母親というのは、子供のためなら何でも~というけれども、
あの無償の愛チックな行動は、本質を見極めないと、ろくでもない人間を世に送り出す
ことになると思う。
あるオキナワの母親はこう言っている。
「私は年いったら(とったら)、長男にしか看られない。だから、長男家族には悪いことできない。
長男は稼ぎがあまりないから、長男夫婦の国保は私が払ってあげてる。
長男の子供たち(内孫)の学費も払ってあげてる。
今度(内孫が)18歳になるから、ジレン(自動車訓練所)の学費と中古車だって私が買うのよ」
別のオキナワの母親はこう言っている。
「うちの子は、このメーカーのこの目薬しか使わないと言っている。
でもね、うちの子、仕事が忙しくて買う暇ないから、今日私が代わりに買いに行ってあげるの。
ん?この子から?いいえ。この子ったら、生活費を家に入れたことないのよー(笑)」
また別のオキナワの母親はこう言っている。
「うちの子は、本当は○○高校が第一志望だったけど、
塾の面談で、第二希望の△△高校は大丈夫だけど、
○○高校は少し厳しいかもって言われた。だから、△△高校を
受けさせるわっ」
またまた別のオキナワの母親は・・・・
モーーー、うんざりだ。
我が子はいくつになっても可愛い。
我が子はいつまでたっても、自分の子供であることには変わりない。
しかし、我が子が可哀想だから・・・、我が子が不憫だから・・・、我が子が・・・我が子が・・・
って、主語を”我が子”で言っていても、
実は、母親”自分自身”が苦労する我が子の姿を見て傷つきたくない・・・
世間体が気になる・・・からそう言っているわけだ。
”我が子”と”自分自身”を単純に置き換えてはならない。
50も余る息子が低所得でも、国保くらい自分で払わそうよ。
30も余る息子が忙しくても、自分の目薬くらい自分で調達させようよ。ネットも普及してるぞ。
15にもなったんだよ、貴女の娘は。自分の道は自分で選ばそうよ。
子供が辛そうにしてても、子供が失敗をしてても、その現実を一緒に受け入れ、時には一緒に
立ち向かうことも親の愛の一つだろう。
幼い頃から、親子で小さな失敗を重ね、小さな成功でも喜び合う。
大きな失敗も親子共々受け入れ乗り越え、労わりながら着地点を見つける。
でも、子供が示すサインは見逃さずに、ここぞという時に手を差し伸べる。
時には、子供が圧倒するくらいの勢いで、子供の楯となることも必要だろう。
いずれにしても、親も子供と一緒に、緊張し、傷つき、ハートを鍛えないといけない。
こんなこともせず、親がかゆい所に手を届けてばかりいたら、
この子はどうなる?貴女が死んだあと、この子はどう生き抜いていくのか?
子供を一番に可愛がっているつもりでも、
実は自分自身が傷つきたくない、自己愛的な親御さんって、かなりマズイと思う。
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