Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

親に倣う子供

2020年06月14日 | 日記
 良好な親子関係を持つ人はとても恵まれています。そのような人は、自分を愛し、育ててくれた親を幼い時から見ているので、子供として愛されることを経験として知っており、自分が親になった時にそれに倣おうとするでしょう。一方で、愛を与えられ、守ってくれるはずの親から、虐げられ、最悪の場合には死に至ってしまう、もしくは生きていてもそのトラウマを抱えながら成人していく子供たちがいることは、悲しく、心痛むことです。そしてそのような親たちは、自身も子供の時に親から虐待されていることが多く、その結果どのように子供を愛してよいのかわからないという、不の連鎖の結果が現代社会で生じています。

 どの親であっても、人間ですから完璧ではないし、親になる心の余裕がない人もいます。また、虐待はされていなかったとしても、自分の親を尊敬できない人もいるでしょう。子供は成長するにつれ、親の欠点がだんだん見えるようになり、それにイライラしてマイナスの感情を親にぶつけることもあるでしょう。しかし、ある時気がつきます、それは鏡を見るように、自分も親と似たような欠点を実はもっていることを。そうなると、遺伝だから仕方がないとか、そのように育てられたから今の自分は仕方がないんだと開き直る人もいれば、反面教師といって、こうはならないようにしようと気をつける人もいます。いずれにしても、親との関係がぎくしゃくしたまま月日が過ぎていくのは悲しいことです。しかし、もう一つの良い道もあります。

 聖書では「あなたの父と母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」*1とあります。そこには「良い親の場合のみ敬え」という特記事項はありません。どんな親であろうと、親であるというその事実だけで、敬う存在とあるのです。なぜなら、自分の存在は親無くしてはこの世に命が与えられていないし、それも神様が与えた命だからです。親としての権威は、神からであり、子は親に従うようにと聖書では一貫して記されています。もちろん、親が不法なことをしろと命令したら、従う必要はないのです。神様は親に対しても「父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。」*2と言われており、主(神様)の薫陶と訓戒によって育てるのであって、自分の気ままな感情に基づいて、子に対する権利を振りかざして暴力をふってはならないし、不法なことを子供に命令することは主の訓戒に反します。つまり、親も子も第一に神様に従うことで、親子関係の秩序が保たれるわけです。

 「敬うなんて無理。」という人は、何かしら親に傷つけられて赦せない、もしくは自分ではなく他者にした親の行為が赦せない等、感情的には無理かもしれません。しかし、すべてを可能にすることができる神様にお願いすれば、いつか心の傷は癒され、好きにはなれなくとも親を赦せる日が来る、つまり、親が変わらなくとも、自分の側が寛容に変えられるということがあります。それは神様によって変えられるのです。

 人間の親は完全ではないけれども、私たちを創られた神様は完璧な親であり、完璧な愛をもって一人一人を子供として愛していることを知って、信じてほしいと願い、忍耐して待っておられます。もし、そのことを信じられれば、たとえ親の愛を知らない環境に育った人でも、聖書で記されている父なる神様の愛を知ることができ、倣うべき親のモデルが与えられます。下記の聖書箇所は、神様の子供として私たち一人一人がどれ程愛されているかが記されています。神様がどれ程わたしたちを愛しているかは、神さまの一人子、イエス・キリストの命を犠牲にしてまで、私たち人間を救おうとされたということに表されています。いったい、誰が他人の罪をつぐなうために、自分の子どもを身代わりに死刑という処罰を受けさせるでしょうか。神様はそれをして下さいました。私たち人間も神様が創られた神様の愛する子供で、その子供たちを滅びから救うために、神であるご自分の子、キリストの命を神様は犠牲にされました。

 また、父なる神様に従った子なるイエス・キリストを通して、彼の父なる神への従順と具体的にどのように人が互いに愛しあうかのモデルも示されています。その父なる神様とキリストを信じて、その愛を受け止められると、負の連鎖をする必要がなくなり、愛のうちに歩もうと心が強くされ、そして神様と共に困難な人生を歩んでいけるでしょう。そして、親を含めた他者を赦せるようになると、同時に自分の心の傷が癒され、神様の愛のうちに少しづつ心が平安に変えられていくはずです。もちろん、素晴らしい、尊敬できる親を持つ方々もたくさんいますし、そういう人は自分が受けた愛を自分の子や他者にも分け与えようという人徳が自然に身についているかもしれません。しかし、どんな優れた人でも、神様の愛を知らなければ限界があるでしょう。そのことに気がついた時、謙遜になって、自分には愛のないことを認め、神様の愛が与えらえれるよう、祈り求めたいと思います。
 
「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 」 エフェソ信徒への手紙5章1-2節

*1 出エジプト記 20章12節
*2 エフェソ信徒への手紙 6章4節