忙しさにかまけて、暫く近所の森から足が遠のいていたうちに、季節は春から夏へ移り変わっていました。森に入ると、野の百合があちこちに咲き、セミの声が響いていました。野百合はお店で売られている整った美しさの百合と比べると、何か力強い自然の美しさを感じます。野の百合について、イエス・キリストが下記のように言われているのも改めて納得できます。「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花(野百合)の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」*1 すぐにしおれてしまう草木だとしても、神が自然に美しく着飾ってくれるのであれば、尚更、人間である私たちを神が心にかけないわけがないので、何も心配しなくてもよい、くよくよ思い煩っても寿命はのびることはないでしょうという文脈です。
久し振りの森の散歩は変わらず静かで、心地よく、人とすれ違うこともほとんどありません。森の薄暗い中に、見た目はカゲロウのような黒いものがひらひらと優雅に飛びかい、とても神秘的でした。後で調べて見ると、ハグロトンボというそうで、その飛び方は蝶のようで、留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じて止まります。かげろうというと、「はかなく短い命」の象徴とされています。これはかげろうが、成虫になって1日で死んでしまうことからだそうで、カゲロウの仲間を意味する学名「Ephemeroptera」は、「1日」という意味と「翅(はね)」という意味のラテン語から作られた造語だそうで、古今東西、かげろうのイメージは変わらないようです。
自分の命がどれだけか、長いか、はかないかを意識することは、その人の生き方に反映されると思います。若い時、そして健康に何も問題がない時は、人生の長さなど考えることもなく、いつまでもこのままが続くと思います。しかし、晩年になってくると、また若くても大きな病気を経験すると、当たり前に思っていたことがそうではないということに気がつかされ、逆に一日一日を大切に生きようという思いが強くなるものです。なぜなら、いつこの命が終わるかわからない、もしくは限られているという意識をもつことで、残された時間を大切にし、また、特別なことをしたい人はしてもよいですし、いつも通りに生活することにおいてもそこに価値を見出すことが可能です。もちろん、余命宣告をされた場合、すぐには前向きにはなれません。怯えたり、恐れたり、嘆き悲しむことはノーマルな感情です。誰でも、そのような感情の過程を通った後、最終的に平安な気持ちにたどり着くことができれと願います。
キリストを信じる者にとっては、この体の命のはかなさを知り、価値を見出すだけにとどまらず、その先に待ち望むものがあります。下記の、詩編という詩を書いた古代イスラエル時代のダビデ王は、自分の命のはかなさを知り*、また世の中に悪がはびこり、自分の命が狙われている状況を神様に訴えつつ、最後には神様にのみ望みをおくと宣言しています。このように、現代に生きる私たちにとって、望みとはキリストであり、キリストを信じる信仰を通して、死んだ後のことに対しても希望が与えられています。それもただ天国で魂がふらふらしているのでなく、天の国で何かを相続する、つまり神の子供としての特権があり、また罪のない永遠に生きる新しい体が与えられ、神様とづっと過ごせるという約束が書いてあり、たとえそれが漠然とした把握であっても、待ち望むことが出来るからです。もはや罪がお互いないということは、この世の中のようではなく、もはや悲しみも嘆きも、戦争もなく、平和だということですから、それがいつになるかは知らされていませんが、その新しい世界を待ち望みたいと思います。同時に、今与えられているこの体における地上での生活において、日々神様に感謝しつつ、この喜びの福音(グット・ニュース)を知らない人々に伝えていきたいと思います。
「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。 」 詩編39編7節
*1 「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」 マタイによる福音書6章27-30節
*2「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。」詩編39編4-5節
久し振りの森の散歩は変わらず静かで、心地よく、人とすれ違うこともほとんどありません。森の薄暗い中に、見た目はカゲロウのような黒いものがひらひらと優雅に飛びかい、とても神秘的でした。後で調べて見ると、ハグロトンボというそうで、その飛び方は蝶のようで、留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じて止まります。かげろうというと、「はかなく短い命」の象徴とされています。これはかげろうが、成虫になって1日で死んでしまうことからだそうで、カゲロウの仲間を意味する学名「Ephemeroptera」は、「1日」という意味と「翅(はね)」という意味のラテン語から作られた造語だそうで、古今東西、かげろうのイメージは変わらないようです。
自分の命がどれだけか、長いか、はかないかを意識することは、その人の生き方に反映されると思います。若い時、そして健康に何も問題がない時は、人生の長さなど考えることもなく、いつまでもこのままが続くと思います。しかし、晩年になってくると、また若くても大きな病気を経験すると、当たり前に思っていたことがそうではないということに気がつかされ、逆に一日一日を大切に生きようという思いが強くなるものです。なぜなら、いつこの命が終わるかわからない、もしくは限られているという意識をもつことで、残された時間を大切にし、また、特別なことをしたい人はしてもよいですし、いつも通りに生活することにおいてもそこに価値を見出すことが可能です。もちろん、余命宣告をされた場合、すぐには前向きにはなれません。怯えたり、恐れたり、嘆き悲しむことはノーマルな感情です。誰でも、そのような感情の過程を通った後、最終的に平安な気持ちにたどり着くことができれと願います。
キリストを信じる者にとっては、この体の命のはかなさを知り、価値を見出すだけにとどまらず、その先に待ち望むものがあります。下記の、詩編という詩を書いた古代イスラエル時代のダビデ王は、自分の命のはかなさを知り*、また世の中に悪がはびこり、自分の命が狙われている状況を神様に訴えつつ、最後には神様にのみ望みをおくと宣言しています。このように、現代に生きる私たちにとって、望みとはキリストであり、キリストを信じる信仰を通して、死んだ後のことに対しても希望が与えられています。それもただ天国で魂がふらふらしているのでなく、天の国で何かを相続する、つまり神の子供としての特権があり、また罪のない永遠に生きる新しい体が与えられ、神様とづっと過ごせるという約束が書いてあり、たとえそれが漠然とした把握であっても、待ち望むことが出来るからです。もはや罪がお互いないということは、この世の中のようではなく、もはや悲しみも嘆きも、戦争もなく、平和だということですから、それがいつになるかは知らされていませんが、その新しい世界を待ち望みたいと思います。同時に、今与えられているこの体における地上での生活において、日々神様に感謝しつつ、この喜びの福音(グット・ニュース)を知らない人々に伝えていきたいと思います。
「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。 」 詩編39編7節
*1 「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」 マタイによる福音書6章27-30節
*2「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。」詩編39編4-5節