つれづれなるままに落書き

オタクの毎日は実に刺激的で彩りゆたかなのであります。せっかくなので、おもしろかったこととか記録しとこうかな…とか。

初告解!!・・・・クラリネットとチェロ、そして手話???

2013-12-09 15:02:21 | 教会
きょう、初告解でした!!

告解というのは、カトリックの行事のひとつで、
一年間の罪を神父さまにこっそり告白して神様に許していただくという、とても便利なものです(笑)
神父は何をきいてももちろん秘密にしなくてはいけないので、
神父の頭の中には膨大な秘密がうずをまいておるわけです・・・・。

で、ワタシははじめての告解・・・・・

毎年やってるまじめな信徒さんは、一年分の罪をおもいつくだけ告白すればいいわけなんだけれども、
初告解のワタシなんかこれまでの罪をあげつらねたらきりがないよ!!(笑)

というわけで・・・・・

自分なりにワタシが犯す罪の大半をしめているだろうと思われる要素を抜粋・・・・・

すると、昔から自分がおもしろそうだと思ったことに速攻クビをつっこむ性質があり、
そのせいでずいぶんまわりを振り回し犠牲にしているということを思い出した。

学生の頃はよく親や教師に「あんたがおもしろい!!とか、いい!!とかと思っていることをみんなが同じように思うわけではないんだよ」と諭されたものですが、このトシになるといまさら諫めてくれる人もなく(^^;)すっかりわすれてましたよ!!!
そうだったそうだった。告解のおかげでおもいだした。神サマありがとう。

で、早速きのう心当たりが・・・・・
今度の定演でジュピター降り番だからって、チャンス!とばかりにウキウキとチェロを持っていったら(たのしかった!弾けないけど!(^o^))、本業のクラリネットがぜんぜん吹けてませんでした(ToT)
四字熟語でいうと、本末転倒!!!まさに本末転倒を絵に描いたような!!
たのしいことばかり優先して、きちんとやらなきゃいけないことに目をつぶっている!!
そしてまわりのみなさんに大迷惑になっている!!
(ホルンの視線が痛かった!!)

ああああああ~~~~~~~(ToT)

一本しかないクラがあんな音だしてたらガッカリだよね。
合奏あと10回しかないのにね。
ここのところ、黒船さんでは「ぎゃんぎゃん」いうような曲が続いていたので、油断していたところもあり・・・・・
運命<ベト7<ドボ8・・・・・  と、ぐあ~~~~~っと吹く曲のあとで、
ふっとベト8みたいな層の薄い丸はだかの曲をやることになったのは・・・・・思い知れということなのかしら・・・・・

とまあ、そんなことを思いながら神父サマに罪を告白して、祈りをささげていただいて、いっちょ楽しいことをがまんしてでも今回は修行するべ・・・・とスッキリ退出しようとしたところ・・・・・
神父が「でさぁ、話は違うんだけどー。ちょっとあなたに提案があってさー」
「・・・・・はい?(ていうか、告解部屋でそういうのありなのか?という疑問。)」
「うちの教会で今度、手話の奉仕のチームを立ち上げるから。あなた中心メンバーになって奉仕しなさい。」
「・・・・・はい。・・・・・はい~~~~~~~?!」・・・・・何の話?手話?知らないよ?未経験よ?
「教えてくださる方がいるから。大丈夫。そのトシからやれば充分使えるようになる。・・・・ああ、たった今いろいろがまんするって告解したばっかりなのにごめんなさいね(笑)でも一瞬おもしろそうと思わなかった?(笑)」

ええ~~~~~・・・・もう、どうしよぅ~~~~~~(ToT)

自分をささげる!奉仕だよ!(by神父)・・・・・・10・20教会のバザー

2013-10-15 06:15:29 | 教会
5月13日の日記に書きました、→http://blog.goo.ne.jp/yamagaratarou/e/e577925194ab9636bd9c01849bbac69f
お友達のおかあさんの形見のパッチワーク布。

いよいよ出番がやってきました!

それは!!教会のバザー!!(いぇーい。)

なにか、やくにたつことに使わせてもらおうとずっと思ってて、
いい機会をいただきました(^o^)

教会の中でわたしの所属している「エンゼル会」という「園児のおかあさんのための勉強会」で、
療育センターで障害者のみなさんが作っている洗濯石鹸を委託販売することになったとき、
一部から「そんなの売れないよー」という声があがりまして。
それなら売れるようにしてみせようじゃないの!という反骨精神(笑)から、
石鹸と女の子用の髪飾りをセットにして、幼稚園ママに売り込もう!という手を思いついたのです!

ははははは!われながらよく考えたなッ!!(また驕りたかぶる。)

作るのはほんとにたいへんでした。
一人で50個。正直、くじけそうだった・・・・・。(ToT)
(いや、手伝ってくれる人がいなかったわけじゃないんだよ。急だったから都合がつかなかったの!!
 ……と、メンバーの名誉のために一応書いておく!!(笑))
材料費はほとんどタダとはいえ、いっさい見返りのない仕事!!こんなの正直はじめて!
神父サマに内緒だが、「自給ほしいよ!」と、一瞬思わないでもなかった!(なんて正直な自分!(笑))

でもそんなとき、
   この布を送ってくれた友達の顔。(お母様にはお会いしたことがないんです。)
   療育センターに通ってる、友達のお子さんの顔。
   ともしび喫茶や近所で出会った障害者とその家族のみなさんの顔。
   「自分をささげる!奉仕だよ!」という神父の喝。(笑)
そんなことを思い出しながら、一つ一つがんばった。

ワタシは手際がいいので(自分でいうかオイ。)ひとつ10分たらずでできるんだけれど、
つづけて5個も作ると指が痛くなる。
ごまかしごまかし、家事や仕事のあいまに、…いや、時には野球にヤジをとばしながら(!!)
決してあっという間にできたわけではなかった、けど、それだけに貴重な時間でした。
いっさい見返りのない奉仕の時間なんて、そんなにあるもんじゃない。
そしてこんなにテキトーに自己中に生きているこのワタシが、その時間だけでも何かのために祈ることができたのが、なによりすごいことだったんじゃないだろうか。

バザー当日はまさかの土砂降り(^^;)
でも、髪飾りとセットにした石鹸はなかなか好評で、なんとか昼過ぎには50個完売することができました!
売り上げ金のうち、委託分は療育センターへ。
髪飾り分は教会へ。
ワタシに残ったのは「達成感」と、これから開催される打ち上げのビール(※もちろん自腹)だ!!(^o^)
資本主義経済の現代社会においてはちょいと割に合わないけれど、たまにはこんな日があってもいいじゃないか!!

そしてまた、欲にまみれた現世へもどってゆくワタシです(笑)




「弟子の条件」・・・・2013・9・8 神父サマのお話

2013-09-12 06:44:04 | 教会
今週の福音はルカの14章、エルサレムへ向かう途中です。

イエスが死に向かっていることを知らず、ミーハーについて来たがる群衆に向かって、
ちょいと厳しいことをおっしゃいます。

「父、母、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」
ここでの「憎む」っていうのは、「家族よりもキリストの教えを優先する」ということのようです。
この時代、別の宗教を選ぶのはある意味命がけですから、家族との縁を断ち切ってまで!というくらいの決意がないとくじけてしまう。

「自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
この「十字架」は、キリストの教えを実行することにより産まれる障害のことだそうです。
神父サマのリアルなお言葉→
「これ、よく勘違いする人いるんですけどね、勝手に自分の十字架はこれだ!って決めちゃいけないんですよ。
 そういう人よくいるんですよ。そんなの背負ったって自分の都合だからね。
 そうじゃなくて、まずキリストの教えを生活で実行する!
 そうすると、必ずどこかで自分を犠牲にしなければならない瞬間がある。
 そのとき、わたしたちは自分の意思を殺すことによって、ちいさな「死」を体験するんです。
 そして神のいのちにあずかる小さな「復活」体験する。
 それが「十字架と復活」、キリスト者の心構えです。」

「へぇ~~~」ボタンですよねー(笑)
そうかー十字架じぶんで決めちゃいけないんだー。知らなかった。(そんな程度ですいません神父サマ。。。。)
ワタシは、なにかすごくツライことがあるときに、「これがワタシの十字架だ!」と思って耐えるとか、そういう意味かなーと思っていました。
どれが十字架か勝手にきめちゃいけないんですね。とほほ。(^^;)

でも、ワタシだったら、「これが十字架か?!」と思うほどキツイめにあうときって、落ち込んで嘆くばかりでなく、どうしたら抜けだせるだろうって迷ったり考えたりすると思うんですよ。
そういう、何かひとつの壁にぶつかって判断が必要になったとき、「キリスト者としてはどういう方向を選ぶか?」というのを判断材料にしたらいいんですかね?
そうしたら、そのとき選んだ答えを実行することは、そのまま「十字架を背負う」ことにはなりませんか?
なるよね?!
なる気がする!!

どうですか神父サマ?!
・・・・・って、すごく聞いてみたいんだけれど、うちの神父さまやたらそういうのめんどくさがるから(^^;)
聞けないなぁ~~~~~~~(笑)
誰かおしえてください~~~~!!!


 

「じぶんをささげる。」・・・・・2013.9.1※きょうは来住神父さまのお話し

2013-09-01 15:54:15 | 教会
きょうはおミサ後に研修会があるため、
研修会でお話してくださる来住神父さまの司式でした。
うちの神父サマの毒舌が聞けずちょいと寂しくもありますが(^^;)
オケの運営で毎日迷いのド真ん中にいる私の胸に直球で飛び込んでくる、リアルに考えさせられるお話でした!!

きょうの福音は、盛大な宴会のたとえ話。
招かれたときはすすんで下座にすわりなさい。そのほうが後で面目を保つから。
招くときは敢えて金のない者を招きなさい。そういう者たちはあなたにお返しをしないから。
神の国に入れる人は、みかえりを期待せず自分をささげつくせる人なんだそうです。

ミサの中の奉献文・・・
「わたしたちはいま、主イエズスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、
いのちのパンと救いの杯をささげます。」

だいじなのは、この部分。
「わたしたちは、いま、ここであなたに、ささげます。」
なにを?
自分自身を!!
自分のすべてを、神にご自由にお使いいただくように、プレゼントする。
そのとき、見返りをもとめてはいけません。(・・・えええ~~~~~っっ・・・・。(ToT))
奉仕は「おくりもの」であり、「おかえし」するかどうかは受け取る側の自由。
ある意味、踏みにじられて当然なのです。
踏みにじられることを大前提に、しなければいけない。

「人はねぇ。そんなに感謝してくれるもんじゃーないですヨ。」って、ちょっとウケました(^^;)
そうなんだよねぇ。
私がこんなにたいへんな思いをしていることを知ってか知らずか、ヤツらは勝手なことばかり言う(笑)
見返りを期待していたらやってらんないよ。あるはずないんだから。みんな、私がやって当然と思ってるんだから。
だから最初から『思い切る』。
これは、そういう割りにあわない仕事なんです。わかってます。でもやります。やりますよ。神様、私をおつかいください。(涙。)

で、タイセツなのは、「今、自分はここで、何をすべきか」を判断することなんだそうです。
やるべきか、やらざるべきか、その判断がむずかしい。
その迷いを、どうぞおミサに持ち込んでください。
自分がどうすることが、「神に自分を捧げる」ことになるのか。ミサで、神サマの前でご検討ください。(笑)

そうだねぇ・・・・
何かが見えてくるかもしれないねぇ・・・・
私は普段、自分の失敗とか過ちはかなり持ち込んでミサの最中反省会してますが、
こんどはそういう「迷い」も持ち込んでみようかな。
違う視点で考えられそうなきがするよ。

『思い切る』って、なんかちょっといい言葉だなぁ・・・(^^)


「狭い戸口から入るように努めなさーい」・・・・・2013・8・25 神父サマのおはなし

2013-08-25 19:01:39 | 教会
雨です。久しぶりの雨。めんどくさい。(^^;)
でもげんたろうがお侍者なのでいかなければ。

きょうはお侍者姿をみたいということで妹と伯母がひやかし参加(笑)
せっかく来てくれたのにお話難しくてすいません~~~!!

そう、きょうのお話は実にわかりにくかった・・・・。
しかもいつも用意されている神父さまによる解説ペーパーがなかったのでなおさら!!
(なんか夏休みだったみたい(笑))

なので、備忘録としておぼえてることをかいておこうとおもいます(^^;)

きょうのキーワード三つ・・・・

「狭い戸口から入る」
「おまえたちがどこの者か知らない」
「後の人で先になるものがあり、先の者で後になる者がある」

なんのことだかさっぱりわかりませんね(^o^)/

これらの言葉は、「救われる者は少ないのですか?」という質問に対しての答えです。
難しすぎて、ぜんぜん答えになっているような気がしませんよ!!ね!!

「おまえたちがどこの者か知らない」
当時(1世紀頃)教会から破門されたキリスト者に対して、教会の者からこういう言葉がかけられてたそうだ。
なんて冷たいお言葉!!けっこうキツイね・・・・(^^;)
今の世の中だと、口では「神よ!主よ!」と騒ぎたてるのに行動がともなわない信者のことをいうそうです。
そういう者には、神さま「あんた誰?」って言うそうですよ。
神の国の扉は、けっして広々と開け放たれてるようなものではないらしいですよ。
ごく一部の、キリスト者として恥ずるところのない生き方をしている者にしか開かれないらしいですよ。
そこでは、ずっと前から信者だった人より、最近信者になった人のほうが先に入れたりすることもあるらしいですよ。
初心をわすれてはいけないということでしょうか。
それならわかる気がするよね。

・・・・・と、勝手な解釈もつけくわえてみましたが、
神様の計画は壮大すぎる。結局のところ難しくてよくわかってないです。
こんど神父さまにつっこんでみます。

第二朗読のヘブライ人への手紙はよかったです!!
「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」
原文は
「まっすぐなわだちを作りなさい。」
なんだそうです。
こっちのほうが、前の文章の「踏み外すことのないように」とつながる気がしますね~。
後につづく人の道しるべとなるように、と、神父さまはつけくわえておられました。
いい言葉だ(^o^)