鎌倉を攻撃した新田義貞は化粧坂を突破できずに苦戦し、巨福呂坂、極楽寺坂でもてこずり、海岸を経て鎌倉に突入したという。木々が茂り、急峻な切岸で守られた山中からの侵入は、確かに難しかったのであろう。鎌倉を取り巻く山襞を守りのための構造として考えたのは誰だろう。奥州攻略を祈願して源氏山に白旗を立てた源頼義には鎌倉を守りのための城郭といった意識があったものか不明。やはり頼朝を補佐した北条氏の鋭い見識があってのことであろう。
だが、結果として義貞軍の鎌倉突入を阻んだには違いないのだが、果たして切岸が守りのためのものとしてのみ機能していたものか、これも疑問に思う。何しろ、鎌倉を取り巻く山襞のほとんどが掘削されているのだから。そもそも、鎌倉の土地は頗る脆弱で、手掘りでも容易に掘削することができる。昨年の水害で、鎌倉の各地で土砂崩れが起きている。毎年のことでもある。限られた土地の利用を考えると、山襞のぎりぎりまで掘削して平地を生み出そうと考えるのも当然のこと。鎌倉時代を象徴する言葉に「一所懸命」がある。自ら開拓した土地を守ることがこの言葉の背景にある。鎌倉に屋敷を構えた武士は、自らの土地をより確かなものとするため、山際を掘削し、さらに山の上まで利用するために切岸を、平場を構築したに違いない。もちろん他者からの侵入を防ぐ意味もある。限られた土地の利用、という意味の方が大きいのではないだろうか。
浄智寺の背後の谷戸には人家が建ち並んでいる。その最奥は、「宝の庭」と名付けられて憩いの場として利用されている。急峻な崖に囲まれているのだが、これを切岸とは言わないだろう。何しろ内側の壁面である。このような土地の利用が頗る多いのである。