回転寿司の日記

日常の身辺雑記を紹介

横澤彪さんと松本竜助のこと

2011-01-14 14:19:09 | 喜劇人
1月14日、今日で5連休終了。
8日に、元フジテレビプロデューサー横澤彪さんが亡くなりました。
「お笑いの仕掛け人」に涙のお別れ 横澤さん通夜に芸人ら1000人

80年代初頭、平日のお昼に「笑ってる場合ですよ」から始まり、「オレたちひょうきん族」
「笑っていいとも」をリアルタイムで見ていた1人として、自分の感想を述べたいと思います。

80年代のお笑いについて、一言で感想を述べると。
後世語り継がれる「漫才コンビ」「コミックグループ」などは現れなかったとの思いがあります。もちろん、ブームの渦中においては「B&B」「のりお よしお」「ツービート」「ザ ぼんち」「紳助・竜助」など非常に人気があったし、よく見ていました。あと、鶴太郎、山田邦子、ヒップアップですね。
バブルがはじけ、現在も活躍している人は僅かです。

フジテレビの組織人としての横澤彪さんは、番組の視聴率アップに貢献したわけで、非常に有能で称賛されてしかるべき人と考えます。私が中学生、高校生の頃は民放といえばTBSだったけどこの頃からフジテレビの時代になりましたね。

ただ、芸人の切り売り、消耗品的な扱いなど視聴率のためには正しい手法でしょうが、どうも好感は持てません。

この芸人の消耗品的な扱い等について、景山民夫は自著の「極楽TV」の中でこのように横澤さんを観察しています。長くなりますが、以下に引用します。

引用ここから

 ヨイショも多分に含めて言うのだが、横澤サンがいなかったら、今の日本のテレビはずいぶんつまらないものになっていたと思う。とにかく、笑いに熱心なのだ。その熱心さは時折、僕に怖さを感じさせる程だ。あれだけ温厚で人当りの良い人なのに、怖さを感じてしまうのだから相当なものだ。 例えば、僕が「笑っていいとも」に出してもらった時、出番が終わってスタッフ控室みたいな所でディレクターや「いただきます」のスタッフ達と、続きのオンエアを見ていた時のことだ。コーナーは「なるほだ・ダ・ニッポン」になっている。横澤さんがポツリと言う。
「つまんないね。こいつらつまんないよ。あんなことやってちゃ駄目ですよ」

 確かに画面に登場している外人達が、タモリと全く歯車が噛み合わないのだ。勝手に喋り続ける奴。わけの分からない自己主張をする奴。つまらないウケを狙う奴。
そして、僕は横澤サンがつぶやいた瞬間に「あ、もうこいつら二度と出番は無いな」と直感する。対談の中で横澤サンが言っているように、彼は現場はディレクターにまかせて口出しをしない。その代わり、切る時は実に見事に切る。自分の中の尺度がハッキリしているから、剣の達人が据え物斬りをやってみせるように、凄い切れ味で一瞬に斬る。見事ではあるが、怖いとも思う。自分が切られる瞬間を考えてしまうからだ。切られないためには全力で立ち向かうしかない。

 「ひょうきん族」の台本の、出演者の名前を書いたページは、実は相撲の番付みたいな役割を果たしている。人気の高いタレントの名が前の方のページに載る。キャリアに関係なく、人気が下がると後ろのページにされてしまう。関係者以外にこれを知る人は少ないが、タレントは毎週こわごわとページを開くのではないだろうか。こういうことをやってのける横澤さんは怖い。そして、だから今一番テレビに必要な人なのだ。

引用ここまで
注:傍線はnfy

まあ、社会に出れば以上のことはどこにでもあることだとは思う。
ただ、組織の発展は人の育成如何が問題だと思うけど、漫才という芸事の発展のために人の育成では、横澤さんがどれだけ寄与したのかは正直わかりません。

ただ、私はこの漫才ブームというと2006年に死んだ松本竜助が頭をよぎります。
以下ウィキペディアに掲載された一文をそのまま掲載します。

案内所で勤務中に脳内出血(脳幹出血)で倒れ、同年4月1日死去。49歳没。最後の言葉は倒れる前に従業員に言った「頭が痛い」であった。3日後の4月3日、大阪市北区長柄西の大阪北玉泉院で行われた葬儀・告別式には、かつて所属していた吉本興業の関係者や所属芸人、ファンなど約500人が弔問に訪れた。なお、元相方の島田紳助は参列していない。

この頃の松本竜助は、もう漫才の世界からは離れています。案内所とは風俗案内所のことです。

漫才ブームに明と暗があるとすれば、この松本竜助の死とは、暗にあたり、明は功なり遂げた横澤彪さんになるのかなと思いました。

また、何故島田紳助がこの時葬儀に参列していないのかは分かりません。
以下は推測です。島田紳助といえば、自身の番組を何本も持つ超売れっ子ですが、その番組内で彼の売れない若手芸人との接し方をみると、かつての漫才ブームの頃の彼の態度とは
180°違うのかなと、思いました。なんというか、1人では生きていけない芸人に一生懸命光をあてているように感じました。

これが、竜助の死に対する紳助の答え、ひいては横澤彪さんを頂点とするあのころの
漫才ブームへの対処なのかなと思いました。

さて、最後に「オレたちひょうきん族」の名物「ひょうきんプロレス」の動画を見て終わりにしたいと思います。
出演は、タイガージェットおしん:松本竜助 フルハム・三浦:景山民夫
プロデューサーの横澤さん含め、みんな死んじゃいましたね。

補足をすると
景山民夫は、放送作家にして直木賞作家。コメディアンではありません。(笑)
リングネーム フルハム・三浦とは、当時のロス疑惑のパロディー。
景山は、どうかすると当時三浦和義氏に顔がそっくりだった。


HWAひょうきんプロレス#1












生きている人と死んだ人

2010-04-16 10:59:08 | 喜劇人
小林信彦の著作は、20代のころに「日本の喜劇人」を読んだのが最初です。
当時、コミックバンドがやりたくて、昔全盛を風靡したクレージー・キャッツのことを
調べれば参考になるかと思ったのがきっかけです。

残念ながら、そう簡単にコミックバンドなんか誰にでもできるわけなく見事に失敗したわけですが、それ以後も小林信彦の著作は折に触れ読んできました。

昨年から、再びバンドを組んで活動するようになり、この「植木等と藤山寛美」を再び
読みました。ここから、今回のタイトルと関係してくるんだけど、どんな人でもその生い立ちには歴史があり、その人に大きな影響を与えた人がいると思います。

たとえばこの著作「植木等と藤山寛美」P103~104には、こんな個所があります。長くなりますが引用します。

「日本の喜劇人」という本が72年に出版されたことはすでに述べた。
出版された本がどういう風に読まれていくのかは、著者にはまったくわからない。
翌73年、25歳のミュージシャン大瀧詠一はさらに若い伊藤銀次、山下達郎と出会った。
<・・・・その本をぼくに紹介してくれたのは、伊藤銀次で、読書家である彼が、たまたま本屋で見かけ、ぼくがロック・ミュージシャンにしては珍しく、クレージー・ファンであることを知っていて、きっと面白いと思うに違いない、ということで持ってきてくれたのだった。>と、大瀧詠一は記している。

<・・・特に「第七章・クレージー王朝の治世」を読んだことが、ぼくの70年代の活動を、良い意味でも、悪い意味でも決定づけた。良い意味では、お笑いが好き、という自己の原点の再確認が出来たことと、幅広い音楽に取り組む勇気を与えられたこと。悪い意味では、コミック・ソング制作に没頭する余り、ミュージック・シーンの栄光の座からどんどん遠くなり、70年代後半はマッ暗な歴史となったこと・・・。>
<まあ、それはさておき、クレージー・サウンドが自分にとって、アメリカンポップスと同様、重要なものだと気づくや否や、一年間、中古屋巡りをして、全シングルをジャケット付きで、執念で、集めた>
引用ここまで。

ここで言いたいのは、山下達郎を論ずれば竹内まりあも出てくるだろうが、大瀧詠一も登場してくる。そして、大瀧詠一を論ずるにはクレージー・キャッツはどうしても外せない。
ひいては、植木等に行き着く。植木は平成17年3月に亡くなったが、植木に親しみを感じる自分は、大瀧にも同様親しみを感じてしまう。変な理屈かもしれないが、だから生きている人と死んだ人を区別してはいけない。

ちなみに、現在のバンドのメンバーはコミックバンドにはあまり興味はなく、今後コミックバンドに自分が走ることはないと思う。
また、その他現役のミュージシャンでクレージーキャッツと縁がある人がいる。その1人が松任谷由実である。ユーミンと谷啓のデュエットでI still crazy for youという曲である。
この曲、ミュージックサイトでダウンロードできるので興味のある人は聞いてみてください。曲の最後で、植木等が「お呼びでない・・」とせりふのみで参加している。


おしまい。

Busy Four - Beatles (all about beatles)

2010-04-15 09:30:37 | 喜劇人
Busy Four - Beatles (all about beatles)


感想は、当時はやった「ボートハウス」のトレーナーが懐かしい。お店はどこだったかな、
青山学院の近くかな。買いに行った記憶がある。

ビジー・フォーは、クレージー・キャツ、ドリフに続くメジャーになれたコミックバンド
だと思う。残念ながら、解散。しかし、楽器の練習とネタの練習とダブルで重なれば
やはり長期の継続した活動は難しいと思う。

このビデオで自分が面白いと思ったのは、ヘルプのネタ。

でも、世の中にはこの難しい課題を、いとも簡単にこなすグループが今後出てくるかも
しれない。その意味で、それに近い存在がSMAPだと思う。
こう書くと、ファンの人に怒られるかもしれないが、ギャグのセンスと反射神経は
すごい。彼らは、ボーカルグループだが、これが楽器も一流となれば、史上最高の
コミックバンドになれたと思う。

さて、先週末より体調不良が続いていたが、なんとか復調しつつある。

だめだこりゃ

2010-04-07 06:07:50 | 喜劇人
最近、テレビで立て続けにドリフの特集をやっていた。
ドリフというと、お子様向けのお笑いコントという印象だが、やはり原点はコミックバンドだ。私が小学校1~2年生のときは、音楽コントを結構やっているのをテレビでみた記憶がある。

有名な話では、このブログでも取り上げたがビートルズ武道館公演での前座出演であろう。
ただ、当時の記録をみるとそのコミックバンドのセンスはクレージーキャッツに比較すると
どうしても落ちる。

音楽センスもあって、ギャグもうまいとなると、加藤茶しかいないと思う。

このドリフの歴史を調べるについては、いかりや長介の「だめだこりゃ」(新潮文庫)が
適切だ。印象深いページは以下の通り。

前期ドリフターズというものがあるとすれば、加藤が一人で引っ張り続けたのかもしれない。私が唸ってしんぎんして考え抜いたネタを加藤はいとも簡単に実演してくれた。
あまり積極的にアイデアを出すタイプではなかったが、実演に関しては外すということが、間というのかリズムというのか、拍子というのか、抜群のセンスだった。・・125P

1964年(昭和39年)、新生ドリフが五人で再出発を誓ったとき、最初のけいこの後で
「何があっても、このメンバーでやっていく。俺から辞めろということは絶対言わない」そう誓った。替えの利くミュージシャンではない、替えの利かないコメデイアンを目指したのだ。この誓いを、今でも守っているのだ。・・205~206P

技量がそれ程高くなくても、勤勉な練習と創意工夫はそれを補うことができると
ドリフの歴史を見て思った。

コミック バンド

2010-03-12 06:00:47 | 喜劇人
ドリフ&ビジーフォーの音楽コント 1/2


昨日は、夕方よりバンド練習。hanabi→god knowsの順でやるとテンポがいい。
不氏のgはかなりいい感じ。栗は慣れてるので、問題なし。
私のdsはいまいち。

栗と不氏にコミックバンドについて話すが、反応いまいち。動画見てもらったほうが
早いかもしれない。この動画で加藤茶がやったドラムコントは、60年代ビートルズ
来日時、前座でドリフがやったもの。

けど、このネタグッチ祐三のほうがコケ方うまい。