わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

我らのふるさと

2013-01-21 07:53:27 | 癒し
 この間はお盆でね。沢山の人がふるさとへ
向かって、ひかりや飛行機などを使って大移動を
しましたよね。毎年毎年あれをやるんだね。何故、
ふるさとへ向かって人間は帰るのかなあと思う
けれどもね。なつかしいんですよね。やっぱり、
自分の生まれたところ、育ったところ、そして、
自分を快く迎えてくれるところ、飾りがとれる
ところ、それがふるさとでしょうねえ。

 私も、新潟と東京と両方ふるさとをもちました
けどね。どっちもいいですね。私は、私の生きて
いた時はねえ、母の中にやっぱりふるさとを
見てましたね。小っちゃい母でしたけどね。いつも
ニコニコして、私のすることに絶対の信頼をおいて
くれてね。あれは有り難かったねえ。あれが
なかったら、私は修行出来なかったんじゃ
ないだろうかしら。そう思いますよね。他の人が、
五井さんどうかしたんじゃないかとかね、気が
ちがったんじゃないかとかね、色々言っても、まあ
心配そうな顔しましたよ、ですけど、絶対に信じて
くれたものね。昌久が変なことする訳はない、
絶対大丈夫だと。だから私はやれたんだなあ。

 そういう母親の信頼というものをね今思い返して
みると、これがやっぱり、神様の愛に通じるなあと
思いますねえ。何やっても神様というのは許して
下さる。例え神様なんていないなんて悪口
言ってもね、やっぱり大きな愛情で抱きとって
下さる。揺ぐことがないんですよね。母親の愛と
同じだねえ。あるいは、父親もそうですよね。
 父親の愛でもいっしょですよ。やっぱり、
そういうことが基盤になってますね。そういうのを
我々はふるさとに求めるんじゃないでしょうか。
 絶対に裏切られないもの。よく人が死ぬ時が近く
なると、生まれた所へ帰って死にたいとか言います
でしょう。死病にかかった人なんかがね、絶対に
ふるさとの土と空気と山と川、そういう所を見て
死にたいと思いますでしょ。それはやっぱり、
そういうものに抱かれて安心して死んでゆきたい
という想いが、自然に湧き起こるからですよ。
 それが人間の自然な心というものですね。

 ところで、私達は、生まれて色んな所を
ふるさとにもっているんだけれど、で、
ふるさとを離れて過ごしている人も沢山
いるんだけれども、私のふるさとは何か
というと神ですねえ。
 神への郷愁という本を書いたけれどもね、
これはもう変わることのないふるさとですね。
 神様というのはね、これはもうとてつもなく
大きな愛でしょう。で、その愛というのは高くて、
そうしてもう何ともいえない安心感、ここへ
帰っていけば間違いないですよ。絶対に間違えっこ
ないんです。だから、私達は安心して文句も
言えるし、恨み言も言える。とに角神様なんだから。
 しかし、我々はそこへ帰るということだけ
ではなくって、そこへ出発点にしてね。そこが
ふるさとなんだということ、我々は神のふるさと人
なんでね。原稿にも書いたけどさ。そのふるさと人
である我々が神様というふるさとから出発して、
色々な所へ光を撒いてるんだということねえ。
 そうして、エネルギーがきれたらそのふるさとへ
戻ってね、神様お願いしますといって、祈って、
そして、光をもらってね、又働く。こんな
いいことはありませんねえ。

 このふるさとはなくならないですよ。例えば、
日本では、あるいは世界だって、今土地が狭く
なって、海を埋めたりとかやってますでしょ。
 新しい都市が出来て街が出来て、そこへ
移り住んでやってるけれども、そのふるさとと
いうものはね、ある時ダムに沈んだり、色んな
ことが重なって、そのふるさとの原形そのまま
というのはなくなりますよね。ところが、この
ふるさとはなくならないんだね。このふるさとは
なくなりっこないんです。これは我々の魂の元の
元ですもの。神様というのはそうですよ。我々の
元の元でしょ。その元はなくなりっこないんです。

 我々の生命だって、ずっと生き通しだというのは
観念論じゃないんです。本当にずっと我々は
抱かれてゆくんですけど、それはこの神様という
ふるさとをもってればこそね、我々はそういう
ものを実感することができる。暖かいんですよね。
 とても暖かい。ちょうど私の母の絶対の信頼の
ようなね、そういう暖かさですね。それが
あるから、それを自分の体の中に貫いて見ちゃっ
たから、私は本当の私に出会っちゃったから、
だから、私はあなた方に自信をもってね、
間違いのない世界が神様という世界があって、
大きな愛があって、それによって我々が生きて
いるんだということを語りつぐことが出来る。
 これは間違いのない事実ですね。それは
五井昌久だけにあるんじゃない。皆の中に
あるんですよね。

 そういう信仰は、五井先生だけで五井先生
ならではだと皆言うけれど、そうではない。なら
とか京都じゃないんです。皆が同じふるさとを
もっていて、そして、そのふるさとが絶える
ことがなく我々の中にあり、我々が帰ろうと
思えば、そこへいつでも帰ることができる。
 そこを思えばね、我々のエネルギーも何もかも
新たにされていくということですよね。そこを
忘れてというか、忙しくなっちゃうと皆
この世の中だけになっちゃうけど、その
ふるさとへ帰ろうと思えば祈ればいいん
ですからね。祈って、そして、神様の
名を呼んでね、守護霊さん守護神さんの名を
呼んでねえ、やってる時にはあなた方はもう
ふるさと人ですよね。ふるさとへ帰ってる
訳ですよ。いつでも帰れる。いつでも癒して
もらえる。
 そういうものを我々は皆もってるんですね。
 だから、この我々の宝というもの、朽ちる
ことのないふるさと、神様というものを大事にして
呼びかけて、そして、皆が神様の愛を受けた子供
なんだということを覚えてね、毎日毎日が過ごせて
ゆけるように、どうぞ精進なすって下さい。

               昭和63年8月26日

心と本心

2013-01-20 09:35:20 | 癒し
 これも何度も話をしたことですけれどもね。
 心というものと本心というものは、これは
違うんですね。元々から言ってしまうと、本心
というものがあなた方の本来の姿。光り輝く姿
なんです。どうもね、言葉というものは
不自由でねえ、本心というとその本心という
イメージが湧いてくるでしょう。自分の
イメージに訴えてその像をつくっちゃう
からねえ。それで、どうにもしょうが
なくなっちゃって把われちゃうんだけれども、
なるだけそれをくだいて言おうと思うとね。
 つまり、光明があるところですね。神様の光が
渦巻いているところですよ。それが本心ですね。
 それは、あなた方の肉体のもっと奥の奥の
自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、
どこともなくスポッとおさまってる、それが
本心ですね。

 その本心というものは、いつも私が
申しますように、全く迷いのない姿。言葉を
かえて言えば、本心というのは、迷いも疑いも
悲しみも悩みも何にもないところで、ただ神様
だけを仰いで、神様と一体になってね、神様と
いるということも忘れて、ただその生命を
輝かしている。そういう場所、そこが本心の座
なんですね。

 我々は、本当は色々な座にいるんです。
 それは、特に統一しなくてもね。日常の
世界の中でもね。例えば、遊びに行ったり
食事をしたりとか、そういう信仰のことを
離れても、その時その時色んな座にいるんですね。
 それはどういうことかというと、やっぱり
気持ちのいい人と会えば自然に心が和んでね、
言葉もやわらかになって、色んな話も
弾みますでしょ。そういう時には心が喜んで
くるんですねえ。そうして、色々な煩いを
一時忘れて、子供のように素直になって、
その時には、私達は素直という座にいますね。
 そういう自覚をもたなくても、そういう
ところへ導いて下さるのが守護霊さんであり
守護神さんですね。我々の生命とか生き方
とかいうものは、もちろんこの世の中においても
向こうに行っても努力が必要ですが、しかし、
知らず知らずの間に守護霊さんとか守護神
さんが、きっちりと我々を行くべきところへ
導いて下すってる。自分も気がつかない内に、
いつの間にか、悩みとか悲しみとかいうものを
少なくして下すってる。その座というものは、
あなた方のあるいは我々の気持ちによって、
上がったり下がったりするんですよ。

 向こうへ霊界移行するでしょう。霊界移行
したばかりの人達というのはね、やっぱり
こっちの世の中の想いとかありますよね。
 早く死んじゃって、(残してきた)子供が
小さいのにとか、ありますでしょ。そうすると、
向こうは素直というのを貫いて修行
するんですよ。さっき申しましたね。神様の
愛念というものは、生き死にを貫いて、
そういうものをとっ払っちゃってあなた方を
愛してるんだということを申しましたね。
 だから、そこのところを深く信じる。難しい
けれども深く信じる。任せてしまう。それを
向こうへ行ってもやるんです。座禅したりね、
色々ありますよ。色んな修行の仕方がある
けれども、あなた方にもさせたけれどもね。
 だけど、それは何の為か。すっきり自分の
生命が神様の方に抱きとられているという
ことを喜ぶ為の修行なんですね。
 そうでなきゃあ、苦しむ為の修行だったら
何もならない。けれども、向こうへ移行した
ばかりの霊(こっちへ来たての霊)たちと
いうのは、残してきた人のことがやっぱり
気になるでしょ。それはやっぱり、肉体の我
といいますかね、肉体の想いの座に転落
しちゃうのね。で又、一からやり直す。
 そりゃあ厳しいですよ。この世の中で、
子供の為にとか孫の為にとかね、あるいは、
この人の為にとかやってる方がよっぽどやり
やすい。その位厳しい。よく、ひとおもいに
向こうへ行ったらと想うけれども、そうも
いかないんですね。

 やはり、人間のこういう日々の営みの中で、
色々なおもいを経験して、そうしてそれを
乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、そういう
色んなところを通り過ぎて、祈りというところへ
行くんでしょ。ですから、その祈りというのは
ただ祈ればいいというもんじゃない。
 神様へ呼びかける。こんな私ですけれども
といって呼びかける。その時に、神様
というのは、ああいいよといってあなた方に
答えて下さる。

 前も申し上げたかもしれないけれども、神様
というのは人間を裏切らないんです。人間は
しょっちゅう神様を裏切るけれどもね。
 何故、こんなことがあるんなら、神様なんて
信じるものかとかね。たいてい、自分にとって
辛いこと苦しいこと受け入れ難いことが
起こってくると、人間というものはやっぱり
神様を否定したくなる。そうでしょう。
 でもそれは、自分の都合の悪いことが
起こってきた時には苦しくなるから
そう思うんですね。

 ところが、神様というのはものすごい大愛
でね。それで、あなた方にずっと愛の光を
送ってるから、そういう叫びだとか恨みごと
だとか色んなものが来てもね、そういう涙顔を
見ても、可哀想になあと思いながら、本当の
ところはずっと光を与え続けているんですね。
 そういう絶え間のない光、それが本心
ですよね。

 そして、いつも申しますように、あなた方が
神様からの分霊(わけみたま)であり
分生命(わけいのち)なんだから、その本心の
光というものは神様から流れてくるだけ
じゃない。見えないけれども、あなた方の
奥の体の中にどこともなく入っている、光
そのもの、本心。あなた方の中にある訳
だから、その本心と神様の宇宙神の大御心とが
交流し合って、この世の中というものは
息づいているんです。あるいは、植物でも
鉱物でも動物たちでもね。そういう交流が
なかったら生命というものはすぐに
枯れてしまいますよ。そういう素晴らしい
宝を我々は神様からいただいているんだねえ。

 ところが、心というものがあってね、
あるいは感情と言った方がいいかもわからない。
 恨みごとだとか、もう勘弁してほしいとか、
いやだとか、そういうものというのはここから
出るんですね。肉体にまとわりついてくる我
というものもここなんですよね。ここに
からみついてるんです。だから、これを
自分自身だ、私の心だと思ってしまうと、
思い間違いする訳ですね。

 もう何十回も言ったことだけども、我々の
心の奥底ずっと降りていくと、やっぱり本心
というものがある。そして、先程申しました
けどね、毎日毎日の生活の中で色々な座が
ある。その座に座らせていただいている。
 喜びごとがある時には喜びの座に
座ってるんです。悲しみのときには悲しみの
座に座ってるんです。あるいは、孤独の座
にも座るんです。そうして、そういうところへ
座らせていただきながら、私たちは、神様の
大きな愛の座、本心の座、光の座、神様の
座に招かれて、そこへ進んでゆく訳ですね。
 それは何も向こうへ行って修行しなくっ
たって、毎日毎日がそうなんですよ。この世と
向こうは続いているんだからね。
 この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が
意識しようとしまいとね、その座が進んで
ゆくかどうか、転落するかしないか、毎日
毎日の想いが修行の場なんです。霊界だって
想いでみんなつくられているでしょ。だから、
物欲の強い人が向こうへ行ったら、そりゃあ
もう物欲かたまりの世界ができますよね。
 無欲の人が行ったら、何だか小鳥が啼いて
というような清浄な空気のところを歩くと。
 みんなイメージなんです。イメージだ
けれども、じゃあ霊界がないかというとそう
じゃない。真実の生命につらなっていく、
そういうものというのは確固としてある。
 だから、その本心というものをたずねて
祈ってね、できる限りの消えてゆく姿を
やって、その座が進んでいくように、
そうして、進むも進まないも、もうひとつ
いけば、神様に任せます、いいようになすって
下さいという風に言えるようにもっていくのが
信仰ですねえ。

 そして、それを助けるのが五井先生ですね。
 世界平和の祈りですね。決してあなた方
だけの力で絶対そんなことはできませんよ。
 だけど、あなた方の祈り心が一人になり
二人になり十人になり三十人にとやって
いけば、それはもう光明波動なんですからね、
人間というのは光なんですから、そりゃあ
すごい力を発揮するんです。目には見えない
けれども、その光がサーッと全世界に
うずまいて、全宇宙に広がってね、そうして、
光明があたりを浄めていくんですね。その
ことを忘れたらいけません。そのことを
忘れて祈りをしたら、これはただ単なる
ご利益の祈りになっちゃう。そうじゃ
ないんですよ。南無阿弥陀仏にしても南無妙
法蓮華経にしても、世界平和の祈りにしても
主の祈りにしたって、本当の真実の祈りの
奥底にあるものは、何か、こうして下さい、
ああして下さい、運がよくなりますように、
そりゃあ大事ですよ、みんな生き生きと
いかなきゃいけないんだから、やっぱり
そういうものはなきゃ困る。でも本当に
目指すものは何かというと、神様と一体に
なる我々は生命なんだという、その喜びに
至る。そこが大事なんです。それを忘れた
祈りはないんです。

 神様というものが我々の為にいて下すってね、
神様というものから我々は分かれてきた分生命、
分霊で、そうして、我々が我々の分に応じて、
あるいはそれ以上の働きを、神様の力によって
愛念によってさせていただくんだということね。
 本心と心というものは分かれてるものじゃ
ないんですよ。本心からずっと光明が
出ましてね、我々の肉体も想いも、想いを
出してる心も浄めていくんです。祈りが
それを浄めていくんですよ。だから、世界
平和の祈りの中に、あるいは、南無阿弥
陀仏の中に、色んな祈りの中に溶け込んで
そうして最後には、自分自身が役に立つも
立たないも、とに角神様の光になって無に
なって動いていく時に、この世の中という
のは光明波動になっていく訳ですね。
 だから、役に立たない生命なんていうのは
この世の中に一つもないんです。無駄という
ものも一つもないんです。

 生きるということにしたって死ぬという
ことにしたって時があってね。我々のこの
肉体人間の情から言えばとてもやりきれない
色んな出来事だって、それはやはり選びの時
なんですね。向こう側からすれば選びの時
なんです。そうして皆のことを考えてる。
 そういう時が与えられる時はね。だから、
ああこれは神様が与えて下すったものなんだな
と考えることですねえ。それを目指して、
世界平和の祈りというものがあり、皆さんの
統一というものがあり、印というものがある。
 皆離れてるもんじゃないんですよ。

 あなた方の祈り心が深くなって、自分を深く
省みて、自分の中に、そうだ神様からの宝物を
私たちはいただいているんだなと、そう思える
心になった時に、そう思える心が一瞬間きたら、
これはもう大変なことですね。
 で、それをずっと続けていって下されば、
それはもう大変なことですよ。それを出来ない
と思っているのが人間ですよ。出来ると
思っているのが神様です。

 宗教というのは、その出来ると思ってる
神様の大きな愛念に、我々全部を預けて
しまうことですね。生命もすべてね。投げ出す
というのは大変なことだけど、やってしまえば
簡単なんですよ。なかなか情としては
大変だけどね。やってしまえばと言ったって、
出来ないですよ先生とくるかもわからない
けれども、あなた方、祈ってる時は
投げ出してるんだよ。自分たちは分からない
けれどね。世界平和の祈りを祈ってる時は、
色んな雑念があろうと何していようと、
やっぱり投げ出してるんです。だから、
あなた方は毎日毎日投げ出して、自分を
カラッポにする修行をやっぱり
やってるんですよ。気がつかない内に
させていただいてるんです。

 だから、任せるということは朗らかになる
ことですよ。神様と一つ生命になるということ
ですよ。あるいは、神様の愛が私達の中に
流れているということを知ることです。その
為に祈りがある。その為に生きる。その為に
悩むんです。すべて無駄な事はないんです。
 皆必要なんですね。決まってる事なんです。
 必定なんです。だけども、神様というのは
宿命じゃない。宿命論者じゃないし運命論者
じゃない。だから、運命修正というものが
出来るでしょ。皆さんの祈りによって出来る
でしょう。あるいは、皆さんの愛念によって
動いていくんですよ。
 そこに世の中の人々が言う奇跡というものも
生まれて来るんです。だから、もうこれは
神様事だから神様に任せなければ仕方がない
といって投げ出してね。投げ出してというのは
放り投げて努力もしない、ねえ、もうとても
私達の力では及びませんといって投げて
しまっちゃあ、こりゃあ駄目なんです。
 やっぱり祈る。祈って祈って祈って
祈りきったところに光が出てくる。

 その時に、例えば生き死にの問題で言えばね、
つまり、一人の人に、生命を向こうにもって
いかれるか、まだこっちにいて皆さんの
役に立つか、どちらになるか分からないけれど、
祈って光がパーッと来て、そうして、そうか
それじゃあといって向こうで変更になるかも
わからない。その辺わからないんです。ただ
分かってる事は、どんな風な現われ方をしても、
神様というものは絶対に私達一人一人を愛して
いるということ。憎んだりは絶対しない。
 恨んだりも絶対しない。何故なら、みんな
神様の子供なんだから。ね、子供を愛さない
親はいないでしょう。そうでしょう。絶対
みんな子供は可愛いいですよ。その何十倍
何千倍、神様というものは一人一人を
愛している。今のあなた方のありのままを
愛しているし、あなた方の中に貫いて
流れている深い生命というものも愛してるし、
あなた方全体の、もう全部を愛してる。それを
引き出して用いようとなすってらっしゃる。
 だから、遠慮しちゃあいけないんです。

 今、白光真宏会が、あなた方は神の子です
と言ってるけど、それは、あなた方の中に
ある神様の深い生命というもの、それを
用いていただく時には遠慮しちゃあいけない
ということです。それをどう用いて下さるかは
向こうが決めることであって、我々はそこへ
導いて下さるままに、祈って進んでゆけば
いいんです。ただだまって座っていても
構わないんです。任せてしまえば、向こうが
きっちりして下さるんだから。

 ただ、我々の中に、性格というものが
あるでしょ、気持ちというものがありますよ。
 だから、そんな私なんかとか思うけれども、
そうじゃない。毎日毎日投げ出して
祈ってるんだから、カラッポになる修行を
しているんだから、ある時に、ものすごい
大役がくるかもしれない。ある時に、
ものすごい辛いことがくるかもしれない。
 いいことも悪いことも来ますよ。その時に、
いざという時に、そうだ神様と投げ出してね。
 今まで投げ出してくる練習をして来ました、
だから、どうか用いて下さい、器にして
下さいって祈ってごらんなさい。本当に
祈りの光でいっぱいになるから。で、呼んで
下さる時には、私はどこでも行くんです
からね。だから、呼んで呼んで祈って祈ってね、
やって行かなきゃあこの世の中というのは、
辛くて辛くてしょうがないんです。その為に
本心も心もあるんですよ。あなた方の中に
神の宮があるんですよ。神様と
つらなってるんですよ。そのことを
どうぞ忘れないでね、祈ってやって下さい。

            昭和63年8月26日

神の愛念について

2013-01-19 08:21:14 | 癒し
 神の愛念についてということでありますが、
いつも申しておりますように、神様の愛念
というものは、これは絶えることなく、
ゆるしの大河ともいうべき大生命の根元から
流れてきているものであります。そして、
神様の愛念というものは、我々人間のこの
肉体や想いや、我だとか何だとか、余分な
ものが色々くっついてはいるけれども、
しかし、その中を貫いて流れている。つまり、
神様の愛念というものは、離れて何か遠くに
あるものではなくて、自分の中に絶えず
息づいている。生命そのものなんだという
ことをまずここで覚えておかないと、我々は
大変な間違いをすることになってゆく。

 今、何でもって生きていったらいいか
分からないというような生きにくい世の中
ですよね。不安がある、色んなことが起こって
くる。事故はあるし、災害はあるし、
今年みたいに天候が不順じゃあとか
言ってるけれども。実際に毎日毎日、
今もどこかで大雨が降り雷が鳴って、雷に
打たれて死ぬ人だってある。雨に流されて
家がどっかへいっちゃう人もある。つぶれて
下敷きになってけがをする人やなくなっちゃう
人がある。そういう不浄の世の中というもの、
これを見ていると、何を頼りにして何を
よりどころにして生きていったらいいか
分からないという不安がつきあげてくる。と
いうのがこの世の中の本当のところであります。

 で、そういうところをふまえて、私は何を
申し上げるかというと、我々というものは、
常に神様の愛によって生きているのである
ということ。これを忘れてしまっては
困るんです。ここが本道なんです。
 なくなったり何だかんだしているが、
それが何で神様の愛なんだと、肉体をもつ
人間は思うけれども、しかし、神様の愛と
いうのはね、あなた方一人一人の天命を
抱きとって、この世だけじゃなくてずっと
深い天命を愛して、そうして、もちろん、
あなた方という一人一人を愛して、そこを
見つめての光をむこうから流し続けて
いらっしゃる。その愛なんですね。だから、
個人の小さな喜びもささやかな喜びも、
良かったねといってむこうから光を送って
下さるけれども、しかし、一人の人間の
生き死にが問題ではないというところに
神様の愛というものがあるんです。

 こう言うと、非常に無情のように思う
けれどもね、そうじゃない。つまり、本当に
人間の姿、そして、神様の愛というものを
知って行く時には、肉体の死とか、いくつで
死んだとか、若くて死んでしまってかわいそう
だとか、そういうことというのは何となく
問題にならなくなってくる。
 私なんかは、むこうの方からこっちを今
見てますでしょ。そうしますと、本当に
こっちもむこうもないんですよね。むこうの
世界もこっちの世界も、ずうっと連なっている。
 ただ、あなた方の場合は、肉体の肉眼という
目でもってみているから、あっちの世界が
見えてこないだけで。

 しかし、そういう把われも何もかも捨てて
しまってね、祈り一念、世界平和の祈り一念に
なって、五井先生、神様、お願いしますと。
 世界平和の祈りで教義を唱える。その教義を
唱えるということはどういうことかというと、
つまり、無になって、自分もなく人もなく、
自分が祈るということも忘れて、その大きな
流れの中へ入ってしまえば、あなた方の肉体が、
その時、肉体をもったまま肉体が消えるんですよ。
 肉体の波が消えて、そうして、自分がここにいる
ということも忘れて、ただ、祈りの光と一緒に
なっていく。そういうものなんですね。本来
そういうものなんです。それは、どんな赤ん坊
であっても子供であっても、あるいは、老人
であっても、神様を知らないと思っている様な
人であっても、あれは無神論者だと皆が非難
するような人であってもね、そのスイッチ
というものはもってるんです。

 いつも申しますように、信仰というのは、
例えば、キリスト教なら礼拝堂へ行き、あるいは
お寺に行って、神様とか仏様に祈って、その
祈る姿だけが信仰じゃない。芸術家は芸術家で、
音楽家は音楽家で、大工さんは大工さんで、
一所懸命に何か一つのことに打ち込んで、
無になって一つのことを成し遂げる。その中に
神様がいらっしゃる。その中で神様が働くんです。
 自分をなくした時に神様というものが現われて
くる。愛念というものは現われてくる。その愛念
というものが現出して、そうして、本当に今度は
神様の愛に洗われる。
 我々の生命というものは、毎日毎日毎瞬毎瞬
新しくなってゆくんですね。そういうことが
本当は生きるということなんです。

 そんなこと言ってもね、五井先生、やっぱり
毎日死んでゆく人がある、重病の床にふしてる
人がある、事故にあって困ってる人がある、
そういう悲しみというのはどうなるんですかと、
皆思うでしょうねえ。確かにそれはそうなんですよ。
 私だって、愛弟子を何人も失くしたり、大けがを
して入院させたり、ありますよ、この世の中に
いた時にはね。だけども、心配してるけれども
心配しないんだよ。高橋君に答えたことが
あるけれども、分かるかね、やっぱり心配してる
けれども心配しないんです。心配してるというのは、
この肉体の人間の気持ちというものを
味わってしまうと、確かに心配なんです。オロオロ
しますよ。どうなるだろう。手術が必要ならば
早く手術が成功してと思います。それは人間の情
というものなんです。自然なんです。そこで
オロオロしたり、弱くなったり、神様がいるん
だろうかと思ったり、そういうことは私は否定
しませんよ。私はそういう気持ちを通り抜けて
きてるんだから。
 だけども、そこを通り抜けたところで、神様
というものは、もう一つ深いところでね、人間を
抱きとって、そうして、その人の天命が
真っすぐに明るく神様に向かって貫いて
行けるように、守護霊とか守護神が道を備えてね、
そして、あなた達がこの世に生きていく糧も、
肉体を養ってゆくべき色々なものも、悲しみも
辛さもいつの間にか癒していくように、
道をつけてゆく訳ですね。そこへの信仰
というものが、我々にとって一番大事になって
いく訳です。

 ところが、やっぱり人間というのは
弱いでしょう。斉藤さんが、おれがおれがという
そのがを取ってと書いたでしょ。そのが(我)を
取ってというけども、なかなか我というものは
なくならないんですよ。だから、世界平和の祈りが
ある。その我をもって、すいません任せ切れない
私ですけれども、どうぞ世界平和の祈りの中で、
祈りのエレベーターの中で、五井先生の柏手
によって口笛によって、あるいは霊団の皆さんの
光によって、神様の愛によって、そうして、この
我を少しでも少なくして下さい、消して下さい
と言って祈る。
 その時には、少なくして欲しいと想って祈って
いても、こっちから見ていれば、もう空っぽに
なってるんです、皆さんは。だけども、皆私なんて
とか私なんかが祈ったってとか、そういう想いが
しみついちゃってるからね、だから出来ないん
ですよね。空っぽになっていると想えないんですね。

 昌美とか裕夫君とか真宏会が今一所懸命やって
いる、それというのは、皆がね、空っぽに
なってる、つまり、任せてしまうと器になれるんだ
ということね。それは、私がやってるとか何とか
想ってしまうと、苦しくってなれないんですね。
 肉体の人間というものは、余分なものを地球上に
降りてから一杯くっつけちゃったから、その肉体の
人間を自分自身だと思っている以上はね。自分の
感情の動き快不快だけを自分だと思ってる以上は、
そこへとどまっちゃうんですよ。それが自分
だと思っちゃう。ところが、神様というのは
そうじゃない。あなた方の生き方とかおもい方
とかね、それから、過去の苦しみとか、全部、
歴史というものはご存知の上でね、しかし、
あなた方の中に貫いている、明るい生命そのものを
引っぱり出そう引っぱり出そうと思ってる訳ね。
 で、素直にさせよう素直にさせようとね。苦しい
けども行ったらこうなるよということを示しながら、
何とか明るい方へ明るい方へというのが神様
なんですよ。何故かというと、あなた方の元の生命
というのは明るいんだから。神様が明るい方へ
明るい方へ、光明の方へ光明の方へ、光の方へ
光の方へなんです。だから皆が光の子なんです。

 何度も言うけれども、やっぱり毎日のこと、煩い
とか何だとかやって過ごしてゆくと、とても
そんなこと思えないでしょ。だから、
その思えないなあ、とてもそうじゃあないなあ
というのを、もう死ぬまでね、何百回何千回
思ったって構わない。そうは思えない、そこまでは
私はいかない、そこまでは俺はそんなとても
じゃないけど、五井先生が言うようなところまで
いかないと思って構わないから、とに角、祈りの
中へ入っちゃいなさいよ。入っちゃったら後は、
守護霊さん守護神さんや私だとか皆で、洗って
きれいにして、そうして、又明日やっていく力を
こっちから与えてあげるんだからね。ただ、私が
するんだと思えば苦しくってしょうがないんです。
 それはさせていただくということなんです。
 そのさせていただくというのが皆間違うのはね、
いい事をさせていただくのならば、こりゃあ皆
気持ちいいですよ。ところがね、この世の中
人間関係です絶対にね。そうしますと、こっちが
いくら真心をこめて誠実を尽くしてやっても、
ある時とても辛いことがやってきたり、悪口雑言
がきたりね。あるいは、集会なんかなすって
ますと、色んな中傷が来たりね、つまんない我が
出てきますでしょ。

 しかし、そういうことを勉強して、そうして、
荷を負わせていただいて、で、悪口を言われると、
やっぱりそれもありがとうなんですよ。それ
だって、私が受けさせていただきますなんです。
 だから、あの人はこんなこと言って、こんな
考え方をしてけしからんというのは、やっぱり
消えてゆく姿なんだね。けしからんという想いは
辛いけれども、それで過去世のあなた方の何か
業というものが一つずつ消えるんですよ。だから、
カッと腹が立った時に、あっと思ってね、反省
するだけじゃなくて、ああこれで消えたんだなあ、
ありがとうございますと思えたら、そこで光が
入るんですね。そこで、たとえあなた方が
思えなくても、その時にさあっと守護霊さんや
守護神さんや私の方から光が行くんですよ。
 そこを信じるということが任せるということ
なんです。

 我々は、肉体の我々を我々だと思っている以上は
限界がありますよ。体力にだって気力にだってね
限界がある。肉体というものはいつか脱がなきゃ
いけない。百年生きる人は少ない訳でしょ。
 その百年の間たとえ生きたとしても、生き生きと
毎日喜び深くなんて、そんなことはなかなか
出来にくい訳ですよ。そうじゃなくて、肉体に
おもきを置くんじゃなくてね。私の生命を
つき動かしているものは神様なんだ、神様の愛
なんだ。私の深いところは神様がみんな
ご存知なんだ。だから、今は私は辛いけれども、
何だか分からない程辛いけれども、しかし、
神様が全部抱きとって、祈って、明るい方へ
導いて下さるんだというそこだけ信じることが
出来ればね、そういうことを思って、あるいは
念じて祈ることが出来ればですね、そうしたら
もうこれは明るい方へ生命の大元の方へ、
皆さんの流れがいくに決まってるんです。

 そうなるように、世界平和の祈りを私が
大神様から受けたんですね。これでなきゃ
救われないんですよ。皆凡夫なんだから。
 皆神様と同じですといったって、この
できそこないの自分のどこが神様なんだろう
かと思ったら、もう苦しくって辛くって
やりきれない。つき詰めていくと、一日だって
生きちゃいられない位になるね。そうじゃ
ないんです。そういう弱さとか辛さとかいう
ものをもってて構わない。この間も言ったけど、
そういうものが人の話を聞く時の財産に
なるんですよ。だから、弱いから駄目なんだ
ではなく、駄目をね押し出す為に神様が
いる訳じゃない。そういう弱さをあなた方は
もってるけれど、もっともっと奥には光を
もってるんだと。
 光が自分たちの中にある、それをうまく神様
引き出して下さい。守護霊様守護神様引き出して
下さい。五井先生お願いします。皆さんお願い
しますと言って預けることね。想いの銀行に
預けることですよ。私に預けること。それを
やっていくことですよ。そうすると、我々の
生命がもういつの間にかきれいに掃除をされて
大生命の中へ完うされてゆくんです。私達の
天命が完うされますようにという祈りが
あるでしょ、あれはこれなんですよ。
 自分では掃除が出来ないけれども、神様
お願いしますといって任せてしまえば、
いつの間にか軽くして下さるんです。

 ただ人間は、毎日毎日二十四時間という時間の
単位で生きていますからね。今祈って、早く
とって欲しい。早く早くと想うとそれがやっぱり
業になるの。その早く早くという気持ちは
分かるけれども、早く早くと想えば想う程、
こっちは掃除しにくいんだな。しにくいから
任せる。そして、任せたんだからあとは
神様の方でよくして下さると思って、こっちへ
呼びかけて下さればね、とに角やりやすいんだ。
 ところが、それを人間というのはなかなか
やりにくいんですよ。だから、こっちから光を
送って色々やるんだけれどもね、とてもじゃ
ないけど、やっぱり呼びかける対象祈りの
対象がなきゃ駄目だ。
 そうして、その祈りの対象が、ただ神様と
いうんじゃなくて、世界人類が平和で
ありますようにと言って、世界の人々の、
全宇宙人類の真心に向かって呼びかける
ことによって、あなた方一人一人もその
真心の中に入っちゃうんです。そういう大きい
深い祈りの中で浄められることによって、神様の
愛念が私達をつき動かしているということをね、
ここで何ていうかなあ、胸が一杯になっちゃう
けれども、きっちりと覚えていただいて
やって行って欲しいなあと思いますねえ。

 壇上からこうやって見てますとねえ、
この世の中の色んな有様が分かる訳ですよ。
 そして、あなた方の一人一人の気持ちの動きも
分かるわけ。だから、一人一人の中へ本当は
降りていって、そうして、辛いね苦しいね
と言ってあげたいですよね。本当にそうだよね。
 そうだけれども、そこにとどまっちゃあ、
肉体人間のこの限界のところだけに
終っちゃうんですね。

 我々の生命というのは、何度も言うけれど、
本当は明るいもんだから、そこを見つめた人間が
言うんだから、これは間違いないですよ。私が
全部引き受けたんだから、私の方へ色んな煩いを
みんな投げてくれればいいんです。
 ただ焦ったら駄目なんだね。私も本当に
気短かで、悟る前も悟った後もあんまりいい人間
ではなかったけどさ、やっぱり焦るんですよ。
 でも、焦ったら本当に神様が光を出しにくく
なるんだよね。そのことだけを覚えてね、
そうして、すいません色々な想いが出ます
けれども、よろしくお願いしますという気持ちで
統一をして下さいな。そうすると、こっちが
あなた方のそういうものは全部分かっているから、
悪いようにはしませんよ。
 絶対に悪いようにはしませんから、そこの
ところを信じるということね、おもいではなくて、
信仰というのはね、神様が絶対に我々を悪いよう
にはしないんだ。神様は絶対に私達を愛して
下さるんだ。たとえ明日死んでも私達は神様の器
なんだ。その為に私達はここにいるんだ。
 そういう自信をもって祈る。祈って、動く。
 それは言葉だけじゃないんです。そういう風に
一旦思っちゃえば、あなた方の体というのは、
あなた方が自覚するしないに関わらず、とに角、
祈りで一杯になるんですよ。世界平和の祈りで
一杯になる。あるいは、神様という想いで一杯に
なってるんですよ。あなた方にはそれは分から
ないけれども、こっちから見てると
そうなんですよね。

 だから、神様の想いで一杯になって、神様の
祈りで一杯になって、神様という呼びかける声で
一杯になってるあなた方を、本当にいいように、
その場その場でね、用いて下さる。たとえ、祈りの
場所にいなくてもね、職場であっても、煩わしい
人間関係の中であっても、あなた方がふっと自分を
消して仕事に勤しむ時に、あるいは、人と話を
する時に、その相手だけじゃなくて、まわりにも
神様の光というものは及ぶんですね。そんなもの
なんです。神様というのは何だかんだ言い訳を
しませんよ。予告もしません。私だって預言を
したことはないですよね。預言は嫌いだもの。
 預言なんかしたら、それに把われちゃって、
五井先生はああ言ったのにならないじゃないか、
という想いに把われるでしょ。だから預言
しません。預言しないということはね、
ある意味で辛いことがあるけれども、でも、
本当に神様の生命にあなた方を導いていく
為には、あなた方が素直で明るい生命である
ということを知らせていく為には、ただただ
私は無心に祈って、あなた方に光を送る。
 それだけなんです。だから、そのことをよく
覚えて、祈りに勤しんで下さい。
             昭和63年8月26日

五井先生と呼んで下さい

2013-01-18 08:32:29 | 癒し
 私は落語家じゃないかなあと言われた時が随分
生きている時にあるんですね。それは、話の中に
冗談とかね軽口とか。やっぱり法話という
ものはね、わかりやすくやさしい言葉で言って、
5つ6つの子供にも分かるような話し言葉
でないと、本当に深い言葉というものは入って
いかない。深い真理というものも入っていかない。
 で、こうしなきゃならん、こうした方がいい
ということは分かっていてもね、人間というものは
そんなに出来るもんじゃないんです。簡単に
出来るのなら、五井先生はいらないの。釈迦や
キリスト、その人たちでも救いきれない、今の
この世の中の複雑な色んな要素があるでしょ。
 釈迦やキリストだけでもとうてい駄目という
ところにもってきて、深淵な言葉だけじゃね
駄目なんです。

 だから、本質論も必要だけれども、本質論と
同時に、具体的にやっぱり、寂しいですねえ
悲しいですねえ、大変ですねえ、本当に大変
でしょうという、そういういたわりの気持ちが
ないと駄目なんですよね。それがあって初めて、
人を導くことも可愛がることも愛することも
出来る。

 会館でやってた最初の頃に、皆熱心でしたよ。
 皆くい入るように話を聞いてくれてね、最初の
白光の人たちは。今の人たちが駄目だというん
じゃないですよ。本当にくい入るように聞いて
くれたけれども、あんまり深い話をし過ぎると
くたびれちゃってね、みんな。とっても私は
出来ないわとかね、思っちゃうから。
 だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、
ある時は八百屋になったり、それから、本当に
落語家じゃないかという位軽口とばして、
そうして、ふーっと気がついたら神様のことを
考えていたという風にもっていく。これ方便
なんですね。

 で、その時々によって色んな話し方をする。
 さっきの私と今の私と違うのかといったら、
違わないんですよ。全然違わない。だけども、
とに角機をみてね、人をみてね。人をみて法を
説けというでしょ。あれと一緒なんですよ。
 その時々その場相手によってさっきのような
しゃっちょこばったああいう講演口調の、ねば
ならぬ存じます式が通じる時もあるんです。そう
じゃなくて、こりゃあもうそんなこと言ったら
逃げ出しちゃうなあという場合は、こういう口調も
あるんですよね。どれも五井昌久。どれも神様。
 神様といったって、私が神様じゃないですよ。
 そうじゃなくって、神様が色んな働きを
こうやってなさるということの証をここでやって
いるようなもんだね。そうじゃなきゃ、こんな
講演会なんかやりませんよ。そんな無駄なことを
神様はやらないと思いませんか。本当にそうですよ。
 やっぱり誰かに聞いて欲しいという気持ちが
皆あるでしょ、皆苦しいから。聞いて欲しい
といっても、吸いとり紙のようにね、自分という
ものをさしはさまないで、深くうなづきながらね、
ああそれは大変ですねえって聞くというのは
これは大変なことよ。実際に。絶対に自分が
出るもの。そんなことはあなた言うけれども、
私の経験によればということになるよね。なる
けれども、そこは本当に難しい。

 人に対する時というのはね、私の経験に
よればと、それを出しちゃうと相手が悲しむね。
 60 70 80生きて来た人がね、私はこう
生きて来たと言いたくなるのもよく分かる
けれども、悩んで苦しんで切羽詰まって来る人
というのは、それどころじゃないんですよ。
 その人の経験談を聞きに来た訳じゃなくって、
とに角ただ単純に慰めて欲しい。そこから悲しみを
とって欲しい。軽くして欲しいんです、まず。
 医者のね、頭痛がするから頓服下さいという
のと同じなんです。頓服あげといてね、熱下げて
頭痛とって、頭痛とった後にね、何で頭痛く
なったかというの一緒に考えましょうよという
ゆとりを、そこから導き出すんですよ。頭痛
とらないでね、説教したってしょうがないの。
 だから、ある人は頭痛で来るかもわからない、
ある人はおなかが痛いといってとんで来るかも
わからない。先生、姑が!という人も沢山
いたしね。嫁さんとうまくいきませんという
人もいたしね。どっちにもいい顔しなさい
というの。それじゃあどっちもいい加減に
しなさいというんじゃないですよ。そうじゃ
なくって、どっちもに対していたわりがないと、
人間関係なんていうものは本当にうまくやって
ゆけないということですよね。

 だから、そこで気をつけなきゃいけないのが、
自己愛というものですね。自分を可愛がりすぎる
あまりに、相手が見えないということに
なっちゃうとこれはあぶないんです。
 自分自分自分が辛い辛い辛いと想うとね、
その辛い辛い辛いが相手を変に傷つけたりね。
 あるいは、こう気持ちをにぶくさせてることが
あるんですよ。自分が一番辛いと想うからね。
 だけども、自分も辛いけれども本当は相手も
辛い。

 ところが、人間というのは不便というか何と
いうかね、そんな吸いとり紙みたいな人は、
いないでしょ。とってもじゃないけど
ありませんよ。だから私が出来たという訳じゃ
なくって、私はもうずっと十字架にかかった
ようなもんですからね、前も言ったように。
 神様に自分の生命というものを差し上げ
ちゃって、投げ出しちゃって、それで、どうなと
して下さいといったら、まあやくざみたい
だけれどもねえ、そこで自分の生命の本体という
ものを見たから。もう私安心しちゃいました
からね。安心した人間は今度、皆さんの中に
その大安心というものを分けないとね、
いけませんでしょ。

 そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、
お浄めしたり話を聞いたりする訳だけれども、
そうやって皆さんと話をしたり、今こっちから
見たり聞いたり、祈りを届いたりするのを見て
いると、あるいは感じてるとね、本当に何とか
して下さい、どうにかして下さい、本当に辛い
祈りが多い。

 だけども、その辛さをね、とかして、そうして
本当は、あなたの中に光があるんですよという
ことを、こっちはね、皆さんの守護霊さん
守護神さんと一緒になって出してゆく訳
ですからね、その流れを。その役目を未来永劫
五井先生は引き受けた訳だから、だから、
皆さんは安心してね、五井先生と呼んで下すって
いいんですよ。五井先生にこんなつまんない
ことを聞かせるなんて、とてもじゃないけど
私の気持ちがゆるさないとかね。どっかで
かっこうつけたりとか、ありますね。恥ずかし
がったりとかね。だけども、そんなこと言ってる
内にストレスが溜まってくんのね。そういう
遠慮はいらないんです。どこでもいいんですよ、
五井先生と呼べば行くんですからこっちはね。
 行ってどういう手当てが出来るか分からない
けれども、しかし、最善の手当てをするわけよ。
 どういう手当てが出来るか分からない
というのは、皆さんの心に思ってるような手当てが
果たしてこっちが出来るかどうか、その時期
かどうか、よくは分かんないけれども、しかし、
神様の愛というものを携えてこっちが行くという
ことは確かなんです。そうして、皆さんの悩みも
苦しみも抱きとって浄めてるということも
確かなんです。だから、いつかその悩みとか
苦しみとか辛さというものは消えてゆくんだ、
五井先生に任せてれば消えてゆくんだ、
五井先生を通して神様の愛というものが通って
きて、その大愛によって我々の諸々のもの
というのは消えてゆくんだということね。
 そこさえしっかり見ていてもらえば、こっちは
本当に守り易いんですよね。やりやすいんです。

 まあ、バカ話みたいにしゃべってますけど、
やっぱりねえ、生命の流れをね滞らせないように
しておかないとね。これはしんどいですよ。
 辛いんです。本当にね。今しんどいという
大阪弁を使ったけれどね、あれは心労なんですね。
 あれは心疲れるんです。心労ですね。だから、
しんどいという言葉はね、あれは実際、心の憂さ
という言葉があるけれども、本当に心が疲れて
疲れて大変だという言葉ですがね。ですけど、
ずっと申してますように、本心というものは、
心が疲れているように見えても、本当に疲れを
しらない。疲れを知らないどころか、神様の側
から光というものを受けとってね、そして、
あなた方の中のそういう想いとか悩みとか
いうものを軽く軽くして、光の方へ引っ張ろう
としている。そういうものが同時にあなた方の
奥に深くにあるのですからね。
 だから、心だけを感情だけを自分だと思って
しまうと、勘定は払わなければいけないですね。
 勘定払って借金払ってね、そうして、本心の
方へ降りて行ってね、ハシゴを使わないと降りて
ゆけないという人もあるかもしれないけれども、
だから祈りのエレベーターの世界人類が平和で
ありますようにというのをつくったんだから。
 せっかくエレベーターがあるんですから、
ハシゴで一段一段降りなくともね、
エレベーターを使って降りてくれれば
いいわけです。それで、エレベーターで
サーッとね神様のところへ行く。

 さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念が
どんどん出るけど大丈夫だろうかと。大丈夫です。
 自分の中の雑念というものはそんなに気にする
必要はありません。出させとけばいいんです。
 そういうものもこっち側はもうよく
知ってますしね。前も話したかわからない
けれども、法然さんという偉いお坊さんが、
ある信者さんに聞かれたでしょう。南無阿弥陀仏
と言うんだけれども、南無阿弥陀仏と言えば
言う程雑念が出てきて困ると。法然さんが偉い
人でねえ。あんたもそうか、わしもだという話が
あったよね。あれと一緒なんですよ。統一会に
来てね、眠ってもいいいんです。本心のところで
霊体は聞いていますからね。肉体は疲れるから
眠っちゃってもいいんですよ。そこをねびしっと
して、絶対にお話だからお祈りだから、
まっすぐに背筋を伸ばしてと、そんなもんじゃ
ないんです。もっと生命というものはほがらかでね、
本当は障りのないもんでしょ。ひろやかな
もんですよ。だから、そこを目指して我々は
祈っていくんですからねえ。窮屈になる為に祈る
わけじゃないでしょ。もっともっと自分のたがを
はずす。それを目指して祈るんです。何々をする
為に祈るとかね、そういう風にしてしまうとね、
その為にが主人になっちゃってね、目指してる
ものがねえ、めざしが嫌いでいわしがいいとかね。
 生がいいとかいう人もあるかもしれないけれど、
そんなんじゃないんですよ。

 神様の御心というものは深くて暖かくって
本当はやわらかい。北風と太陽の話じゃ
ないけど、北風が吹いたって旅人の衣はずっと
寒いから脱ぎっ放しにできない、むしろ、どんな
風が吹いてもしがみついたでしょう。だけど、
太陽の場合はポカポカ照ったから、サーッと
脱いじゃったね。あれと一緒なんです。どんな
ものもゆるしてね、どんなものも溶かす。それが
太陽ね、それが神様の愛なんですよ。そういう
ふるさとをあなた方はもってるわけ、自分の中
にね。それを日常の慌しい中ではね、ここに
ふるさとがあると思えたってなかなか
思えないから、だから、祈るわけでしょ。
 で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除を
してもらって、そうして、そのひびきにのって
統一してもらってねえ、もらってというのは、
私があなた方にしてもらうんですよ。あなた方が
五井先生にしてもらうんじゃないのよ。一緒に
祈って、祈りの階段をのぼってもらって、
お互いに神様の大生命の中に入ってゆくんです。
 そのお手伝いを私がしているんです。だから、
安心してどうぞ私のところへ色々もってきて
下すって結構ですから。

 やっぱり人間というものは、そんな窮屈な
ことを目指すんじゃない。祈りというものは
窮屈なことを目指すんじゃない。こうしなければ
ならぬというものじゃないからね。人間の中の
想いの枠をはずしてゆく。世界を広げてゆく、
光の世界の住人になってゆくということは、
自分を素直に朗らかにひろやかに深くね、広々と
させることですよ。

 しかし、人間にはそれぞれの立場というものが
あってね、立場によって出てくる言葉って
あるんですよ。私は前に妙好人ということを
言いましたよね。白光に寄ってくる人は特別な
人は来なくていいと言いましたよ。妙好人
みたいな人が集まりゃいいって。それは何も
妙好人を理想にした訳じゃない。けれども、
神仏へのあるいは大生命へのものすごく素直な
祈りがあり希求がある。そういう人をやはり
理想にしたい。他の、社会的な地位だとか立場
だとか、そういうものは一切いらない。そういう
ものはむしろ宗教にとっては本当に雑なものに
なるんです。やっぱり、すっきりと生き通しの
生命になってゆく為には、自分の中のそういう
雑物をのけてゆく、その為に祈りがあるわけ
ですから。

 ですけれどもね、さっき言いかけましたように
立場があってねえ。例えば、高橋君なんかは、
この人善人ですかって問いかけてくればねえ、
ああそうだよと答えなきゃしょうがないし。で、
善人だけがいいわけでもないんです。善人という
ことはいいことだけども、ある時にはいいけども、
ある時には大変だろうなあという時があります。
 例えば、バカ正直という言葉がありましょ。正直
ということはいいけれども、何でもかんでも言って
しまうということが、その人の人生にとっても
他の人の人生にとっても良いことか悪いことか
といったら、何でもかんでもつつみ隠さず自分の
気持ちを相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれないけれども、
それによって相手が傷つくということもある。
 だから、その立場立場によってね、ある時
ある人が善人に見えることもある。ある時ある人が
ずるく見える時もある。それは、その人がその人の
生きてきた環境とか色んなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人だなあとか
感じる。その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一たん認めてやらないといけない
訳ですよ。善人なら善人、ずるい人ならずるい人、
だけど放っとくとね、とてもじゃないけど
すっきりいい生命にはなっていかない。

 我々の目指してゆくところは、そういう色んな
面を持っていても、その生命をさながらに明るく
朗らかにしてゆくということですから、そこへ
向かってゆかなきゃいけないわけですからねえ。
 だから、私達はその立場立場によって、見える
感じる想えるということをまず認めた上でね、
その上でさらにその人の成長に従って、ああ
ここまでならこの人行けるなというところまで、
一段一段いっしょに階段を登ってやるという
こと。降りて行ってやるということね。それが
大事なんです。上からね、あなたこうしなきゃ
いけませんよ、こうすべきですよ、という風に
言ってしまいますとね、それがしたくとも出来ない
という人が沢山いるわけですよ。おもいは一杯
あるけれども弱くって出来ない、ありますよ。
 だから、それがいけないと言ってしまうと、
もうその人全体を否定することになる。禁止する
ことになる。おまえがいけないということになる。

 だけど、神様というものは、おまえはいけないは
ないんです。おまえは可愛いけれど、おまえは
駄目だ、おまえは良い子だけど、おまえは悪い
子だ、それは全くないんですよ、神様の側
からすれば。
 だから、それぞれその時々に応じてね、人間の
我々の目から見ますとね、ああしょうがない人
だなあ、やっかいな人だなあ、こんなつまんない
人がいるかしら、もう色々言ったって何にも
わからないような・・・と思いますよ、あせりますよ。
 だけども、やっぱりその人はその人なりに悟る
時期、分かる時期気づく時期、あるいは、
傷ついて一歩進む時期、色々あるわけね。そこで、
へたに我々が裁断をしてねえ、この人は駄目だとか、
この人を標準にして話をしようとかねえ、そういう
ことは言っちゃあいけないし想っちゃあいけない。
 何故なら、神様というものはね、そういう
標準を何ももっていない無限定なんですよ。神様
というものは、無限定な愛なんですよね。その愛
というものは測り知れない、測るものは
ないんです。そういうものから我々の生命
というものは出てきているんですね。

 その生命というものは、どんなに豊か
であることか。これは分からない程豊か
なんですよね。言葉なんかでは言いつくせない
でしょう。量とか質の問題じゃない。存在
そのものが愛なんだから、その愛に抱きとられて、
そこから出てきた生命というものが我々自身
だとすれば、我々というのはすごい宝物をもって
いただいてこの世の中に出てきてる訳ですよ。
だから、その宝物をもってながら、もちきれ
ませんすいませんということは、やっぱりこれは
傲慢不遜になる訳です。いただいたもの
なんだから、それをどう使うかは神様の方で
お決めになるんだから、そこですっきりと神様に
お任せをしてね、そうして、どう使っていただく
かはわかりませんけれども、日々私共はつとめて
まいりますというつもりで、世界人類が平和で
ありますようにとやっていきますとね、いつの
間にか我々を使って下さるわけですね。我々は、
我々も気づかない内に器になってまいります。
 その器になるということは自分を磨くという
ことでもあれば、皆さんに喜びを分けるという
ことでもあれば、自分の深い本心がそこで
満たされて光になってゆくということでも
ございます。そんなに難しいことでもない
けれども、しかし、不断に祈って、そうして、
超越者に任せて愛の源に任せてやっていく
ということが大事だろうと。

 その為に、色々申しましたけど、てっとり早い
のは、五井先生と呼ばれれば私はゆく訳ですから。
 呼んで下されば、引き出すお手伝いを致します
からね。その引き出しがいくつあるか、その幅
とか量とかそんなものは神様の方で決めること
であって、皆さんの方で、私量が少ないから
なんて、そんな遠慮することはありません。ただ、
そういうものを引き出すお手伝いを私はしに
まいりますので、どんな時でも構いません。文句
たらたら恨みごとたらたら、色んなものを
引き受けます。私はずっと十字架にかかって
おりますから、かかりっ放しですから。
 私に全部言って下すって結構です。だけども、
神様の御心というものは、そういう深いところに
あるんだということをねやはり承知なすって、
その上で祈って下すったら、光のエレベーターも
もっと輝いて、皆さん方を光の世界へ引きつれて
ゆくことが出来る。そうして、自己の為にも
他己の為にも、世界人類の為、宇宙人類の為にも
なっていく。そういう世界が、皆さんとともに
築いてまいれることだと思っています。
              昭和63年8月26日

光満ちた世界

2013-01-17 08:08:34 | 癒し
 こうやって壇上から見ていますと、本当に
光が満ちておりましてね。皆さんの体からも
心からも、それから、気持ちの流れからもね、
本心からも、ありとあらゆるところから光が
出ていて、そうして、お互いの体とか心だけ
じゃなくて、光がお互いに呼び合って、
大光明になって内も外も浄めてゆく。
 そういう情景が私の方から見えます。

 本当は、人間のその見える見えない
ということなどは些細なことでしてね、
ささやかなことで。光というものはとに角
あるんだということ、光の命によって我々は
生きているんだということ、そのことが
一番大事なことなのであります。

 光の命というのは何かというと、これは
神様の命だ。神様というのは何かというと、
これは愛と平和とゆるしの源だ。愛と平和と
ゆるしというものが我々の生命の根幹にも
なっているし、大宇宙の秩序にもなって
いるし、もう話を大きく深くしていったら、
神様という方は、この三つのものを現わす
為のものにすぎないと。大愛という大河の
流れの中にいらっしゃる、それが神様だ
ということが言えるんでありますが、しかし、
そこまで話を大きくしなくても、私達の中に
この光が交通しておりましてね、交流して
我々は実は生きてゆくことが出来る。

 光というものを見えなくても、例えば、
ほほえみですね、笑顔によって心を
なごませることができる、なごむ心がある
ということを申しましたけれども、その笑顔の
中にやっぱり光が宿るんです。
 ろうそくの光がポーッとともるとそこが
明るんで、そうして、夕暮れ時や夜など、
他にあかりがありませんと、そこにあかりが
集中しますね。そして、お盆に、宗派に
よってはね、浄土真宗なんかだと、お迎えの
桃燈があり、そのあかりを頼りにして帰って
くるという信仰がありますね。
 そういうろうそくの一本のあかりというものが、
その中に何が入っているかというと、皆の愛念
ですね。迎えよう迎えたい、一緒になりたい
一体になりたいと。私達は、生きている人も
死んでいる人もそうですけれども、この人と
一体になりたい、話がしたい、仲良くなりたい、
喧嘩をしたくない、色々な想いでもって、
相手と関係を結んでゆく。相手と仲良く
なりたいということで笑顔を送る時に、
その中に光が入るんですね。祈りが
入ってゆくんですね。その時に、別に
南無阿弥陀仏と言わなくとも、祈り言を
唱えなくとも。だから、笑顔というものは
すごいものです。笑顔は本当に光を
生み出すものですね。

 本当に信心深いということはどういう
ことかとよく聞かれますけれど、本当に
信心深いということは、ただひたすら神様と
一体になっていて、そして、神がかりになる
というんじゃなく、ちゃんと自分を持ち、
その上で何かひたすらに打ち込んで、
喜んで、動いている。語っている、働いて
いる。その時に、信仰というか信心というか、
そういうものが動いてゆく。と私は思います。
 そのあたりが、我々の肉体を本当に
動かしてゆくもんである。

 ところが何か信仰といいますとね、遠く
離れたもののような、あるいは、神様や仏様
というものも遠く離れたもののような、光明
とか何とかいいますけれども、それも何か
自分からは遠く離れたもののような、そういう
気持ちに皆なりがちですけれども、そうでは
ないんですね。あなた方も一人一人が皆光
なんです。

 そうして、その光というのは、目には
見えなくても、例えば、笑顔で人に接する
時に、自分の中のもともともたされている、
いただいている生命というものの中から光が
奥深く出てまいりまして、その光がパーッと
あたりを照らしてゆく。だから、よく歩くだけで
お浄めになるということを申しましたが、実際
そうなんです。自分は何も思っていない、
お浄めするとか何とかいっさい考えないで、
動いてゆく、歩いてゆく。ただ無心に
歩いてる。何にも考えないでぼんやり
歩いている。歩いているんだけれども、
それだけであたりが浄まってゆく。本当の人間
というものはそういうもんですね。

 神様の愛というのはそういうもんですね。
 例えば、太陽というものは、誰を照らして
誰を照らさないということはありません。又、
この人は優しい人だからここには雨を
降らせて、この人はいじわるだからここには
日照りでと、そういうこともありません。皆
平等に、神様は雨を降らしたり照らしたり
色々します。あるいは、星の光などという
ものもずい分人間の心の慰めになります。
 星の光や日の光をうたった詩だとか言葉
だとかいうものも沢山ありますね。そういう
ものを通して我々の心が慰められるのは、
私もうたをよみますけれども、詩人や歌人
という人々が神様の心というものを感受
いたしまして、感じとりましてね、そうして、
その心をいただいてうたや詩にする。
 そうすると、それがひびきになって我々の
中へ帰ってきて、そして、我々の中の生命の
火をかき立てて、往相還相じゃ
ありませんけれども、我々の中の光が
まわりまわってですね、あたりを浄めて
ゆくんですね。

 そういう風に考えますとね、ここだけが
光に満ちているとか、あそこは光に満ちて
いるとか、ここは光がないとか、というのは
これはやはり人間の想いなんですね。
 人間の想いというものは、実にさまざまな
世界をつくります。例えば、この人と仲良く
なりたい、この人といつまでもつき合いたい
と思うと、やわらぎの光が出ますね。そして、
争いたくないというただ単なる平和主義者
ではなくて、本当に調和をして生きてゆく。
 その為の祈りによって、祈りの光が
出るから、やわらぎがまことになっていって、
なぐさめになっていって、本物の光が出る。
 だけども、別のことも言える訳です。我を
もってる人間の側から言えば、こんな人とは
仲良くなりたくないとかね、ありますよね。
 あいつの顔なんか見たくないとかね。あり
ますでしょ。そういうことで分けてしまうと、
そこにたちまち闇が出てきますね。そして、
何かいやな空気になってまいりますね。
 それは人間の想いがつくり出す世界。
 不思議なことに、やわらぎの世界も、
それから、いやな空気の世界も不安に
満ちた世界も、皆これはどこから出てくるか
というと、これは人間の想いから出てくる。

 実に、人間というものはさまざまなものを
つくり出すことが出来る存在。ところが
これは皆空なんです。本当の真実の
姿のものではございません。

 本当の真実の姿というのは、それでは
何かといえば、それはどんな時にも
動かされない、どんな時にも迷うことがない、
疑う余地のない神様の愛の光というもの。
 例えば、どんな業の中にあっても、その
業をゆるやかに、愛情をもって消して
ゆきながら、ついに、その業の闇をも光に
変えてゆく、そういう大愛。それが真実の
光の世界であります。
 で、この真実の光の世界というものを、
実は私達はそれぞれの心の中にもって
おりまして、本当はこれが原動力になって
私達が生きてゆくことが出来るということ
であります。
 ですから、そこへずっと気持ちを集中し
心を集中し、祈りを集中してゆけばですね、
いつも私が申しましたけど、一分キリスト
一分釈迦一分老子になることができる。
 老子が無為と申しましたのは、何もしない
ということではありません。あるがままの
自己というものをほがらかに認めて、
そうして、そのほがらかな自己というものを
さらにポーンと投げ出して、笑顔でもって
それを見つめていると、そこから光という
ものが見えてくる。光以外に見えてくるものは
ない。そういう世界であります。そういう世界に
本当は人間は遊ぶことができる。

 荘子に逍遙遊篇(しょうようゆうへん)
というのがございます。逍遙遊篇というのは
何かというと、ご存じの方もあるかも
わかりませんけれども、つまり、大鳥鳳凰
というのがあって、鳳凰(ほうおう)のあの
大きな鳥が天空をかけ巡ってゆく、その
姿の壮大なこと、それを最初にうたって
おります。そうして、鳳凰というのは元を
正せば、北の方に大きな海があって、そこに
こんという大きな魚がいて、その大きなこん
という魚が鳳凰になったんだという風に、
冒頭に書いてあります。で、後の注釈者
などは、これは何を言っているのかよく
分からない。非常に混沌として、大魚が出て
きたり、鳳凰が出てきたり、なんだか
気宇壮大ではあるけれども、それ以上何を
言おうとしているのか、非常に空想的な物語
であると、たいがいの人がそういうことを
申します。

 けれども、人間の智恵とか知識とかいう
ものでは推しはかれない程の、深くて大きい、
天空そのものさえもおおいつくしてしまう
ような、そういう絶対的な愛の存在という
ものがございまして、そして、それが、この
地上に生きている私達も、あるいは、地上に
這っているけものたちも、すべての
草木たちも、ありとあらゆる生命の中に
息づきを与えているのだということ。その
ことを覚えていただきたいと思うのであります。
 つまり、我々の生命というものは、我々の
想いいかんに関わらず、憂い辛いとか色々な
ことがございますけれども、そういうものに
関わらず、我々の中で光へ光へと導いて
いく、我々を明るい方へ明るい方へと導いて
ゆく。そうしてついに、真実に何ものにも
動かされない、不動の心と私は申しました
けれども、そういう不動の心に導かれて、
そうして、光そのもの、光一妙の世界へ
連れていって下さる。そういうことなんです。
 そして、それは遠くにあるのではない。

 神様というのは、あなた方がお呼びに
なれば、あなた方のすぐそばへ来て下さる。
 守護の神霊たちは、お呼びになればすぐ
来て下さる。そして、寄り添って下さる。
 目には見えないかもわからない。けれども、
祈りの中に神様を呼べば、あるいは、
五井先生を呼んでもですね、すぐあなた方の
そばに行ってあなた方を守り、あなた方を
支えて、そうして、光へ光へ、明るい方へ
明るい方へ導いてゆく。で、ここを根幹と
いたしませんことには、闇と見えるものを
闇と見まちがえてしまいます。思いまちがって、
憂い辛い世の中のこの表面の現象面のこと
だけに把われてしまって、自分も憂い辛い
そのうずに巻き込まれてしまいます。
 けれども、本当に強いやさしい真実の光の
世界というものは、そういうものに
のみ込まれないものであります。そういう
ものに引きずられないものであります。
 あるいは、そういうものを労わり溶かし、
そうして、人間の色々な苦というものを
包み込みながら、さらに深い大きな神様の愛へ
と導いてゆくもんであります。で、ここを
やはり覚えていただきませんことには。

 例えば、色々な問題が・・・。皆様方の
集会や支部や、あるいは、全国を巡講なさる
場合に、色々な問題が皆様方のところへ
山積みのようにくると思います。その時に、
こんな大きな問題は今まで私は経験した
ことがない。そんなことは私の手にあまる。
 そういう想いに皆把われると思います。
 それは把われて当然でございます。

 けれども、事の本質は、本当に大事な
つかまなければならないことは、色々な
起こってきている現象というものは二つ
あって、一つは、今私が申しました、皆様の
それぞれの想いによってつくられていく世界が
現象になっていく。前にも申しました様に、
天変地異というものは、皆様の業想念という
ものが、ある時ある一定の限度を越えて
破れて、そして、又、ある調和を取り戻そう
とする時に、大水になったり、大地震に
なったり、この世の中には不幸と見える事柄
でもって大調和へ還ろうとする時の運動
であります。
 その元の元の元を正してゆくと、我々
自身の恐怖であるとか色々な不安であるとか、
明日の生活への恐れであるとか悲しみである
とか、大丈夫だろうかという心であるとか、
そういうものが一人二人の間は何でも
ございませんけれども、まだ小さいもの
ですけれども、何百人何千人何万人何億
という人のその想いが積み重なった時に、
うっと爆発をしまして、それがどっと大洪水に
なり、あるいは、地震になり、大火事になり、
あるいは、今、南極の氷が解けているとか、
そういう現象になっている。あれは決して
フロンガスだけの問題ではありません。
 あれは業のそういう積み重なりも
ございます。

 そういう想いの世界からつくられている
場合と、それから、守護の神霊がわざと置く
つまずきの石、修行への為の石という場合と
両方ございます。これは非常に難しいもので
ございまして、これを見分けるということは、
とても人間わざではなかなか出来ません。
 その時に何が一番大事になってくるか。
 色々な問題を皆様がお聞きになる時に、
あるいは、どうしても持ち込まれた時に、
判断をあおられた時に、何を基準にして
それに答えてゆくか、浄めてゆくか祈って
ゆくかというか、これは、神様の御心という
ものをやはり大基盤においてしていただか
ないことには、やはり道をまちがってしまう
ことになるのであります。

 例えて申しますと、私の手にあまる位の苦
であっても、神様の側から見れば、この人の
この時点での修行の為に置かれたつまずき
の石、つまずきの石ではあるけれども、
さらにこの人の光が輝いて、そうして、
この人の人生が深くなって、ついに天命に
全くとけ入ってしまう。そういう導きの為の
つまずきの石ということがございます。

 そこで、ただとに角、それを見分ける。
 あるいは、そういう深い智恵の言葉を
出させていただく。そこへいきます為には、
とに角お任せするんだ、私がその時に
判断をしてしまうと非常な苦になります。
 例えば、どちらへ行った方がいい
でしょうか。右へ行った方がいいでしょうか、
左へ行った方がいいでしょうか、というような
質問。進学のことにしても就職のことにしても、
あるいは、思うようにならない人生という風な
ことにしても、色々なことが持ち込まれて、
そして、自分の一言でその人の人生が
ある程度、方向方針が決まってしまうという
ような場合に、自分の言葉でもってという風に
思ってしまいますと、責任も重くなりますし、
とても引き受けられるものではございません。

 そうではなくて、そういう色々なことという
のは、現象から来ている場合もあります。
 つまり、想いの世界からそれが起こってくる
場合も、つまずきの石の場合も両方ござい
ますけれども、しかし、いずれにしても、
それが神様の御心によって、いただき直しの
生命をさらに深くいただく為のものである
という信仰の上に立って、そうして任せ
きってですね、印をきり、あるいは、祈って
いただき統一をしていただき柏手を打って
いただきますと、おのずから深いところからの
言葉というものが、守護の神霊によって支え
られて、皆様方の唇からその言葉が出て
まいります。

 このことは一朝一夕に出来ることでは
ございませんので、大変だと思ってしまうと
これはえらいことなので、そんなことは思う
必要はありません。
 つまり、おろおろする自分も、頼りないと
思う自分も、色々な自分があってよろしい
訳です。その一つ一つの自分というものを
しりぞけるのではなく、いとおしんで、ああ
こういう自分があるんだなあということを
見つめて、そうしてその上で、あなた方なりに
あなた方の立場で、無理をせずに背伸びを
せずに、その信仰を深めていって
いただきたい。

 ただ、物事の本質と申しますか、神様の
本心といいますか、本体と申しますか、
そういう一番はずしてはならない御心の深い
ところというのは、先程から申しております
ようなところにございます。ですから、ここの
ところだけは、データーをまちがえて頭の
すみにおいてしまいますと、とんでもない苦に
なりますので、そこのところだけをやはり
自分の肝に銘じて、そして、祈って、出来る
ことはできる、出来ないことはできない、
出来ないところは助けていただこう、つまり、
他力と自力を融合させて、そうして、皆が
そういう難しいことばかりではなしに、私も
光の国の住人ならばあなたも光の国の
住人なのだというつもりで暮していって
いただいたら、随分とこの世の中は平和に
なっていくと思いますし、光明波動という
ものは益々広がってまいることであると
存じます。
          昭和63年8月26日