これまで私は、生まれ育った日本で日本語しか話さない生活をしてきた。
これからも外国へ出る予定などないから、主に日本語を使用する人生になりつつある。
しかしながら、年齢を重ねるごとに、日本語の難しさや紛らわしさを感じてならない。
このままでは、いつまでも日本語をマスターできないのではないかと思うこともある。
まー、どのレベルから言語をマスターしたと見なすのか?という話にもなりそうだが・・。
それはさておき、ちょっと頭の中で思ったことを記す。
沖縄で生まれ育った人なら、社会に出たり、本土の人と接触した時に感じたことがある人は多いだろう。
沖縄で使っていた日本語と、標準語と言われる日本語の違いを。
大まかな意味は同じでも、なーんか違うんだよな。
本土の人はどうしてあんなに、ニホンゴを巧みに使うことができるのか・・・。
どうして、ビジネスは勿論、プライベートでも、あんなに表現力があるんだろう・・・。
イントネーションだけの問題ではないんだよなー。
ちょっと観察してみると、声の質も違う気がするんだ。
沖縄の人が口の筋肉だけを使って話しているのに対して、
向こう(本土)の人々は腹の底から出すようなキレイなお声に聞こえる。
まー、人によるが、キレイなお声率は断然高い気がする。
語彙力だってそうだ。
擬声語、擬態語、慣用句を文中によく用いているから、ニホンゴが上手に聞こえるのかなー。
みょーに賢そうに聞こえるんだよな。
それにしても、関西人の会話の中で、擬声語・擬態語の出現頻度があまりに多い時は、笑いを
聴き手に強要しているように感じてしまうのは私だけかしら。。。
でも、沖縄人同士の会話の中には、擬声語・擬態語がそう多くは用いられてない感があるから、
その点では、関西人をちょっと見習ってもいいのかなーと思ったりもする。
語彙力といえば、私が地元の公立小学校1年生だった時のことだ。
ある日、お庭や花壇を掃除していた時、ある男の子が先生に草が生えていることを報告していた。
「先生~、ここ、草ボーボーしているよー」と。
沖縄の人ならお分かりであろう。これは、「先生、ここ、草がたくさん生えているよ」を意味している。
すると今度は、当時東京からうちの小学校に転入してきたばかりの男の子が、同じく草が生えている
箇所を見つけて、先生に報告していた。
「先生、ここ、雑草生えてるよ~」と。
「ザッソウ!?」
私はその時、生まれて初めて”ザッソウ”という日本語を聞いた。
へ~東京では、草の事をザッソウっていうんだーー。
やよい、7歳の体験であった。
沖縄の子が”草ボーボー”と表現したのに対して、
東京から来た子が”雑草”という言葉で表現したことを問題にしているわけではない。
やっぱり、言葉って環境が大きく関係するのかなーってつくづく思う。
だって、その雑草って言っていた東京から転入して来た子だって、
両親は生粋のオキナワンだった。
その子が生まれ育ったのが東京だったってだけ。
きっと、その子が生まれた環境では、草を雑草と呼んでいたのだろう。
別に、沖縄の子(オキナワンの遺伝子が入っている)だから、雑草という言葉が分からないわけではないはずだ。
現在、この年になっても、分からない日本語はまだまだ沢山ある。
キレイな日本語を使っている人にはつい憧れてしまう。
私は生まれも育ちも沖縄、我が息子だって今のところは沖縄で育て続ける予定だ。
言葉は、その地域や環境で多少異なるのは当然だ。
だから私は、必ずしも標準語だけが美で、地方の言葉が醜いものとは思わない。
しかしながら、日本語には美しい表現があることを知って、あえて使わない(あえて地元の言葉を使用する)のと、
美しい表現が存在することさえも知らないで言葉を使用するそれとでは、雲泥の差があると思う。
語彙力の無いまま生きるのは儚いなーと思う。
大人になった今でも、日本語をマスターするにはまだ時間がかかりそうだ。
ワンクリックを宜しくごじゃいましゅ →
地域情報(沖縄) ブログランキングへ
草ボーボーは草たくさん。でも、赤ちゃんボーボーは赤ちゃんたくさんの意味じゃないよ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます