出張で台湾にきている。
南部のとあるまちだが、台北よりはるかに
田舎丸出しで、懐かしい気持ちになる。
さて、そこの夜市へ行ったのだが、
夜の10時超えても、子連れが多いことに驚き。
沖縄も子供の就寝時間を巡っては、
いろいろと呼びかけ始められてきた昨今だが、
ここのアホ親どもは、眠いと泣きじゃくる我が子を
抱えながら、臭豆腐の屋台に並んで順番を待っているではないか。
それ以外でも、子連れが結構いたが、
あの泣きじゃくっていた子供の脳みそが心配だ。
出張で台湾にきている。
南部のとあるまちだが、台北よりはるかに
田舎丸出しで、懐かしい気持ちになる。
さて、そこの夜市へ行ったのだが、
夜の10時超えても、子連れが多いことに驚き。
沖縄も子供の就寝時間を巡っては、
いろいろと呼びかけ始められてきた昨今だが、
ここのアホ親どもは、眠いと泣きじゃくる我が子を
抱えながら、臭豆腐の屋台に並んで順番を待っているではないか。
それ以外でも、子連れが結構いたが、
あの泣きじゃくっていた子供の脳みそが心配だ。
もう上映は終わってしまったが、
映画館で久しぶりに映画を観た。
映画ペンギン夫婦の作り方
石垣島に移住し、石垣島ラー油を作り出した、
夫婦の話であったが、私は専ら、台湾俳優ワンチュアンイー目的で鑑賞。
頑張って日本語を話しているからか、
彼の本来の渋めのお声は聞けなかった。
日本語は、やっぱ、音が高めなのか。
日本語は、よそ行きな声を出す際も、
やや高めになるもんなー
もちろん映画の中身も良かった。
沖縄の俳優さんも頑張って
いたし。
沖縄の俳優さんらは、沖縄の訛りそのままで話していた。
まー舞台が沖縄ですからね。
小池栄子は、そのまま標準語(東京から来た設定)だから、
やっぱり俳優の中で一番頑張ったのは、
久しぶりにタクシーのおじちゃんと話が盛り上がった。
私が引越しを考えていること、それに伴う会社までの近道などの
道路情報。
子供の話から、おじさんの家庭のことまで多岐に渡った。
そのおじさんは、60代半ばくらいであった。
子供がいるが、巣立った子供たちは、それぞれの人生を歩み、
実家へはあまり顔を出してくれないとのこと。
長男にいたっては、東京の一人娘と結婚してしまい、
東京に住んでいるようだ。お嫁さんは一人娘なものだから、
向こうの親御さんは、娘を遠い沖縄には渡したくない一心か、
向こう(東京の23区外)で家まで建てちゃったという・・・。
私は、おじさんの言い分だけを聞いたわけだから、息子さんやそのお嫁さんの
ライフプランなんて知る由もないが、反射的に言ってしまった。
「もう(息子さん)取られたね」
すると、おじさんも間を空けず返した。
「だからさぁ~」
沖縄の人なら、この類の会話は一度や二度は聞いたことがあるであろう。
長男が沖縄に帰ってこないと嘆く親の言い分を。
でもね、長男は家を守るものって基本的な流れは踏襲したとしても、
あまりこだわる必要はない気がする。
仏壇事を心配されるのであれば、いっそのこと、仏壇も長男が
家を建てた東京に持っていくのも選択肢の一つに入れていいと思う。
もしも長男が、仏壇を継げない理由があるのであれば、
姉妹も含めた他の兄弟たちが継ぐってことも大いに選択肢に入れて
いいと思う。
もしその長男が、仏壇を大切にできない人だったとしよう。
そしてその妹さんが、仏壇を大切にできる人だったとしよう。
私は、長男うんぬんは考えず、仏壇を大切にできる人が
その仏壇を継いだほうが、本当のうやふぁーふじ(祖先)のために
なると思うのだ。
浅はかな考えかもしれないし、沖縄の地域によってはそのような
タブーを踏んではいけないのかもしれない。
でも、少なくとも私は、自分が死んで、墓に入り、
お盆や正月にこの世に帰省してくるっていう話が本当だったとしたら、
長男うんぬん関係なく、祖先を思ってくれる人たちが、私の帰省を
待ってくれているほうが断然嬉しい。
きっと、タクシーのおじさんの祖先だってそうじゃないのかな。
おじさんに話せないまま、目的地に到着した。
我が息子、もう少しで2歳になろうとしているが、
2歳の誕生日が待ち遠しいのは子より親である私のようだ。
第一次反抗期を迎え始めた息子を見ると、
早く5,6歳にでもなればいいのに・・・とつぶやいてしまう。
すると、子育てを一通りされてきた方々から、「今が一番可愛いのよ」と
のお言葉を頂く。
そんな息子との生活であるが、今月に入って、息子の語彙が少しずつ増えてきた。
「ポイちた」→ゴミ箱にゴミを捨てたとき
「バチュちた」→バスが向かってくるとバス来たと興奮する
「バイバイちた」→大人たちに対し、義理の挨拶でバイバイをした時に、褒めてほしそうに言う
本当に少しずつだが、文の中に「ちた(した、来た)」を動詞と位置づけ、
文章を作っている。
しかも動作が完了したことを、動詞を過去形にすることで伝えている。
なんと、素晴らしい。
やはり、日本語の環境で育てると、日本語を話してくれるんだね。
至極当然のことではあるが、何万年も前に、人類が言葉を放った時に感じたであろう
感動を、今、私は息子と共有している。
本当に感動である。