わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

統一ということ

2013-01-23 07:58:07 | 癒し
 統一会や祈りの会とか、支部でも集会でも、
今ではWPPMもありますしね。世界中に
世界平和の祈りが広がっていって、だんだん
大がかりになっていってる。

 統一ということも、なかなか難しい。本質を
言えば非常に難しいんですね。けれども又、
あんまり難しく考えすぎてもね、統一というものの
姿が見えなくなっていくということはありますね。
 統一ということは何かというと、言葉は何でも
いいんですが、神様に寄りそって神様を呼んで、
そうして、神様の愛と一体になっていくという
ことですね。

 言葉で言うと非常に難しいんだけれども。さっき
申しましたように、私の柏手とか口笛とか印
だとかいうもので、流れというものを引き出すと
いいますかしらね。皆様が、私に唱和して、
世界人類が平和でありますようにと祈って下さる。
その瞬間から、皆様の中の神の子としての、光の
子供としての、そういう光の流れというものが出て
まいりましてね。そして、私の柏手のひびきと一体
となって、あるいは、五井先生の祈りそのものと
一体になって、神様の方へずっと昇ってゆく。

 その流れというものは、普段日常の中でゴタゴタ
動いている時には、なかなかねえ、そこへ波動は
いかないんです。霊妙な細かな波動というものは
ずっとあるんです。あるんですよ。だけどもそれに
気がつかないようになってる。何時に電話しなきゃ
なんない、何時に人が来る、誰と会う、誰と契約
する、どういう仕事をする、今日は飲み会だとか。
 そんな時に、神様とおもう、何かそういう
ゆとりが人間にないでしょう。で、祈る場所も祈る
対象もね、一緒に祈る人も会場も、そういう設営
といいますかしらねえ、そういう場づくりをして、
自分の中にずっと流れてるんだけれども、普段は
なかなかそこまで降りてゆきにくい。そういう
霊妙な波動の中に自分を放り込んでね、本来の
(自分の)明るい自分の発見というものを、祈りの
中でしてゆくと。それが統一ということですね。

 禅をやってる坊さんたちでも同じことです。
 自分の中に仏がいるんだというとね、皆
自力本願になっちゃって、何か傲慢無礼のように
思いますけれどねえ。あれだって一つの真理
でしてね、自分の中に仏がいるんだってことは、
自分は小宇宙なんだということと一緒なんです。
 その宇宙というものを自覚して、その宇宙の
広がりといいますか、もっと言葉をやさしく
言えば、自分がその神様からいただいている宇宙の
光でもって、皆さんに少しでもやわらいでいただく
ということ。

 例えば、自分の笑顔とか、あるいは、自分の
作った料理を食べてもらって喜んでもらうとか、
そういう、要するに人に仕えるということ、奉仕
ということなんです。奉仕というものは、ただ
お金を出すとか、何十万何百万献金するとか、
そういうことではないんです。霊妙なやさしい
愛の波動でもって、どれだけ人に接してゆけるか、
それが奉仕であり、大きく言えば、それが
統一なんですね。

 だけども、なかなかそういう風には、人間は聖人
じゃないから、なりにくいでしょ。だから、統一会
とか実践会とか色々な会の名前をつけますけどね、
勉強会とか、何とか道場といってそこへ行くのは、
自分の中の本来の心の朗らかな所へ降りて、そこで
光を出して洗ってもらってね、そうして高められて
又帰る。

 これは、言葉で言ってますからね、こんな
ご大層な言葉になるけれども、やはり、我々
というのは何で存在できてるかというと、神様の
ひびきによって存在できてる。そのひびきという
ものは何かというと、神様の愛である。だから、
愛深い人になるということが一番大事なんです。
 この世の中に生きていく為には、知識・知恵も
要ります。常識も良識も要りますが、一番
大事なのは愛ですね。多少礼儀がどうだこうだ
言っても、そこに本当に労わりの気持ちという
ものがないことにはね、これは宗教も祈りも何にも
あったもんじゃないんです。例えどこの宗教に
入っていてもいなくてもね、愛深く人に接する
ことが出来た時に、その人は本当にやさしく強い
神様に愛される人なんですよ。おろがむ心
といいますかね、天地万象拝む心、そういうものが
その人にはもう備わってるんですね。備わる
というのは、何も天性というものではなくって、
その人が、自然な自分の心の流れに従って生きて
いった結果、そうなる。だから、その人だけに
出来ることじゃなくって、皆そこを目指して祈って
いくでしょう。

 キリスト教だろうと仏教だろうと、白光真宏会
だろうと何だろうとね、みんなそうなんですけどね。
 我々は、世界人類が平和でありますようにという、
神様のひびきから出たこの大光明の言葉によって、
祈りによって、愛深くならせたまえという
その祈りを、この言葉の中に深く感じとって、
そして祈っていく訳です。我々はこれを梯子に
する訳です。エレベーターにする訳です。だから、
統一というのはね、何も難しいことじゃないんです。
 有りのままの自分自身をそのまま持って来られて
いいんですよ。病んでいれば病んでいるまま、
疲れていれば疲れているまま、言葉が出なきゃあ、
それでいいんです。別に守護霊さんや守護神さんも
いるんだしね。あなた一人だったら大変だけど、
その人たちが助けてくれるんだし、五井先生も
いるんだし、皆いるんだから。私がしなければ
と思っちゃうと、私が私がの我になっちゃうから。
 その時そのまんまの有りのままの、憂い辛い
そのままの気持ちでね。ただ祈れる時には祈る。
それ位のつもりで統一会に出ていただけたらね、
ふんわり出来ましょう。

 やっぱり、ふんわりしなきゃあ駄目ですよ。神様
と向かい合うのにねえ、カチンコチンになって緊張
してね、もうどうしましょうなんて思ってると、
それだけでこっちはくたびれるよね。神様とは
ふんわりしたもんなのよね。愛情も深いし、
受けとめる器も深く大きいし、これはもう
たいしたもんなんですねえ。神様自体がふんわり
してらっしゃるんだから、神様の子供である流れ
であるあなた方も、ふんわりして下さらないと、
神様の流れというものが、いやに
しゃっちょこ張ってこっちに映ってくるん
ですよね。こういう風にいきなければならない
というように映ってしまっちゃあねえ、統一も何も
ないんですよ。

 だから、テープにあるでしょ。私は統一
できなかったとか、色々湧いたとかね、何か変な
ものが見えたり聞こえたり、雑念が湧いたりする
ことだけに皆把われちゃうけれども、そういうのは
みんな通過点なんですよね。そこを通り過ぎて、
その人が意識するしないにかかわらず、皆
それぞれの本心にたどり着くように、統一という
ものはもっていくものなんですよ。それは、神様の
側でもっていって下さるもんなんです。だから、
どういうものが見えても聞こえても、雑念が
浮かんでも構わないんです。それは本質そのもの
じゃない。それは贋物か本物かといわれれば、本物
じゃない訳ですからね。それが神様じゃない訳
ですからねえ。贋物だとは言わないけれど、そこを
通りすぎて行った時に、やっとといいますかね、
神様のふるさとの、素晴らしい愛に抱かれることが
我々はできる。

 人というのはね、見える人も聞こえる人も感じる
人も色々あるけれども、色々な能力をもってれば
もってる程、不自由ですよ、逆にね。ちょっと
持っちゃうとね、把われちゃって、大変なことに
なるんだけども、そういうものは全部、必要が
あるからこそ見させる、聞こえさせるものでね。
 そんなものは、生命に全然関わりがない。永世の
生き通しの生命というものは、見えるとか聞こえる
とか、どんな才能があるかないかとか、お金も
地位も、何にも役に立たない。ただ素直な生命
になる。それだけでしょ。神様に素直になる。それ
だけですよ。

 そこへ目指してゆくんですからね。そこが大目的
だから、そこへ向かって、我々色んな想いを抱いた
ままでいいから、お願いしますといって統一に
入っちゃうと、いつの間にか気持ちが良くなって、
何だか訳わからなかったけど、先生の口笛にのって
気持ちよかったと。ああ良かった良かった、それが
一番いいんです。そうやっていく内に、何だか
憂さがとれる、何だか憂うつな気持ちがちょっと
明るい方へ向いていくと。それでいいんです。

 人間の想い煩い、業というものはね、習慣のもん
ですからねえ。60年生きてりゃあ、60年の分が
あるんですよ。前生の分から言えば、何百年の分が
ある訳ね。その塵を払い落とす祈りではあるけれど、
その想い習慣というものもしっこいからね。だから、
自分の中に、ああ高められなかったと思えば、
それが業になる。高められるかどうかというのは、
神様の方でちゃんとして下さるもんでしょ。だから、
それはそれで任せておいて、任せるというのは楽
なんですよ。任せるというのは、こんな楽なことは
ないのね。神様に任せたら、いつ死のうが
生きようがいいんですよ。もう任せちゃったん
だから、何にも言うことないでしょ。ね、仕事の
心配もいらない。将来の心配もいらない。お金の
心配もいらない。本当はそういうものなんですね。
 だけど、世の中に生きている以上、そういう
訳にいかないから、色んな煩いが出てくる。本当は
そうですね、だからそこを見透して、神様
というのは我々を愛して下さる。聖書にあるけど、
一日の煩いは一日で充分だ、もうあんまりくよくよ
するなという、そういうイエスの言葉があるけれど、
あれと一緒なんです。ずっと引きずっていけば、
それが業になるの。だから、業にならない内に
消していただいてね、ああ消えてゆく姿だと
思ってね、ああ消えました、ありがとうございます
と言って、そういうおもいで統一をふんわり
なすってらっしゃれば、そうすれば、いつの間にか
あなた方の光が益々輝いてね、そして、自分の為
にも人の為にもなっていく。そういう人に
いつの間にかなっていただくようになるんです。
 分かりましたね。それじゃあ。

            昭和63年8月26日