わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

我らのふるさと(3)

2023-03-26 09:01:02 | 癒し
     (前日からの続き)
我々の生命だって、ずっと生き通しだと
いうのは観念論じゃないんです。
本当にずっと我々は抱かれてゆくんですけど、
それはこの神様というふるさとをもってれば
こそね、我々はそういうものを実感する
ことができる。
あたたかいんですよね。
とてもあたたかい。
ちょうど私の母の絶対の信頼のようなね、
そういうあたたかさですね。
それがあるから、それを自分の体の中に貫いて
見ちゃったから、私は本当の私に出会っ
ちゃったから、だから、私はあなた方に
自信をもってね、間違いのない世界が神様
という世界があって、大きな愛があって、
それによって我々が生きているんだという
ことを語りつぐことができる。
これは間違いのない事実ですね。
それは五井昌久だけにあるんじゃない。
皆の中にあるんですよね。

そういう信仰は、五井先生だけで五井先生
ならではだと皆言うけれど、そうではない。
奈良とか京都じゃないんです。
皆が同じふるさとをもっていて、そして、
そのふるさとが絶えることがなく我々の中に
あり、我々が帰ろうと思えば、そこへ
いつでも帰ることができる。
そこを思えばね、我々のエネルギーも
何もかも新たにされていくということ
ですよね。
そこを忘れてというか、忙しくなっちゃうと
皆この世の中だけになっちゃうけど、その
ふるさとへ帰ろうと思えば祈ればいいん
ですからね。
祈って、そして、神様の名を呼んでね、
守護霊さん守護神さんの名を呼んでねえ、
やってる時にはあなた方はもうふるさと人
ですよね。
ふるさとへ帰ってる訳ですよ。
いつでも帰れる。
いつでも癒してもらえる。
そういうものを我々は皆もってるんですね。
だから、この我々の宝というもの、
朽ちることのないふるさと、神様という
ものを大事にして呼びかけて、そして、
皆が神様の愛を受けた子どもなんだ
ということを覚えてね、毎日毎日が
過ごせてゆけるように、どうぞ精進なすって
下さい。
       昭和63年8月26日

我らのふるさと(2)

2023-03-25 08:18:11 | 癒し
      (前日からの続き)
ところで、私たちは、生まれていろんな所を
ふるさとにもっているんだけれど、で、
ふるさとを離れて過ごしている人もたくさん
いるんだけれども、私のふるさとは何か
というと神ですねえ。

神への郷愁という本を書いたけれどもね、
これはもう変わることのないふるさとですね。
神様というのはね、これはもうとてつもなく
大きな愛でしょう。
で、その愛というのは高くて、そうして
もう何ともいえない安心感、ここへ帰って
いけば間違いないですよ。
絶対に間違えっこないんです。
だから、私たちは安心して文句も言えるし、
恨み言も言える。
とにかく神様なんだから。
しかし、我々はそこへ帰るということ
だけではなくって、そこへ出発点にしてね。
そこがふるさとなんだということ、我々は
神のふるさと人なんでね。
原稿にも書いたけどさ。
そのふるさと人である我々が神様という
ふるさとから出発して、いろいろな所へ光を
撒いてるんだということねえ。
そうして、エネルギーがきれたらそのふるさとへ
戻ってね、神様お願いしますといって、祈って、
そして、光をもらってね、また働く。
こんないいことはありませんねえ。

このふるさとはなくならないですよ。
例えば、日本では、あるいは世界だって、
今土地が狭くなって、海を埋めたりとか
やってますでしょ。
新しい都市ができて街ができて、そこへ
移り住んでやってるけれども、そのふるさと
というものはね、ある時ダムに沈んだり、
いろんなことが重なって、そのふるさとの原形
そのままというのはなくなりますよね。
ところが、このふるさとはなくならないんだね。
このふるさとはなくなりっこないんです。
これは我々の魂の元の元ですもの。
神様というのはそうですよ。
我々の元の元でしょ。
その元はなくなりっこないんです。
          (つづく)

我らのふるさと(1)

2023-03-24 05:41:48 | 癒し
この間はお盆でね(講話会当時)。
たくさんの人がふるさとへ向かって、
ひかり(当時)や飛行機などを使って
大移動をしましたよね。
毎年毎年あれをやるんだね。
何故、ふるさとへ向かって人間は
帰るのかなあと思うけれどもね。
なつかしいんですよね。
やっぱり、自分の生まれたところ、育った
ところ、そして、自分を快く迎えてくれる
ところ、飾りがとれるところ、それが
ふるさとでしょうねえ。

私も、新潟と東京と両方ふるさとをもち
ましたけどね。
どっちもいいですね。
私は、私の生きていた時はねえ、母の中に
やっぱりふるさとを見てましたね。
小っちゃい母でしたけどね。
いつもニコニコして、私のすることに絶対の
信頼をおいてくれてね。
あれは有り難かったねえ。
あれがなかったら、私は修行出来なかったんじゃ
ないだろうかしら。
そう思いますよね。
他の人が、五井さんどうかしたんじゃないか
とかね、気がちがったんじゃないかとかね、
いろいろ言っても、まあ心配そうな
顔しましたよ、ですけど、絶対に信じてくれた
ものね。
昌久が変なことする訳はない、絶対大丈夫だと。
だから私はやれたんだなあ。

そういう母親の信頼というものをね、今
思い返してみると、これがやっぱり、神様の
愛に通じるなあと思いますねえ。
何やっても神様というのは許して下さる。
例え神様なんていないなんて悪口言ってもね、
やっぱり大きな愛情で抱きとって下さる。
揺ぐことがないんですよね。
母親の愛と同じだねえ。
あるいは、父親もそうですよね。
親の愛でもいっしょですよ。
やっぱり、そういうことが基盤になってますね。
そういうのを我々はふるさとに求めるんじゃ
ないでしょうか。
絶対に裏切られないもの。
よく人が死ぬ時が近くなると、生まれた所へ
帰って死にたいとか言いますでしょう。
死病にかかった人なんかがね、絶対に
ふるさとの土と空気と山と川、そういう所を
見て死にたいと思いますでしょ。
あれはやっぱり、そういうものに抱かれて
安心して死んでゆきたいという想いが、
自然に湧き起こるからですよ。
それが人間の自然な心というものですね。
         (つづく)

心と本心(8)

2023-03-23 10:02:02 | 癒し
      (前日からの続き)
今、白光真宏会が、あなた方は神の子です
と言ってるけど、それは、あなた方の中に
ある神様の深い生命というもの、それを
用いていただく時には遠慮しちゃあいけない
ということです。
それをどう用いて下さるかは向こうが決める
ことであって、我々はそこへ導いて下さる
ままに、祈って進んでゆけばいいんです。
ただだまって座っていても構わないんです。
任せてしまえば、向こうがきっちりして
下さるんだから。

ただ、我々の中に、性格というものがある
でしょ、気持ちというものがありますよ。
だから、そんな私なんかとか思うけれども、
そうじゃない。
毎日毎日投げ出して祈ってるんだから、
カラッポになる修行をしているんだから、
ある時に、ものすごい大役がくるかも
しれない。
ある時に、ものすごい辛いことがくるかも
しれない。
いいことも悪いことも来ますよ。
その時に、いざという時に、そうだ神様
と投げ出してね。
今まで投げ出してくる練習をして来ました、
だから、どうか用いて下さい、器にして
下さいって祈ってごらんなさい。
本当に祈りの光でいっぱいになるから。
で、呼んで下さる時には、私はどこでも
行くんですからね。
だから、呼んで呼んで祈って祈ってね、
やって行かなきゃあこの世の中というのは、
辛くて辛くてしょうがないんです。
そのために本心も心もあるんですよ。
あなた方の中に神の宮があるんですよ。
神様とつらなってるんですよ。
そのことを忘れないでね、祈ってやって下さい。
        昭和63年8月26日

心と本心(7)

2023-03-22 07:26:40 | 癒し
      (前日からの続き)
生きるということにしたって死ぬという
ことにしたって時があってね。
我々のこの肉体人間の情から言えば
とてもやりきれないいろんな出来事だって、
それはやはり選びの時なんですね。
向こう側からすれば選びの時なんです。
そうして皆のことを考えてる。
そういう時が与えられる時はね。
だから、ああこれは神様が与えて下すった
ものなんだなと考えることですねえ。
それを目指して、世界平和の祈りという
ものがあり、皆さんの統一というものがあり、
印というものがある。
皆離れてるもんじゃないんですよ。

あなた方の祈り心が深くなって、自分を
深く省みて、自分の中に、そうだ神様からの
宝物を私たちはいただいているんだなと、
そう思える心になった時に、そう思える心が
一瞬間きたら、これはもう大変なことですね。
で、それをずっと続けていって下されば、
それはもう大変なことですよ。
それをできないと思っているのが人間ですよ。
できると思っているのが神様です。

宗教というのは、そのできると思ってる
神様の大きな愛念に、我々全部を預けて
しまうことですね。
生命もすべてね。
投げ出すというのは大変なことだけど、
やってしまえば簡単なんですよ。
なかなか情としては大変だけどね。
やってしまえばと言ったって、
できないですよ先生、とくるかも
わからないけれども、あなた方、祈ってる
時は投げ出してるんだよ。
自分たちは分からないけれどね。
世界平和の祈りを祈ってる時は、いろんな
雑念があろうと何していようと、やっぱり
投げ出してるんです。
だから、あなた方は毎日毎日投げ出して、
自分をカラッポにする修行をやっぱり
やってるんですよ。
気がつかない内にさせていただいてるんです。

だから、任せるということは朗らかになる
ことですよ。
神様と一つ生命になるということですよ。
あるいは、神様の愛が私たちの中に流れている
ということを知ることです。
そのために祈りがある。
そのために生きる。
そのために悩むんです。
すべて無駄な事はないんです。
皆必要なんですね。
決まってる事なんです。
必定なんです。
だけども、神様というのは宿命じゃない。
宿命論者じゃないし運命論者じゃない。
だから、運命修正というものができるでしょ。
皆さんの祈りによってできるでしょう。
あるいは、皆さんの愛念によって動いて
いくんですよ。
そこに世の中の人々が言う奇跡というものも
生まれて来るんです。
だから、もうこれは神様事だから神様に
任せなければ仕方がないといって投げ出してね。
投げ出してというのは、放り投げて努力もしない、
ねえ、もうとても私たちの力では及びません
といって投げてしまっちゃあ、こりゃあ
駄目なんです。
やっぱり祈る。
祈って祈って祈って祈りきったところに
光が出てくる。

その時に、例えば生き死にの問題で言えばね、
つまり、一人の人に、生命を向こうにもって
いかれるか、まだこっちにいて皆さんの役に
立つか、どちらになるか分からないけれど、
祈って光がパーッと来て、そうして、そうか
それじゃあといって向こうで変更になるかも
わからない。
その辺わからないんです。
ただ分かってる事は、どんなふうな現われ方を
しても、神様というものは絶対に
私たち一人一人を愛しているということ。
憎んだりは絶対しない。
恨んだりも絶対しない。
何故なら、みんな神様の子どもなんだから。
ね、子どもを愛さない親はいないでしょう。
そうでしょう。
絶対みんな子どもは可愛いいですよ。
その何十倍何千倍、神様というものは
一人一人を愛している。
今のあなた方のありのままを愛しているし、
あなた方の中に貫いて流れている深い生命
というものも愛してるし、あなた方全体の、
もう全部を愛してる。
それを引き出して用いようとなすって
らっしゃる。
だから、遠慮しちゃあいけないんです。
         (つづく)