の
天命が完うされますようにという祈りが
あるでしょ、あれはこれなんですよ。
自分では掃除が出来ないけれども、神様
お願いしますといって任せてしまえば、
いつの間にか軽くして下さるんです。
ただ人間は、毎日毎日二十四時間という時間の
単位で生きていますからね。今祈って、早く
とって欲しい。早く早くと想うとそれがやっぱり
業になるの。その早く早くという気持ちは
分かるけれども、早く早くと想えば想う程、
こっちは掃除しにくいんだな。しにくいから
任せる。そして、任せたんだからあとは
神様の方でよくして下さると思って、こっちへ
呼びかけて下さればね、とに角やりやすいんだ。
ところが、それを人間というのはなかなか
やりにくいんですよ。だから、こっちから光を
送って色々やるんだけれどもね、とてもじゃ
ないけど、やっぱり呼びかける対象祈りの
対象がなきゃ駄目だ。
そうして、その祈りの対象が、ただ神様と
いうんじゃなくて、世界人類が平和で
ありますようにと言って、世界の人々の、
全宇宙人類の真心に向かって呼びかける
ことによって、あなた方一人一人もその
真心の中に入っちゃうんです。そういう大きい
深い祈りの中で浄められることによって、神様の
愛念が私達をつき動かしているということをね、
ここで何ていうかなあ、胸が一杯になっちゃう
けれども、きっちりと覚えていただいて
やって行って欲しいなあと思いますねえ。
壇上からこうやって見てますとねえ、
この世の中の色んな有様が分かる訳ですよ。
そして、あなた方の一人一人の気持ちの動きも
分かるわけ。だから、一人一人の中へ本当は
降りていって、そうして、辛いね苦しいね
と言ってあげたいですよね。本当にそうだよね。
そうだけれども、そこにとどまっちゃあ、
肉体人間のこの限界のところだけに
終っちゃうんですね。
我々の生命というのは、何度も言うけれど、
本当は明るいもんだから、そこを見つめた人間が
言うんだから、これは間違いないですよ。私が
全部引き受けたんだから、私の方へ色んな煩いを
みんな投げてくれればいいんです。
ただ焦ったら駄目なんだね。私も本当に
気短かで、悟る前も悟った後もあんまりいい人間
ではなかったけどさ、やっぱり焦るんですよ。
でも、焦ったら本当に神様が光を出しにくく
なるんだよね。そのことだけを覚えてね、
そうして、すいません色々な想いが出ます
けれども、よろしくお願いしますという気持ちで
統一をして下さいな。そうすると、こっちが
あなた方のそういうものは全部分かっているから、
悪いようにはしませんよ。
絶対に悪いようにはしませんから、そこの
ところを信じるということね、おもいではなくて、
信仰というのはね、神様が絶対に我々を悪いよう
にはしないんだ。神様は絶対に私達を愛して
下さるんだ。たとえ明日死んでも私達は神様の器
なんだ。その為に私達はここにいるんだ。
そういう自信をもって祈る。祈って、動く。
それは言葉だけじゃないんです。そういう風に
一旦思っちゃえば、あなた方の体というのは、
あなた方が自覚するしないに関わらず、とに角、
祈りで一杯になるんですよ。世界平和の祈りで
一杯になる。あるいは、神様という想いで一杯に
なってるんですよ。あなた方にはそれは分から
ないけれども、こっちから見てると
そうなんですよね。
だから、神様の想いで一杯になって、神様の
祈りで一杯になって、神様という呼びかける声で
一杯になってるあなた方を、本当にいいように、
その場その場でね、用いて下さる。たとえ、祈りの
場所にいなくてもね、職場であっても、煩わしい
人間関係の中であっても、あなた方がふっと自分を
消して仕事に勤しむ時に、あるいは、人と話を
する時に、その相手だけじゃなくて、まわりにも
神様の光というものは及ぶんですね。そんなもの
なんです。神様というのは何だかんだ言い訳を
しませんよ。予告もしません。私だって預言を
したことはないですよね。預言は嫌いだもの。
預言なんかしたら、それに把われちゃって、
五井先生はああ言ったのにならないじゃないか、
という想いに把われるでしょ。だから預言
しません。預言しないということはね、
ある意味で辛いことがあるけれども、でも、
本当に神様の生命にあなた方を導いていく
為には、あなた方が素直で明るい生命である
ということを知らせていく為には、ただただ
私は無心に祈って、あなた方に光を送る。
それだけなんです。だから、そのことをよく
覚えて、祈りに勤しんで下さい。
昭和63年8月26日