つれづれなるままに落書き

オタクの毎日は実に刺激的で彩りゆたかなのであります。せっかくなので、おもしろかったこととか記録しとこうかな…とか。

なんというむなしさ!なんというむなしさ!すべてはむなしい!・・・神父サマの話 2013・8・4

2013-08-04 18:08:36 | 教会
なんか久しぶりに神父サマのおはなしがヒットだったので記録しておきます(^o^)

きょうの福音・・・・・
ルカの12章。

金持ちが遺産相続でモメてるところへイエス様がとおりかかり、
「わたしにも遺産をわけるように兄弟に言ってやってくれ」とお願いされるんですね。
もちろんおことわりになるんですが、そこで
「有り余るほど持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と実にみもふたもないことをおっしゃる!!
いやぁ~~~その通りなんだけどさ・・・・
それを言われちゃァ、死ぬ気で稼いでやっとゆとりを持てた人とか、やりきれないよね・・・・
確かに、今日宝くじがあたって明日事故で死ぬかもしれない(笑)
みもふたもないことだけれど、それに気付いてるのと気付いていないのとじゃ、人生がかわってきますよという話。

この福音につらなる、第一朗読と第二朗読がすごかった。

第一朗読、コヘレトの言葉。
「なんという空しさ なんという空しさ すべては空しい。」

なにが空しいのかというとですね、

「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかったものに遺産として与えなければならないのか!」

・・・って、そこですか!!(笑)
これ、ストレートだなぁ!!
こういうこと思ってる老人、今の世の中にもたくさんいますよね!
ワタシの遺産、嫁にだけは渡したくないのよねっ。だから今のうちに海外とかばんばん行って使っちゃう。そういうこと言ってるオバチャン、たくさん知ってる(笑)
そしてワタシもそういうババァになるよかん /(^o^)

これ2300年くらい前に書かれたものなんだけれど、今も昔も人類の物質欲があんまりかわらないことへの驚き。

第二朗読のパウロの言葉はもうすこし美しいですよ。
「上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座についておられます。
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」

地上のもの・・・ようするに物質欲でしょうか。
物質や快楽におぼれず、神様の前にはずかしくない生き方をするようにっていうことですかね?

神父サマは言いました。
現世利益的なお祈り、これをまったく否定はしませんよ。そこから信仰に入っていく人もいるから。
現実的に、ほんとうに餓え乾いている人の物質的な望みは切実なもの。
現世利益もときには必要なものなのです。
でも、ほんとうにそれだけでいいんですか?

物欲には終わりがありません。終わるどころか、持てば持つほど際限なく持ちたいという欲望にかられるものです。
いつまでたっても満たされることがないのです。
(だそうです。ワタシはそんなに持ったことがないのでわかりませーん(^o^))
どころか、かえってそれが不安や心配の種、むなしさの種、争いの種になったりもする。
そんなとき、上にあるものに心を向けてみる。
神様、ワタシはたくさんお金をためました。やりましたよ。がんばりました。これでいつお迎えがきても悔いはありません!
・・・ていうふうにはならないでしょう?
財産残してあの世へ行くのは未練タラタラ、ワタシだったら地縛霊になっちゃうかもしれない(笑)

神さまの前に豊かになるとは、自分のためだけでなく人のために労力を惜しまないこと。
互いに仕え合う、これがキリスト者の「仕合わせ」なのだということです。

うーん、もしワタシにありあまるほど財産があったらどうするかな・・・・。
とりあえず旅行は行きたいな。
でもきっと、財産あまってる人って旅行も買い物も飽きちゃうんだろうな。
自分にお金がありあまるほどあったら、買い物する気にもならない気がする。
今ないからこそ、「あれが欲しいから仕事頑張る~~~~!!」っていうふうになって、
仕事頑張ったからこそ買うときの喜びがある。
そんな程度のささやかなシアワセを忘れないでいたいなと心から思いました。
あまってる金で買ったものって飽きるのも早いよね(笑)

あ、なんかきょうの福音の趣旨とズレてきた・・・・。

で、とりあえず今は来月の引き落としが心配です(^^;)



「エリヤが意外とやさしいおっさんな話」・・・・・2013・6・30 神父サマのおはなし

2013-07-01 06:56:15 | 教会
ルカ9章、「弟子の覚悟」についてです。

3人の「弟子志願者」が登場し、イエスさまについていく前にやり残したことにそれぞれが未練アリな様子。
今回はけっこうキビシイイエスさま、個人個人の小さな都合よりも弟子のお役目を優先させるよう要求します。
中でも「父親を葬りにいかせてください」願い出た者に
「そんなことは人にまかせなさい」といっちゃうのは驚きです。
だって自分の親ですヨ!!親を弔うこともできないなんて!!(ToT)

このエピソードの直前、きょうの福音の冒頭部分、
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」ではじまります。
自分自身、受難の決意を固めた直後のおはなしなんですね。
だから、いつもは「まあまあいいじゃないか」的なイエス様(すいません。。。。)も、従う者たちに「それなりの決意」を要求されるんですね。
一人目の志願者には「ワタシについてくると宿も断られるし心がやすまらないよ?」と、キビシイ現実を告げます。
二人目の志願者(この人はイエスさまのほうから誘ってる)には「父を葬るのはほかの人にまかせてついてきなさい」と命じる。
三人目の志願者には「決意をしてからやり残したことに未練をみせるような人は弟子にふさわしくない」と苦言を呈す。(これ一番キビシイと思った!!)

神父サマは、「ま、この中で実際についてきたのは二人目だけでしょうね・・・・・」とおっしゃいました。
含み笑いしながら!!!
あの「にやり」はどういう意味でしょうか!!きになる!!
二人目の人の「父を葬りにいかせてください」というお願いに、イエスさまは「死んでいるものたちに、自分の死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を広めなさい。」といいます。
死んでいるものたちというのは、「神の国」に気付いていない人。
「神の国」に気付いているあなたには、もっとタイセツな役目を担ってほしい。
早く早く。受難もせまっていることですし、イエスさまはちょいと焦っておられます。

というわけで、きょうの福音は、「イエスに従う者の覚悟」が問われています。
時代背景にもよりますが、ルカの福音書が書かれた当時、宣教に出るということは、家族との絆を捨て、行く先々で受け入れられずに痛いめに合うという・・・そうとうの覚悟を必要としたわけです。
日本でいったら戦国時代とか江戸時代とかもそうですよね。
だから、そういった時代には、この部分が非常に重く受け取られタイセツに読まれたたのではないでしょうか。
今の時代の私たちにそこまでの覚悟は要求されないでしょうが、
まぁ実際の話、ドン引きされる覚悟で友達に福音を伝えてみるとか(笑)

いやぁぁぁぁぁ、それ勇気いるわー!!!(^o^;)

で、タイトルですが、第一朗読がエリヤだったんですよ。
今日の福音のイエスさまとまったく同じ立場で、エリヤがエリシャを弟子にスカウトするんですね。
そうすると、エリシャは「とりあえず家族に挨拶させて」ってお願いするんですね。
そこでエリヤ、なんと「いいよいいよ♪いっといで♪」っていうんですよ!!!!
行っていいんだ?!なんか意外!!!エリヤものすごく厳しくて熱いおっさんのイメージだったので!!!

えええええ~~~~~~いいんだぁぁぁぁ~~~~~~・・・・・・

そういえばメンデルスゾーンのオラトリオで「エリヤ」ってあったような・・・・・
こんどきいてみよう・・・・・
(「パウロ」はCD持ってるんだけど・・・・・)

「徳」と「謙遜」

2013-06-13 19:03:45 | 教会
きょうは、ワタシがひそかに「師匠」とお慕いしている方に
マンツーマンでお勉強につきあっていただきました(^o^)

もうじき堅信式なので・・・・
すこしは信仰堅めとこうかなと・・・・(笑)

わたしたちの「お勉強」は、いつもこれといってテーマがあるようでないようで(^^;)
話の流れのおもむくままに繰り広げられます。
わたしの師匠は、
「聖書は自分でいくらでも勉強できるし、福音書についてはうちの神父さまの話を毎週聞いてればそれで充分すぎるくらい。(まったくその通りです!!)
わたしがあなたに伝えたいのは、言葉にならない「気持ち」の部分。
とりとめのない話の中からあなたがどれだけ感じ取ってくれるか、それにかかっている」
という、実に高尚すぎるスタイルを取っておられます(^^;)
「相手によってやり方を変えている。あなたには通じると思ってこうしている」と言ってくださってるので、
ワタシも精一杯ご期待にこたえなくてはなりません・・・・・。

今日は、ワタシが以前何かの本でちょっとひっかかった「枢要徳」についての疑問をぶつけてみました。
カトリック要理に出てくるいくつかの「徳」の中で、ちょいと理解しにくかったものです。
「枢要」なんて、ふつうに暮らしてたら一生使うことのない言葉ですから!!

カトリックの教義の中には、まず基本となる三つの徳があります。
信仰・希望・愛 ってやつです。
これは、ごくごく自然に沸き出てくる想いのようなものなので、比較的理解も実行もしやすいです。
まずはこの3つを自分の中でしっかりと確立することがとてもタイセツです。

その次に来るものが、「枢要徳」なのだそうです。
自然には沸き出てきにくい、どちらかというと倫理的な徳になります。
賢明・正義・節制・忍耐・謙遜などなど・・・・・

はあぁぁぁぁぁ・・・・・
字ヅラをながめているだけでも覚悟がいりそうなかんじですよね  /(^o^)

そう、最初の三つにくらべて、格段に覚悟が問われる「徳」なのです!!!
「信仰・希望・愛」の実践を身に着けた者が、更なる高みをめざして歩む道のようなものなのかな・・・・
ワタシはそう理解しました。
いやぁぁぁぁぁ、ワタシにはほど遠い世界です。

「徳」と「謙遜」について、ワタシの師匠がおもうところを語ってくださいました。

「徳をたかめること」、「謙遜すること」これは両立するのはむずかしい。
徳を積まなければと思って一生懸命教会や人々のために尽くそうとすると、
人から「あの人はでしゃばりすぎるわよね。やりたがりよね。自分ができることを見せつけたいのよね。」とか言われる。
それに懲りて、「いやいや、わたしなんて何もできませんから・・・」と謙遜してると、
今度は「あの人はできないふりしていつも仕事から逃げてる!!」って言われる。
どっちがツライ?どっちもツライわよね。
人の評価を気にせず、そういうことをすべて受け止めて忍耐で尽くすのが枢要徳なのかなと思うのよ・・・・。

はぁぁぁぁぁ。。。。。。スバラシイです(^o^)
ワタシもそう思います!!(無理ですけど!!)
謙遜はほんとにむずかしいですよね。
人が心から褒めてくれてるとき、それを否定しまくるのもイヤなかんじ。
ときには素直にうぬぼれて喜んだほうがいいときもある。

空気読める人間になりたいなぁ。

今日もとっても実のある時間を過ごさせていただきました♪感謝感謝です♪



「裂かれたパンの話」・・・・2013・6・2 神父サマのおはなし

2013-06-03 14:50:03 | 教会
先週、自分の入ってるオケの本番があったので、教会さぼってしまいました。
なんかひさしぶりの神父サマの話です。
(ちなみに先週の話はすっっっごいおもしろかったと息子が得意げに言ってます。むかつく。)

ルカによる福音書9章の、5000人にパンと魚を配布するところです。

このお話は四つの福音書すべてに書かれており、おおまかなスジは同じなのですが、
やはりここでも、それぞれの福音書の書かれた時代背景や、その教会のおかれた立場から読み解かなければならないそうです。
(ややこしいなぁーもう。)
ルカによる「5つのパンと2匹の魚」のテーマは、「神の国」なんだそうです。

あああ………ワタシのわからないリスト上位に入るテーマです(笑)
(ちなみに最上位は三位一体(^^;))

イエスさまは「神の国」について語り、「神の国」を証するために人々を癒したりしておられた。
そこに「神の国」を建設しちゃおうと。
しかし弟子たちは、「神の国」をいったんお開きにして、みなさんを「自分の国」(俗世)に返そうとする。
弟子たち、実に普通ですね(笑)
「続きは明日でいいじゃないですかぁ……(腹へったしィ。)」的な。
さぞがっかりしたであろうイエスさま、しかし「神の国」活動の継続を命じます。
しかも「あなたがたが食べ物を与えなさい」って!!

ほかの福音書でも、ちょっと弟子をためすようなこと言ってますよね。
これ、どういう意味があるんでしょうね????
今週のお説教ではそこには触れられませんでした。今度つっこんでみます。

で、ルカはこの奇跡を、「神の国」を実現するための活動とむすびつけて描いています。
弟子たち含む我々人類が「神の国」を伝えようとしたとき、
自分の非力さ、「5つのパンと2匹の魚」しか持たない自分を思い知るでしょう。
実際わたしたちは、自分の家族にすら福音をじょうずに伝えられずにいますよね。
人はともすると自分だけの力でなんとかしてみせよう、いや何とかできるはず!とおごり高ぶるけれど、
人間が一人でできることなんてたかがしれている。
そんなとき、神様がなんとかしてくださることを思い出しなさい。
神様の力がなければどうにもならないことがこの世にはたくさんあることを思い出しなさい。

いったん「無理~!!」と応えた弟たちは、しかしながら、素直にイエスさまの指示に従って民衆を整理します。
イエスさまは5つのパンを裂いて賛美の祈りをとなえ、弟子たちに与えて、人々に配布させます。
「裂いて弟子たちに与えては群衆に配らせていた」の「与えては」っていう表現は、
「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」的なかんじで、いかにも次々に増やしていった感がありますよね。
ほんとにパンが増えたのか?とか、実際は福音を聞いたことで心がみたされたことの比喩なのではないの?とか、まあいろいろありますが、
とにかく弟子たちはイエスを信じてすがった。するとよい方向にことがすすんだ。
賛美してパンを裂くのは、まさにミサのご聖体拝領。
われわれもおミサのたびに神様の「愛」のかたまり、イエスさまの体をいただく。
神様の愛とパワーをいただいて、今週も元気に(?)宣教に出ていく。
世の中の人を愛したり許したり、福音をそれとなく伝えてみたり、
でも拒否されたり(笑)やっぱり許せなかったり(笑)(笑)いろいろ傷ついて疲れ果てて、また教会に帰ってくる。
で、またご聖体をいただいて元気をもらう。
その繰り返し!!!

タイセツなことは、「ワタシたちが頑張るから神様の愛をいただける」のではなく、
「まず神様から愛される。その愛にこたえてがんばる」ことなんだそうですが。

あんまり毎週「福音宣教に出て行け!!」的なメッセージが強いと……ちょっと引くかも……(^^;)

や、がんばるけどね……

でも、いい話でしょう?(笑)





司教さまへの手紙(備忘録) 「伝えるということ」

2013-05-22 09:51:48 | 教会
「伝えるということ」

正直なところ、まだ「信仰が堅い」と言える状態ではないような気がします。

先日息子が、神父さまのお話しに感銘を受け、
「クラスの子に福音を述べ伝えたい!!」と言い出したときには、
「いやいやいやいや!!いじめられるからやめなよ!!!」
と言ってしまいました。
それが現在の私の、偽らざる本音です。

残念ながら、今の日本では「福音を恥としない!!」ということは
なかなか難しい。
ほぼいじめられるだろうとわかっていて、息子を宣教に出すことは(大げさですが!!)
今の私には困難です。

それでも、あの逃げ腰だった使徒たちが生まれ変わって宣教に出て行ったように、
私にも「聖霊のお働き」があるでしょうか。
神様とのやりとりを自分一人の中で完結させて満足することなく、
誰かに伝えたい思いがあふれだすようになるでしょうか。

それを信じて、堅信式にのぞみたいと思います。

             2013・5・26 提出の宿題。
                       司教サマにお届けする手紙です。
                       こんなの、めっちゃ怒られそう(笑)