こうやって壇上から見ていますと、本当に
光が満ちておりましてね。皆さんの体からも
心からも、それから、気持ちの流れからもね、
本心からも、ありとあらゆるところから光が
出ていて、そうして、お互いの体とか心だけ
じゃなくて、光がお互いに呼び合って、
大光明になって内も外も浄めてゆく。
そういう情景が私の方から見えます。
本当は、人間のその見える見えない
ということなどは些細なことでしてね、
ささやかなことで。光というものはとに角
あるんだということ、光の命によって我々は
生きているんだということ、そのことが
一番大事なことなのであります。
光の命というのは何かというと、これは
神様の命だ。神様というのは何かというと、
これは愛と平和とゆるしの源だ。愛と平和と
ゆるしというものが我々の生命の根幹にも
なっているし、大宇宙の秩序にもなって
いるし、もう話を大きく深くしていったら、
神様という方は、この三つのものを現わす
為のものにすぎないと。大愛という大河の
流れの中にいらっしゃる、それが神様だ
ということが言えるんでありますが、しかし、
そこまで話を大きくしなくても、私達の中に
この光が交通しておりましてね、交流して
我々は実は生きてゆくことが出来る。
光というものを見えなくても、例えば、
ほほえみですね、笑顔によって心を
なごませることができる、なごむ心がある
ということを申しましたけれども、その笑顔の
中にやっぱり光が宿るんです。
ろうそくの光がポーッとともるとそこが
明るんで、そうして、夕暮れ時や夜など、
他にあかりがありませんと、そこにあかりが
集中しますね。そして、お盆に、宗派に
よってはね、浄土真宗なんかだと、お迎えの
桃燈があり、そのあかりを頼りにして帰って
くるという信仰がありますね。
そういうろうそくの一本のあかりというものが、
その中に何が入っているかというと、皆の愛念
ですね。迎えよう迎えたい、一緒になりたい
一体になりたいと。私達は、生きている人も
死んでいる人もそうですけれども、この人と
一体になりたい、話がしたい、仲良くなりたい、
喧嘩をしたくない、色々な想いでもって、
相手と関係を結んでゆく。相手と仲良く
なりたいということで笑顔を送る時に、
その中に光が入るんですね。祈りが
入ってゆくんですね。その時に、別に
南無阿弥陀仏と言わなくとも、祈り言を
唱えなくとも。だから、笑顔というものは
すごいものです。笑顔は本当に光を
生み出すものですね。
本当に信心深いということはどういう
ことかとよく聞かれますけれど、本当に
信心深いということは、ただひたすら神様と
一体になっていて、そして、神がかりになる
というんじゃなく、ちゃんと自分を持ち、
その上で何かひたすらに打ち込んで、
喜んで、動いている。語っている、働いて
いる。その時に、信仰というか信心というか、
そういうものが動いてゆく。と私は思います。
そのあたりが、我々の肉体を本当に
動かしてゆくもんである。
ところが何か信仰といいますとね、遠く
離れたもののような、あるいは、神様や仏様
というものも遠く離れたもののような、光明
とか何とかいいますけれども、それも何か
自分からは遠く離れたもののような、そういう
気持ちに皆なりがちですけれども、そうでは
ないんですね。あなた方も一人一人が皆光
なんです。
そうして、その光というのは、目には
見えなくても、例えば、笑顔で人に接する
時に、自分の中のもともともたされている、
いただいている生命というものの中から光が
奥深く出てまいりまして、その光がパーッと
あたりを照らしてゆく。だから、よく歩くだけで
お浄めになるということを申しましたが、実際
そうなんです。自分は何も思っていない、
お浄めするとか何とかいっさい考えないで、
動いてゆく、歩いてゆく。ただ無心に
歩いてる。何にも考えないでぼんやり
歩いている。歩いているんだけれども、
それだけであたりが浄まってゆく。本当の人間
というものはそういうもんですね。
神様の愛というのはそういうもんですね。
例えば、太陽というものは、誰を照らして
誰を照らさないということはありません。又、
この人は優しい人だからここには雨を
降らせて、この人はいじわるだからここには
日照りでと、そういうこともありません。皆
平等に、神様は雨を降らしたり照らしたり
色々します。あるいは、星の光などという
ものもずい分人間の心の慰めになります。
星の光や日の光をうたった詩だとか言葉
だとかいうものも沢山ありますね。そういう
ものを通して我々の心が慰められるのは、
私もうたをよみますけれども、詩人や歌人
という人々が神様の心というものを感受
いたしまして、感じとりましてね、そうして、
その心をいただいてうたや詩にする。
そうすると、それがひびきになって我々の
中へ帰ってきて、そして、我々の中の生命の
火をかき立てて、往相還相じゃ
ありませんけれども、我々の中の光が
まわりまわってですね、あたりを浄めて
ゆくんですね。
そういう風に考えますとね、ここだけが
光に満ちているとか、あそこは光に満ちて
いるとか、ここは光がないとか、というのは
これはやはり人間の想いなんですね。
人間の想いというものは、実にさまざまな
世界をつくります。例えば、この人と仲良く
なりたい、この人といつまでもつき合いたい
と思うと、やわらぎの光が出ますね。そして、
争いたくないというただ単なる平和主義者
ではなくて、本当に調和をして生きてゆく。
その為の祈りによって、祈りの光が
出るから、やわらぎがまことになっていって、
なぐさめになっていって、本物の光が出る。
だけども、別のことも言える訳です。我を
もってる人間の側から言えば、こんな人とは
仲良くなりたくないとかね、ありますよね。
あいつの顔なんか見たくないとかね。あり
ますでしょ。そういうことで分けてしまうと、
そこにたちまち闇が出てきますね。そして、
何かいやな空気になってまいりますね。
それは人間の想いがつくり出す世界。
不思議なことに、やわらぎの世界も、
それから、いやな空気の世界も不安に
満ちた世界も、皆これはどこから出てくるか
というと、これは人間の想いから出てくる。
実に、人間というものはさまざまなものを
つくり出すことが出来る存在。ところが
これは皆空なんです。本当の真実の
姿のものではございません。
本当の真実の姿というのは、それでは
何かといえば、それはどんな時にも
動かされない、どんな時にも迷うことがない、
疑う余地のない神様の愛の光というもの。
例えば、どんな業の中にあっても、その
業をゆるやかに、愛情をもって消して
ゆきながら、ついに、その業の闇をも光に
変えてゆく、そういう大愛。それが真実の
光の世界であります。
で、この真実の光の世界というものを、
実は私達はそれぞれの心の中にもって
おりまして、本当はこれが原動力になって
私達が生きてゆくことが出来るということ
であります。
ですから、そこへずっと気持ちを集中し
心を集中し、祈りを集中してゆけばですね、
いつも私が申しましたけど、一分キリスト
一分釈迦一分老子になることができる。
老子が無為と申しましたのは、何もしない
ということではありません。あるがままの
自己というものをほがらかに認めて、
そうして、そのほがらかな自己というものを
さらにポーンと投げ出して、笑顔でもって
それを見つめていると、そこから光という
ものが見えてくる。光以外に見えてくるものは
ない。そういう世界であります。そういう世界に
本当は人間は遊ぶことができる。
荘子に逍遙遊篇(しょうようゆうへん)
というのがございます。逍遙遊篇というのは
何かというと、ご存じの方もあるかも
わかりませんけれども、つまり、大鳥鳳凰
というのがあって、鳳凰(ほうおう)のあの
大きな鳥が天空をかけ巡ってゆく、その
姿の壮大なこと、それを最初にうたって
おります。そうして、鳳凰というのは元を
正せば、北の方に大きな海があって、そこに
こんという大きな魚がいて、その大きなこん
という魚が鳳凰になったんだという風に、
冒頭に書いてあります。で、後の注釈者
などは、これは何を言っているのかよく
分からない。非常に混沌として、大魚が出て
きたり、鳳凰が出てきたり、なんだか
気宇壮大ではあるけれども、それ以上何を
言おうとしているのか、非常に空想的な物語
であると、たいがいの人がそういうことを
申します。
けれども、人間の智恵とか知識とかいう
ものでは推しはかれない程の、深くて大きい、
天空そのものさえもおおいつくしてしまう
ような、そういう絶対的な愛の存在という
ものがございまして、そして、それが、この
地上に生きている私達も、あるいは、地上に
這っているけものたちも、すべての
草木たちも、ありとあらゆる生命の中に
息づきを与えているのだということ。その
ことを覚えていただきたいと思うのであります。
つまり、我々の生命というものは、我々の
想いいかんに関わらず、憂い辛いとか色々な
ことがございますけれども、そういうものに
関わらず、我々の中で光へ光へと導いて
いく、我々を明るい方へ明るい方へと導いて
ゆく。そうしてついに、真実に何ものにも
動かされない、不動の心と私は申しました
けれども、そういう不動の心に導かれて、
そうして、光そのもの、光一妙の世界へ
連れていって下さる。そういうことなんです。
そして、それは遠くにあるのではない。
神様というのは、あなた方がお呼びに
なれば、あなた方のすぐそばへ来て下さる。
守護の神霊たちは、お呼びになればすぐ
来て下さる。そして、寄り添って下さる。
目には見えないかもわからない。けれども、
祈りの中に神様を呼べば、あるいは、
五井先生を呼んでもですね、すぐあなた方の
そばに行ってあなた方を守り、あなた方を
支えて、そうして、光へ光へ、明るい方へ
明るい方へ導いてゆく。で、ここを根幹と
いたしませんことには、闇と見えるものを
闇と見まちがえてしまいます。思いまちがって、
憂い辛い世の中のこの表面の現象面のこと
だけに把われてしまって、自分も憂い辛い
そのうずに巻き込まれてしまいます。
けれども、本当に強いやさしい真実の光の
世界というものは、そういうものに
のみ込まれないものであります。そういう
ものに引きずられないものであります。
あるいは、そういうものを労わり溶かし、
そうして、人間の色々な苦というものを
包み込みながら、さらに深い大きな神様の愛へ
と導いてゆくもんであります。で、ここを
やはり覚えていただきませんことには。
例えば、色々な問題が・・・。皆様方の
集会や支部や、あるいは、全国を巡講なさる
場合に、色々な問題が皆様方のところへ
山積みのようにくると思います。その時に、
こんな大きな問題は今まで私は経験した
ことがない。そんなことは私の手にあまる。
そういう想いに皆把われると思います。
それは把われて当然でございます。
けれども、事の本質は、本当に大事な
つかまなければならないことは、色々な
起こってきている現象というものは二つ
あって、一つは、今私が申しました、皆様の
それぞれの想いによってつくられていく世界が
現象になっていく。前にも申しました様に、
天変地異というものは、皆様の業想念という
ものが、ある時ある一定の限度を越えて
破れて、そして、又、ある調和を取り戻そう
とする時に、大水になったり、大地震に
なったり、この世の中には不幸と見える事柄
でもって大調和へ還ろうとする時の運動
であります。
その元の元の元を正してゆくと、我々
自身の恐怖であるとか色々な不安であるとか、
明日の生活への恐れであるとか悲しみである
とか、大丈夫だろうかという心であるとか、
そういうものが一人二人の間は何でも
ございませんけれども、まだ小さいもの
ですけれども、何百人何千人何万人何億
という人のその想いが積み重なった時に、
うっと爆発をしまして、それがどっと大洪水に
なり、あるいは、地震になり、大火事になり、
あるいは、今、南極の氷が解けているとか、
そういう現象になっている。あれは決して
フロンガスだけの問題ではありません。
あれは業のそういう積み重なりも
ございます。
そういう想いの世界からつくられている
場合と、それから、守護の神霊がわざと置く
つまずきの石、修行への為の石という場合と
両方ございます。これは非常に難しいもので
ございまして、これを見分けるということは、
とても人間わざではなかなか出来ません。
その時に何が一番大事になってくるか。
色々な問題を皆様がお聞きになる時に、
あるいは、どうしても持ち込まれた時に、
判断をあおられた時に、何を基準にして
それに答えてゆくか、浄めてゆくか祈って
ゆくかというか、これは、神様の御心という
ものをやはり大基盤においてしていただか
ないことには、やはり道をまちがってしまう
ことになるのであります。
例えて申しますと、私の手にあまる位の苦
であっても、神様の側から見れば、この人の
この時点での修行の為に置かれたつまずき
の石、つまずきの石ではあるけれども、
さらにこの人の光が輝いて、そうして、
この人の人生が深くなって、ついに天命に
全くとけ入ってしまう。そういう導きの為の
つまずきの石ということがございます。
そこで、ただとに角、それを見分ける。
あるいは、そういう深い智恵の言葉を
出させていただく。そこへいきます為には、
とに角お任せするんだ、私がその時に
判断をしてしまうと非常な苦になります。
例えば、どちらへ行った方がいい
でしょうか。右へ行った方がいいでしょうか、
左へ行った方がいいでしょうか、というような
質問。進学のことにしても就職のことにしても、
あるいは、思うようにならない人生という風な
ことにしても、色々なことが持ち込まれて、
そして、自分の一言でその人の人生が
ある程度、方向方針が決まってしまうという
ような場合に、自分の言葉でもってという風に
思ってしまいますと、責任も重くなりますし、
とても引き受けられるものではございません。
そうではなくて、そういう色々なことという
のは、現象から来ている場合もあります。
つまり、想いの世界からそれが起こってくる
場合も、つまずきの石の場合も両方ござい
ますけれども、しかし、いずれにしても、
それが神様の御心によって、いただき直しの
生命をさらに深くいただく為のものである
という信仰の上に立って、そうして任せ
きってですね、印をきり、あるいは、祈って
いただき統一をしていただき柏手を打って
いただきますと、おのずから深いところからの
言葉というものが、守護の神霊によって支え
られて、皆様方の唇からその言葉が出て
まいります。
このことは一朝一夕に出来ることでは
ございませんので、大変だと思ってしまうと
これはえらいことなので、そんなことは思う
必要はありません。
つまり、おろおろする自分も、頼りないと
思う自分も、色々な自分があってよろしい
訳です。その一つ一つの自分というものを
しりぞけるのではなく、いとおしんで、ああ
こういう自分があるんだなあということを
見つめて、そうしてその上で、あなた方なりに
あなた方の立場で、無理をせずに背伸びを
せずに、その信仰を深めていって
いただきたい。
ただ、物事の本質と申しますか、神様の
本心といいますか、本体と申しますか、
そういう一番はずしてはならない御心の深い
ところというのは、先程から申しております
ようなところにございます。ですから、ここの
ところだけは、データーをまちがえて頭の
すみにおいてしまいますと、とんでもない苦に
なりますので、そこのところだけをやはり
自分の肝に銘じて、そして、祈って、出来る
ことはできる、出来ないことはできない、
出来ないところは助けていただこう、つまり、
他力と自力を融合させて、そうして、皆が
そういう難しいことばかりではなしに、私も
光の国の住人ならばあなたも光の国の
住人なのだというつもりで暮していって
いただいたら、随分とこの世の中は平和に
なっていくと思いますし、光明波動という
ものは益々広がってまいることであると
存じます。
昭和63年8月26日
光が満ちておりましてね。皆さんの体からも
心からも、それから、気持ちの流れからもね、
本心からも、ありとあらゆるところから光が
出ていて、そうして、お互いの体とか心だけ
じゃなくて、光がお互いに呼び合って、
大光明になって内も外も浄めてゆく。
そういう情景が私の方から見えます。
本当は、人間のその見える見えない
ということなどは些細なことでしてね、
ささやかなことで。光というものはとに角
あるんだということ、光の命によって我々は
生きているんだということ、そのことが
一番大事なことなのであります。
光の命というのは何かというと、これは
神様の命だ。神様というのは何かというと、
これは愛と平和とゆるしの源だ。愛と平和と
ゆるしというものが我々の生命の根幹にも
なっているし、大宇宙の秩序にもなって
いるし、もう話を大きく深くしていったら、
神様という方は、この三つのものを現わす
為のものにすぎないと。大愛という大河の
流れの中にいらっしゃる、それが神様だ
ということが言えるんでありますが、しかし、
そこまで話を大きくしなくても、私達の中に
この光が交通しておりましてね、交流して
我々は実は生きてゆくことが出来る。
光というものを見えなくても、例えば、
ほほえみですね、笑顔によって心を
なごませることができる、なごむ心がある
ということを申しましたけれども、その笑顔の
中にやっぱり光が宿るんです。
ろうそくの光がポーッとともるとそこが
明るんで、そうして、夕暮れ時や夜など、
他にあかりがありませんと、そこにあかりが
集中しますね。そして、お盆に、宗派に
よってはね、浄土真宗なんかだと、お迎えの
桃燈があり、そのあかりを頼りにして帰って
くるという信仰がありますね。
そういうろうそくの一本のあかりというものが、
その中に何が入っているかというと、皆の愛念
ですね。迎えよう迎えたい、一緒になりたい
一体になりたいと。私達は、生きている人も
死んでいる人もそうですけれども、この人と
一体になりたい、話がしたい、仲良くなりたい、
喧嘩をしたくない、色々な想いでもって、
相手と関係を結んでゆく。相手と仲良く
なりたいということで笑顔を送る時に、
その中に光が入るんですね。祈りが
入ってゆくんですね。その時に、別に
南無阿弥陀仏と言わなくとも、祈り言を
唱えなくとも。だから、笑顔というものは
すごいものです。笑顔は本当に光を
生み出すものですね。
本当に信心深いということはどういう
ことかとよく聞かれますけれど、本当に
信心深いということは、ただひたすら神様と
一体になっていて、そして、神がかりになる
というんじゃなく、ちゃんと自分を持ち、
その上で何かひたすらに打ち込んで、
喜んで、動いている。語っている、働いて
いる。その時に、信仰というか信心というか、
そういうものが動いてゆく。と私は思います。
そのあたりが、我々の肉体を本当に
動かしてゆくもんである。
ところが何か信仰といいますとね、遠く
離れたもののような、あるいは、神様や仏様
というものも遠く離れたもののような、光明
とか何とかいいますけれども、それも何か
自分からは遠く離れたもののような、そういう
気持ちに皆なりがちですけれども、そうでは
ないんですね。あなた方も一人一人が皆光
なんです。
そうして、その光というのは、目には
見えなくても、例えば、笑顔で人に接する
時に、自分の中のもともともたされている、
いただいている生命というものの中から光が
奥深く出てまいりまして、その光がパーッと
あたりを照らしてゆく。だから、よく歩くだけで
お浄めになるということを申しましたが、実際
そうなんです。自分は何も思っていない、
お浄めするとか何とかいっさい考えないで、
動いてゆく、歩いてゆく。ただ無心に
歩いてる。何にも考えないでぼんやり
歩いている。歩いているんだけれども、
それだけであたりが浄まってゆく。本当の人間
というものはそういうもんですね。
神様の愛というのはそういうもんですね。
例えば、太陽というものは、誰を照らして
誰を照らさないということはありません。又、
この人は優しい人だからここには雨を
降らせて、この人はいじわるだからここには
日照りでと、そういうこともありません。皆
平等に、神様は雨を降らしたり照らしたり
色々します。あるいは、星の光などという
ものもずい分人間の心の慰めになります。
星の光や日の光をうたった詩だとか言葉
だとかいうものも沢山ありますね。そういう
ものを通して我々の心が慰められるのは、
私もうたをよみますけれども、詩人や歌人
という人々が神様の心というものを感受
いたしまして、感じとりましてね、そうして、
その心をいただいてうたや詩にする。
そうすると、それがひびきになって我々の
中へ帰ってきて、そして、我々の中の生命の
火をかき立てて、往相還相じゃ
ありませんけれども、我々の中の光が
まわりまわってですね、あたりを浄めて
ゆくんですね。
そういう風に考えますとね、ここだけが
光に満ちているとか、あそこは光に満ちて
いるとか、ここは光がないとか、というのは
これはやはり人間の想いなんですね。
人間の想いというものは、実にさまざまな
世界をつくります。例えば、この人と仲良く
なりたい、この人といつまでもつき合いたい
と思うと、やわらぎの光が出ますね。そして、
争いたくないというただ単なる平和主義者
ではなくて、本当に調和をして生きてゆく。
その為の祈りによって、祈りの光が
出るから、やわらぎがまことになっていって、
なぐさめになっていって、本物の光が出る。
だけども、別のことも言える訳です。我を
もってる人間の側から言えば、こんな人とは
仲良くなりたくないとかね、ありますよね。
あいつの顔なんか見たくないとかね。あり
ますでしょ。そういうことで分けてしまうと、
そこにたちまち闇が出てきますね。そして、
何かいやな空気になってまいりますね。
それは人間の想いがつくり出す世界。
不思議なことに、やわらぎの世界も、
それから、いやな空気の世界も不安に
満ちた世界も、皆これはどこから出てくるか
というと、これは人間の想いから出てくる。
実に、人間というものはさまざまなものを
つくり出すことが出来る存在。ところが
これは皆空なんです。本当の真実の
姿のものではございません。
本当の真実の姿というのは、それでは
何かといえば、それはどんな時にも
動かされない、どんな時にも迷うことがない、
疑う余地のない神様の愛の光というもの。
例えば、どんな業の中にあっても、その
業をゆるやかに、愛情をもって消して
ゆきながら、ついに、その業の闇をも光に
変えてゆく、そういう大愛。それが真実の
光の世界であります。
で、この真実の光の世界というものを、
実は私達はそれぞれの心の中にもって
おりまして、本当はこれが原動力になって
私達が生きてゆくことが出来るということ
であります。
ですから、そこへずっと気持ちを集中し
心を集中し、祈りを集中してゆけばですね、
いつも私が申しましたけど、一分キリスト
一分釈迦一分老子になることができる。
老子が無為と申しましたのは、何もしない
ということではありません。あるがままの
自己というものをほがらかに認めて、
そうして、そのほがらかな自己というものを
さらにポーンと投げ出して、笑顔でもって
それを見つめていると、そこから光という
ものが見えてくる。光以外に見えてくるものは
ない。そういう世界であります。そういう世界に
本当は人間は遊ぶことができる。
荘子に逍遙遊篇(しょうようゆうへん)
というのがございます。逍遙遊篇というのは
何かというと、ご存じの方もあるかも
わかりませんけれども、つまり、大鳥鳳凰
というのがあって、鳳凰(ほうおう)のあの
大きな鳥が天空をかけ巡ってゆく、その
姿の壮大なこと、それを最初にうたって
おります。そうして、鳳凰というのは元を
正せば、北の方に大きな海があって、そこに
こんという大きな魚がいて、その大きなこん
という魚が鳳凰になったんだという風に、
冒頭に書いてあります。で、後の注釈者
などは、これは何を言っているのかよく
分からない。非常に混沌として、大魚が出て
きたり、鳳凰が出てきたり、なんだか
気宇壮大ではあるけれども、それ以上何を
言おうとしているのか、非常に空想的な物語
であると、たいがいの人がそういうことを
申します。
けれども、人間の智恵とか知識とかいう
ものでは推しはかれない程の、深くて大きい、
天空そのものさえもおおいつくしてしまう
ような、そういう絶対的な愛の存在という
ものがございまして、そして、それが、この
地上に生きている私達も、あるいは、地上に
這っているけものたちも、すべての
草木たちも、ありとあらゆる生命の中に
息づきを与えているのだということ。その
ことを覚えていただきたいと思うのであります。
つまり、我々の生命というものは、我々の
想いいかんに関わらず、憂い辛いとか色々な
ことがございますけれども、そういうものに
関わらず、我々の中で光へ光へと導いて
いく、我々を明るい方へ明るい方へと導いて
ゆく。そうしてついに、真実に何ものにも
動かされない、不動の心と私は申しました
けれども、そういう不動の心に導かれて、
そうして、光そのもの、光一妙の世界へ
連れていって下さる。そういうことなんです。
そして、それは遠くにあるのではない。
神様というのは、あなた方がお呼びに
なれば、あなた方のすぐそばへ来て下さる。
守護の神霊たちは、お呼びになればすぐ
来て下さる。そして、寄り添って下さる。
目には見えないかもわからない。けれども、
祈りの中に神様を呼べば、あるいは、
五井先生を呼んでもですね、すぐあなた方の
そばに行ってあなた方を守り、あなた方を
支えて、そうして、光へ光へ、明るい方へ
明るい方へ導いてゆく。で、ここを根幹と
いたしませんことには、闇と見えるものを
闇と見まちがえてしまいます。思いまちがって、
憂い辛い世の中のこの表面の現象面のこと
だけに把われてしまって、自分も憂い辛い
そのうずに巻き込まれてしまいます。
けれども、本当に強いやさしい真実の光の
世界というものは、そういうものに
のみ込まれないものであります。そういう
ものに引きずられないものであります。
あるいは、そういうものを労わり溶かし、
そうして、人間の色々な苦というものを
包み込みながら、さらに深い大きな神様の愛へ
と導いてゆくもんであります。で、ここを
やはり覚えていただきませんことには。
例えば、色々な問題が・・・。皆様方の
集会や支部や、あるいは、全国を巡講なさる
場合に、色々な問題が皆様方のところへ
山積みのようにくると思います。その時に、
こんな大きな問題は今まで私は経験した
ことがない。そんなことは私の手にあまる。
そういう想いに皆把われると思います。
それは把われて当然でございます。
けれども、事の本質は、本当に大事な
つかまなければならないことは、色々な
起こってきている現象というものは二つ
あって、一つは、今私が申しました、皆様の
それぞれの想いによってつくられていく世界が
現象になっていく。前にも申しました様に、
天変地異というものは、皆様の業想念という
ものが、ある時ある一定の限度を越えて
破れて、そして、又、ある調和を取り戻そう
とする時に、大水になったり、大地震に
なったり、この世の中には不幸と見える事柄
でもって大調和へ還ろうとする時の運動
であります。
その元の元の元を正してゆくと、我々
自身の恐怖であるとか色々な不安であるとか、
明日の生活への恐れであるとか悲しみである
とか、大丈夫だろうかという心であるとか、
そういうものが一人二人の間は何でも
ございませんけれども、まだ小さいもの
ですけれども、何百人何千人何万人何億
という人のその想いが積み重なった時に、
うっと爆発をしまして、それがどっと大洪水に
なり、あるいは、地震になり、大火事になり、
あるいは、今、南極の氷が解けているとか、
そういう現象になっている。あれは決して
フロンガスだけの問題ではありません。
あれは業のそういう積み重なりも
ございます。
そういう想いの世界からつくられている
場合と、それから、守護の神霊がわざと置く
つまずきの石、修行への為の石という場合と
両方ございます。これは非常に難しいもので
ございまして、これを見分けるということは、
とても人間わざではなかなか出来ません。
その時に何が一番大事になってくるか。
色々な問題を皆様がお聞きになる時に、
あるいは、どうしても持ち込まれた時に、
判断をあおられた時に、何を基準にして
それに答えてゆくか、浄めてゆくか祈って
ゆくかというか、これは、神様の御心という
ものをやはり大基盤においてしていただか
ないことには、やはり道をまちがってしまう
ことになるのであります。
例えて申しますと、私の手にあまる位の苦
であっても、神様の側から見れば、この人の
この時点での修行の為に置かれたつまずき
の石、つまずきの石ではあるけれども、
さらにこの人の光が輝いて、そうして、
この人の人生が深くなって、ついに天命に
全くとけ入ってしまう。そういう導きの為の
つまずきの石ということがございます。
そこで、ただとに角、それを見分ける。
あるいは、そういう深い智恵の言葉を
出させていただく。そこへいきます為には、
とに角お任せするんだ、私がその時に
判断をしてしまうと非常な苦になります。
例えば、どちらへ行った方がいい
でしょうか。右へ行った方がいいでしょうか、
左へ行った方がいいでしょうか、というような
質問。進学のことにしても就職のことにしても、
あるいは、思うようにならない人生という風な
ことにしても、色々なことが持ち込まれて、
そして、自分の一言でその人の人生が
ある程度、方向方針が決まってしまうという
ような場合に、自分の言葉でもってという風に
思ってしまいますと、責任も重くなりますし、
とても引き受けられるものではございません。
そうではなくて、そういう色々なことという
のは、現象から来ている場合もあります。
つまり、想いの世界からそれが起こってくる
場合も、つまずきの石の場合も両方ござい
ますけれども、しかし、いずれにしても、
それが神様の御心によって、いただき直しの
生命をさらに深くいただく為のものである
という信仰の上に立って、そうして任せ
きってですね、印をきり、あるいは、祈って
いただき統一をしていただき柏手を打って
いただきますと、おのずから深いところからの
言葉というものが、守護の神霊によって支え
られて、皆様方の唇からその言葉が出て
まいります。
このことは一朝一夕に出来ることでは
ございませんので、大変だと思ってしまうと
これはえらいことなので、そんなことは思う
必要はありません。
つまり、おろおろする自分も、頼りないと
思う自分も、色々な自分があってよろしい
訳です。その一つ一つの自分というものを
しりぞけるのではなく、いとおしんで、ああ
こういう自分があるんだなあということを
見つめて、そうしてその上で、あなた方なりに
あなた方の立場で、無理をせずに背伸びを
せずに、その信仰を深めていって
いただきたい。
ただ、物事の本質と申しますか、神様の
本心といいますか、本体と申しますか、
そういう一番はずしてはならない御心の深い
ところというのは、先程から申しております
ようなところにございます。ですから、ここの
ところだけは、データーをまちがえて頭の
すみにおいてしまいますと、とんでもない苦に
なりますので、そこのところだけをやはり
自分の肝に銘じて、そして、祈って、出来る
ことはできる、出来ないことはできない、
出来ないところは助けていただこう、つまり、
他力と自力を融合させて、そうして、皆が
そういう難しいことばかりではなしに、私も
光の国の住人ならばあなたも光の国の
住人なのだというつもりで暮していって
いただいたら、随分とこの世の中は平和に
なっていくと思いますし、光明波動という
ものは益々広がってまいることであると
存じます。
昭和63年8月26日