先日、私が月一回開いている幼稚園の保護者向け聖書勉強会に、私の友人がママ友を誘って参加されました。この幼稚園では新学期の時期に、園児たちに天地創造*1(神がこの世界すべてを創られたという、聖書の最初のストーリー)のDVDを見せています。そこで私は保護者の方にも、神様が六日かけて天地を創造し、最後に人間を創られたところを聖書にそって説明した後で、「これを皆さんが信じるか信じないかは別としても、もし神様がいたとしたら、なぜ人を創ったと思いますか?」と質問してみました。ある方が「おそらく、神様は大切にする相手がほしかったんじゃないかしら。。」と答えられました。私は別の聖書の箇所「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び…愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」*2を示し、一言にまとめて「神様は愛するために人を創ったようです。その人の人種や才能等に関わらず、一人一人が大切な、神様の前には価値のある存在として創られているから」と説明しました。
一人で悩んでいる人たち:いじめに遭っている子供、自分の抱えている責任や重荷に潰されそうになり苦しんでいる人、自分は生きている意味があるのだろうかと落ち込んでいる人。。。私はこのような人たちに「君は愛されるために生まれた」と伝えたいと願うのです。例え、自分を愛する人は誰もいないと感じても、目に見えない神様はその人を愛していて、愛する為に創られて、目的をもってこの世で生を与えたということを信じられると、どんな状況でも、どんな境遇に生まれ育ち、生活しようとも、そこに生きている意味を見出せて、自分の存在価値に確信を持て、一歩踏み出せるのではないでしょうか。
そして神様の存在と神様の愛を現わしているのが、イエス・キリストです。つまり、神の御子イエスの命を十字架で犠牲にしてまで、私たちを救おうとしたのは、それ程に私たち人間に価値があるとみなしてしてくれているからです。このような神様の大きな愛、またその父なる神様の計画に従順に従われた御子イエス様の愛は、なんと驚くべきことでしょうか。愛されている存在、意味のある人生、これらを神様の創造を前提として確信が持てると、もう一歩進んだ信仰に進んでいけます。神様は何もお返しを私たちに要求しないけれども(献金でさえ本来強制されていません)、私たちは神様に感謝すること、信じ続ける、求め続けることはできるはずです。神様が自分をこれ程までに愛して下さっていることを知り、その愛に自分はどう応答できるかと、神様のために生きたいという思いに変えられてゆき、自分中心から神様中心の思へと変えられていくことは、環境や状況に左右されない深い、大きな喜びを伴います。
多くの人たちは、聖書を神のことばとして信じず、信じたとしても部分的に信じ(例えば天地創造の部分は神話だとする)、人の知能で測りうる科学で整合性をつけようとします。しかし聖書は科学の本ではなく、信仰の書であり、聖書をどう信じるかはその人の信仰だと思います。私は人の知識を超えた、目に見えない全知全能の神様を信じ、私たちを愛して、イエス・キリストによって神の子にしようと前もってお定めになったこと、この世界は神様のことばから出来たと下記のように書かれている聖書をそのまま信じ、証していきたいと思います。
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 」
へブル人へ手紙11章3節
*1「はじめに神は天と地とを創造された。」創世記1章1節
*2 エペソ人への手紙1章4-5節
一人で悩んでいる人たち:いじめに遭っている子供、自分の抱えている責任や重荷に潰されそうになり苦しんでいる人、自分は生きている意味があるのだろうかと落ち込んでいる人。。。私はこのような人たちに「君は愛されるために生まれた」と伝えたいと願うのです。例え、自分を愛する人は誰もいないと感じても、目に見えない神様はその人を愛していて、愛する為に創られて、目的をもってこの世で生を与えたということを信じられると、どんな状況でも、どんな境遇に生まれ育ち、生活しようとも、そこに生きている意味を見出せて、自分の存在価値に確信を持て、一歩踏み出せるのではないでしょうか。
そして神様の存在と神様の愛を現わしているのが、イエス・キリストです。つまり、神の御子イエスの命を十字架で犠牲にしてまで、私たちを救おうとしたのは、それ程に私たち人間に価値があるとみなしてしてくれているからです。このような神様の大きな愛、またその父なる神様の計画に従順に従われた御子イエス様の愛は、なんと驚くべきことでしょうか。愛されている存在、意味のある人生、これらを神様の創造を前提として確信が持てると、もう一歩進んだ信仰に進んでいけます。神様は何もお返しを私たちに要求しないけれども(献金でさえ本来強制されていません)、私たちは神様に感謝すること、信じ続ける、求め続けることはできるはずです。神様が自分をこれ程までに愛して下さっていることを知り、その愛に自分はどう応答できるかと、神様のために生きたいという思いに変えられてゆき、自分中心から神様中心の思へと変えられていくことは、環境や状況に左右されない深い、大きな喜びを伴います。
多くの人たちは、聖書を神のことばとして信じず、信じたとしても部分的に信じ(例えば天地創造の部分は神話だとする)、人の知能で測りうる科学で整合性をつけようとします。しかし聖書は科学の本ではなく、信仰の書であり、聖書をどう信じるかはその人の信仰だと思います。私は人の知識を超えた、目に見えない全知全能の神様を信じ、私たちを愛して、イエス・キリストによって神の子にしようと前もってお定めになったこと、この世界は神様のことばから出来たと下記のように書かれている聖書をそのまま信じ、証していきたいと思います。
「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 」
へブル人へ手紙11章3節
*1「はじめに神は天と地とを創造された。」創世記1章1節
*2 エペソ人への手紙1章4-5節