20代の時、一度だけ湖でウインドサーフィンを試みたことがあります。こんな狭い板の上にのって、水の上を走れるのか半信半疑でしたが、指導してくれた人のサポートで、数10メートル水の上を走れました。風にのって、どんどん湖のまん中へ進んでいき、とてもエキサイティングでしたが、方向転換や止まり方を習得していなかった為、怖くなり間も無く沈没して止めました。この地球上では全ては重力の下にあり、ある一定の条件下と乗り物にのれば、人は飛行機で空を飛び、船で水の上を走れます。人も横たわれば、しばらく水の上に浮いていられますが、直立した状態で人が水の上を歩く方法はまだ誰も成功していないでしょう。
聖書には人が水の上を歩いたという、信じら難いことが記されています。ある日の夕方イエスの弟子達だけで大きな湖に船をこぎ出すと、途中で嵐に遇い、先に船が進まなくて困っていると、イエスが湖の上を歩いて彼らの方へ行かれました。それを見た弟子たちは幽霊だと思い、恐怖のあまり叫び声をあげましたが、イエスはすぐに彼らに「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と声をかけました。すると弟子の一人のペテロが「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を歩いてそちらへ行かせて下さい」と願うと「来なさい」とイエスは言われ、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行けました。しかし、彼はすぐに足元の波と風をみて怖くなると沈んでしまい、イエスに引き上げてもらって、二人共舟に乗り込みました。
このような記事がなぜ聖書に書いてあるのか考えてみました。イエスは3年半の宣教活動の間に多くの奇跡をされましたが、多くの病人を癒したり、5000人にパンを増やして給食したり、病気で死んだ人を生き返らせたり、みな人々の必要に答えるための奇跡が記されています。イエスが奇跡を起こす時には目的や神の国についての教えが伴います。ですから、単に人の欲望を叶えてくれるため(例えば一攫千金を得る、名誉を得る)には奇跡を行われませんし、必要なこと(病気が治る、良い結婚、いい会社に就職等)を願ったとしても、その通りに奇跡がおこるとは限らないのです。神様の側には計画と思いがあり、人の思いとは異なります。つまり神様が奇跡をなさらなかった事柄でも、そこに神の計画や御心があるはずです。ですから、この水の上をペテロに瞬間的に歩かせるという奇跡は、イエスに力があり、その人にするように命じれば、”その人を通して”奇跡は起こるということを弟子が信じて一歩踏み出すという、信仰のレッスンだったのではないかと思います。
信仰というのは、電気のスイッチに例えられます。スイッチを押すと、電気が流れ電球がつくように、信仰を働かせると、神の不思議な力が流れて奇跡がおきます。ですから「これは無理だろう」「神でもこれはできないだろう」という不信仰の状態には、神の力は流れず何もおこりません。私たちの内には何の力もないのですが、神には出来ると信じる信仰を持って何事も祈り、その願いが神の思いに沿ったものであれば、私たちの人知や科学を超えた不思議なことが起こるでしょう。この弟子の場合、イエスに命じてもらえば歩けると信じたから、重力の法則を超えて水の上を歩けたわけです。しかし途中で波と風を見て怖くなる、つまり人の現実的な思いで信仰のスイッチをオフにしてしまうと沈んでしまいます。現代の私たちへの適応は、絶望的な状況、不可能に思えることでも、イエスに力があると信じて信仰のスイッチをオンにできるかが問われと思います。
そもそも、この世で信仰を持ち続けて生きることは、ある意味水の上を歩くような、重力に逆らう奇跡的なことだと思います。傍から見ると、目に見えない神が存在して、2千年前に十字架に掛けられた神の御子イエス・キリストが死んで復活したことは自分の罪が赦され、天国へ行けるためだという信仰は、多くの人には信じがたいことでしょう。しかし、聖書に書いているイエス・キリストのなさったこと、言った事が本当だと信じて、現代における自分の生活の中でも祈って神様に委ねていくと奇跡がおこります。それも、自分の思う通りではなく、神様のやり方やタイミングで。この世という深い海に沈むことなく、水の上を歩いて信仰を保っていけるのは、自分の力や意志ではなく全て神様の恵であり、奇跡の力であると捉え、日々神様に感謝していきたいと思います。また、信じられなくて溺れそうになっても、助けを求めれば、イエスが腕をつかんで、引き上げてくれるので、安心です。
「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。 マタイによる福音書19章26節
聖書には人が水の上を歩いたという、信じら難いことが記されています。ある日の夕方イエスの弟子達だけで大きな湖に船をこぎ出すと、途中で嵐に遇い、先に船が進まなくて困っていると、イエスが湖の上を歩いて彼らの方へ行かれました。それを見た弟子たちは幽霊だと思い、恐怖のあまり叫び声をあげましたが、イエスはすぐに彼らに「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と声をかけました。すると弟子の一人のペテロが「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を歩いてそちらへ行かせて下さい」と願うと「来なさい」とイエスは言われ、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行けました。しかし、彼はすぐに足元の波と風をみて怖くなると沈んでしまい、イエスに引き上げてもらって、二人共舟に乗り込みました。
このような記事がなぜ聖書に書いてあるのか考えてみました。イエスは3年半の宣教活動の間に多くの奇跡をされましたが、多くの病人を癒したり、5000人にパンを増やして給食したり、病気で死んだ人を生き返らせたり、みな人々の必要に答えるための奇跡が記されています。イエスが奇跡を起こす時には目的や神の国についての教えが伴います。ですから、単に人の欲望を叶えてくれるため(例えば一攫千金を得る、名誉を得る)には奇跡を行われませんし、必要なこと(病気が治る、良い結婚、いい会社に就職等)を願ったとしても、その通りに奇跡がおこるとは限らないのです。神様の側には計画と思いがあり、人の思いとは異なります。つまり神様が奇跡をなさらなかった事柄でも、そこに神の計画や御心があるはずです。ですから、この水の上をペテロに瞬間的に歩かせるという奇跡は、イエスに力があり、その人にするように命じれば、”その人を通して”奇跡は起こるということを弟子が信じて一歩踏み出すという、信仰のレッスンだったのではないかと思います。
信仰というのは、電気のスイッチに例えられます。スイッチを押すと、電気が流れ電球がつくように、信仰を働かせると、神の不思議な力が流れて奇跡がおきます。ですから「これは無理だろう」「神でもこれはできないだろう」という不信仰の状態には、神の力は流れず何もおこりません。私たちの内には何の力もないのですが、神には出来ると信じる信仰を持って何事も祈り、その願いが神の思いに沿ったものであれば、私たちの人知や科学を超えた不思議なことが起こるでしょう。この弟子の場合、イエスに命じてもらえば歩けると信じたから、重力の法則を超えて水の上を歩けたわけです。しかし途中で波と風を見て怖くなる、つまり人の現実的な思いで信仰のスイッチをオフにしてしまうと沈んでしまいます。現代の私たちへの適応は、絶望的な状況、不可能に思えることでも、イエスに力があると信じて信仰のスイッチをオンにできるかが問われと思います。
そもそも、この世で信仰を持ち続けて生きることは、ある意味水の上を歩くような、重力に逆らう奇跡的なことだと思います。傍から見ると、目に見えない神が存在して、2千年前に十字架に掛けられた神の御子イエス・キリストが死んで復活したことは自分の罪が赦され、天国へ行けるためだという信仰は、多くの人には信じがたいことでしょう。しかし、聖書に書いているイエス・キリストのなさったこと、言った事が本当だと信じて、現代における自分の生活の中でも祈って神様に委ねていくと奇跡がおこります。それも、自分の思う通りではなく、神様のやり方やタイミングで。この世という深い海に沈むことなく、水の上を歩いて信仰を保っていけるのは、自分の力や意志ではなく全て神様の恵であり、奇跡の力であると捉え、日々神様に感謝していきたいと思います。また、信じられなくて溺れそうになっても、助けを求めれば、イエスが腕をつかんで、引き上げてくれるので、安心です。
「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。 マタイによる福音書19章26節