私たちの教会には台湾の方がおられます。折しも今年は、年に一度の世界祈祷日といって、毎年一つの国のために祈るというプログラムがありますが、今年は台湾のためでしたので、彼女に少し台湾について話を聞く機会が持てました。私は台湾に多くの民族、言語があること、そしてそれに関わる政治的問題を彼女の生活の中からの話として聞く機会が与えられました。彼女は、自分の国のために世界中の教会で祈ってくれていることを、とても感謝していました。
知らないということは、相手を理解する情報がないため、差別や偏見につながる恐れがあります。現代日本において、言葉が通じなくとも、通訳アプリ等を利用しコミュニケーションをはかり、個性や能力が人それぞれ違うことを受け入れることを、子供のうちから教育されることがこの多様性の社会で共存していくために大事ではないかと思わされます。
多様性を受容できず、「自分たち」という利害を主張すると民族の分断、政治的分断、戦争が生じ、これらを平和に導くことは困難です。しかし、違いがあっても私たちは同じ神様が創られた大切な存在であること、そして互いに愛し合うような人間関係を持つよう神様によってデザインされていることが信じられれば、もう少し世界は歩み寄れるのではないかと思います。ここで、神イコール宗教とすると「恐ろしい」という偏見を持つ人がいます。宗教は洗脳する、戦争をするではないかと。しかし宗教が戦争をするのではなく、神が戦争をするのではなく、結局「人間」が宗教を大義名分にして戦争をし、洗脳しているということを識別すべきでしょう。そもそも、相手に危害を加えることを正当化する神々は本当に神なのでしょうか。それこそ人間が作り出した、自分たちに都合のよい、偽の神々ではないでしょうか。
私が信じている神は、「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」というメッセージを啓示する神であります。では、神が愛であるということはどのようにわかるのでしょうか。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」 と聖書に書かれています。独り子とはイエス様のことです。この分断・争いの中から抜けられず、罪の縄目から私たちを救い出すために、イエス様はこの世に人となって約2千年前に来て下さいました。そして十字架にかかり、私たちのすべての罪を負って、代わりに死なれましたが、3日目に神様が甦えらせ、死に打ち勝ちました。今は天におられ、私たちの祈りを日々神様にとりなしてくださっています。そして、お互い違いがあっても、一つになれる方法を可能にしてくださいました。その方法とは、
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こ「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」うしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 エフェソ信徒への手紙2章14-16節
とあるように、皆が「新しいひとに作り上げられること」です。新しい人とは、外面的には同じですが、内面的に聖霊が与えられ、もはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生き、聖書が示すように「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」ということを自発的にやっていこうとする人です。一方、新しい人になったからといって、自分自身の人格・個性が消えるわけではなく、感情的には「愛せない」と思うこともあります。「もう、これ以上無理だよ」という状況になることもあります。しかし、「それでも愛そう」「神様がこの状況をなんとかしてくれる」と思いなおせるのは幸いです。神様に祈って助けを求め、導きを求め、神様の与える希望をもって生きていこうとするのが新しい人でしょう。この世に生きている間は、古い人が顔をだすことがありますが、徐々に新しい人の領域が心の中で広がっていく、つまり新しい人へ変えられていくという希望があるからこそ、この世でのキリストにある平和の実現、まずは自分の小さな世界から期待していきたいと思います。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 」ヨハネの手紙1 4章7-9節
知らないということは、相手を理解する情報がないため、差別や偏見につながる恐れがあります。現代日本において、言葉が通じなくとも、通訳アプリ等を利用しコミュニケーションをはかり、個性や能力が人それぞれ違うことを受け入れることを、子供のうちから教育されることがこの多様性の社会で共存していくために大事ではないかと思わされます。
多様性を受容できず、「自分たち」という利害を主張すると民族の分断、政治的分断、戦争が生じ、これらを平和に導くことは困難です。しかし、違いがあっても私たちは同じ神様が創られた大切な存在であること、そして互いに愛し合うような人間関係を持つよう神様によってデザインされていることが信じられれば、もう少し世界は歩み寄れるのではないかと思います。ここで、神イコール宗教とすると「恐ろしい」という偏見を持つ人がいます。宗教は洗脳する、戦争をするではないかと。しかし宗教が戦争をするのではなく、神が戦争をするのではなく、結局「人間」が宗教を大義名分にして戦争をし、洗脳しているということを識別すべきでしょう。そもそも、相手に危害を加えることを正当化する神々は本当に神なのでしょうか。それこそ人間が作り出した、自分たちに都合のよい、偽の神々ではないでしょうか。
私が信じている神は、「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」というメッセージを啓示する神であります。では、神が愛であるということはどのようにわかるのでしょうか。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」 と聖書に書かれています。独り子とはイエス様のことです。この分断・争いの中から抜けられず、罪の縄目から私たちを救い出すために、イエス様はこの世に人となって約2千年前に来て下さいました。そして十字架にかかり、私たちのすべての罪を負って、代わりに死なれましたが、3日目に神様が甦えらせ、死に打ち勝ちました。今は天におられ、私たちの祈りを日々神様にとりなしてくださっています。そして、お互い違いがあっても、一つになれる方法を可能にしてくださいました。その方法とは、
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こ「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」うしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 エフェソ信徒への手紙2章14-16節
とあるように、皆が「新しいひとに作り上げられること」です。新しい人とは、外面的には同じですが、内面的に聖霊が与えられ、もはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生き、聖書が示すように「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」ということを自発的にやっていこうとする人です。一方、新しい人になったからといって、自分自身の人格・個性が消えるわけではなく、感情的には「愛せない」と思うこともあります。「もう、これ以上無理だよ」という状況になることもあります。しかし、「それでも愛そう」「神様がこの状況をなんとかしてくれる」と思いなおせるのは幸いです。神様に祈って助けを求め、導きを求め、神様の与える希望をもって生きていこうとするのが新しい人でしょう。この世に生きている間は、古い人が顔をだすことがありますが、徐々に新しい人の領域が心の中で広がっていく、つまり新しい人へ変えられていくという希望があるからこそ、この世でのキリストにある平和の実現、まずは自分の小さな世界から期待していきたいと思います。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 」ヨハネの手紙1 4章7-9節