なんか久しぶりに神父サマのおはなしがヒットだったので記録しておきます(^o^)
きょうの福音・・・・・
ルカの12章。
金持ちが遺産相続でモメてるところへイエス様がとおりかかり、
「わたしにも遺産をわけるように兄弟に言ってやってくれ」とお願いされるんですね。
もちろんおことわりになるんですが、そこで
「有り余るほど持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と実にみもふたもないことをおっしゃる!!
いやぁ~~~その通りなんだけどさ・・・・
それを言われちゃァ、死ぬ気で稼いでやっとゆとりを持てた人とか、やりきれないよね・・・・
確かに、今日宝くじがあたって明日事故で死ぬかもしれない(笑)
みもふたもないことだけれど、それに気付いてるのと気付いていないのとじゃ、人生がかわってきますよという話。
この福音につらなる、第一朗読と第二朗読がすごかった。
第一朗読、コヘレトの言葉。
「なんという空しさ なんという空しさ すべては空しい。」
なにが空しいのかというとですね、
「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかったものに遺産として与えなければならないのか!」
・・・って、そこですか!!(笑)
これ、ストレートだなぁ!!
こういうこと思ってる老人、今の世の中にもたくさんいますよね!
ワタシの遺産、嫁にだけは渡したくないのよねっ。だから今のうちに海外とかばんばん行って使っちゃう。そういうこと言ってるオバチャン、たくさん知ってる(笑)
そしてワタシもそういうババァになるよかん /(^o^)
これ2300年くらい前に書かれたものなんだけれど、今も昔も人類の物質欲があんまりかわらないことへの驚き。
第二朗読のパウロの言葉はもうすこし美しいですよ。
「上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座についておられます。
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」
地上のもの・・・ようするに物質欲でしょうか。
物質や快楽におぼれず、神様の前にはずかしくない生き方をするようにっていうことですかね?
神父サマは言いました。
現世利益的なお祈り、これをまったく否定はしませんよ。そこから信仰に入っていく人もいるから。
現実的に、ほんとうに餓え乾いている人の物質的な望みは切実なもの。
現世利益もときには必要なものなのです。
でも、ほんとうにそれだけでいいんですか?
物欲には終わりがありません。終わるどころか、持てば持つほど際限なく持ちたいという欲望にかられるものです。
いつまでたっても満たされることがないのです。
(だそうです。ワタシはそんなに持ったことがないのでわかりませーん(^o^))
どころか、かえってそれが不安や心配の種、むなしさの種、争いの種になったりもする。
そんなとき、上にあるものに心を向けてみる。
神様、ワタシはたくさんお金をためました。やりましたよ。がんばりました。これでいつお迎えがきても悔いはありません!
・・・ていうふうにはならないでしょう?
財産残してあの世へ行くのは未練タラタラ、ワタシだったら地縛霊になっちゃうかもしれない(笑)
神さまの前に豊かになるとは、自分のためだけでなく人のために労力を惜しまないこと。
互いに仕え合う、これがキリスト者の「仕合わせ」なのだということです。
うーん、もしワタシにありあまるほど財産があったらどうするかな・・・・。
とりあえず旅行は行きたいな。
でもきっと、財産あまってる人って旅行も買い物も飽きちゃうんだろうな。
自分にお金がありあまるほどあったら、買い物する気にもならない気がする。
今ないからこそ、「あれが欲しいから仕事頑張る~~~~!!」っていうふうになって、
仕事頑張ったからこそ買うときの喜びがある。
そんな程度のささやかなシアワセを忘れないでいたいなと心から思いました。
あまってる金で買ったものって飽きるのも早いよね(笑)
あ、なんかきょうの福音の趣旨とズレてきた・・・・。
で、とりあえず今は来月の引き落としが心配です(^^;)
きょうの福音・・・・・
ルカの12章。
金持ちが遺産相続でモメてるところへイエス様がとおりかかり、
「わたしにも遺産をわけるように兄弟に言ってやってくれ」とお願いされるんですね。
もちろんおことわりになるんですが、そこで
「有り余るほど持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と実にみもふたもないことをおっしゃる!!
いやぁ~~~その通りなんだけどさ・・・・
それを言われちゃァ、死ぬ気で稼いでやっとゆとりを持てた人とか、やりきれないよね・・・・
確かに、今日宝くじがあたって明日事故で死ぬかもしれない(笑)
みもふたもないことだけれど、それに気付いてるのと気付いていないのとじゃ、人生がかわってきますよという話。
この福音につらなる、第一朗読と第二朗読がすごかった。
第一朗読、コヘレトの言葉。
「なんという空しさ なんという空しさ すべては空しい。」
なにが空しいのかというとですね、
「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかったものに遺産として与えなければならないのか!」
・・・って、そこですか!!(笑)
これ、ストレートだなぁ!!
こういうこと思ってる老人、今の世の中にもたくさんいますよね!
ワタシの遺産、嫁にだけは渡したくないのよねっ。だから今のうちに海外とかばんばん行って使っちゃう。そういうこと言ってるオバチャン、たくさん知ってる(笑)
そしてワタシもそういうババァになるよかん /(^o^)
これ2300年くらい前に書かれたものなんだけれど、今も昔も人類の物質欲があんまりかわらないことへの驚き。
第二朗読のパウロの言葉はもうすこし美しいですよ。
「上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座についておられます。
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」
地上のもの・・・ようするに物質欲でしょうか。
物質や快楽におぼれず、神様の前にはずかしくない生き方をするようにっていうことですかね?
神父サマは言いました。
現世利益的なお祈り、これをまったく否定はしませんよ。そこから信仰に入っていく人もいるから。
現実的に、ほんとうに餓え乾いている人の物質的な望みは切実なもの。
現世利益もときには必要なものなのです。
でも、ほんとうにそれだけでいいんですか?
物欲には終わりがありません。終わるどころか、持てば持つほど際限なく持ちたいという欲望にかられるものです。
いつまでたっても満たされることがないのです。
(だそうです。ワタシはそんなに持ったことがないのでわかりませーん(^o^))
どころか、かえってそれが不安や心配の種、むなしさの種、争いの種になったりもする。
そんなとき、上にあるものに心を向けてみる。
神様、ワタシはたくさんお金をためました。やりましたよ。がんばりました。これでいつお迎えがきても悔いはありません!
・・・ていうふうにはならないでしょう?
財産残してあの世へ行くのは未練タラタラ、ワタシだったら地縛霊になっちゃうかもしれない(笑)
神さまの前に豊かになるとは、自分のためだけでなく人のために労力を惜しまないこと。
互いに仕え合う、これがキリスト者の「仕合わせ」なのだということです。
うーん、もしワタシにありあまるほど財産があったらどうするかな・・・・。
とりあえず旅行は行きたいな。
でもきっと、財産あまってる人って旅行も買い物も飽きちゃうんだろうな。
自分にお金がありあまるほどあったら、買い物する気にもならない気がする。
今ないからこそ、「あれが欲しいから仕事頑張る~~~~!!」っていうふうになって、
仕事頑張ったからこそ買うときの喜びがある。
そんな程度のささやかなシアワセを忘れないでいたいなと心から思いました。
あまってる金で買ったものって飽きるのも早いよね(笑)
あ、なんかきょうの福音の趣旨とズレてきた・・・・。
で、とりあえず今は来月の引き落としが心配です(^^;)