Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

傾聴

2019年11月07日 | 日記
 傾聴。これは、もともとはカウンセリングやソーシャルワーク用語で、その漢字「聴」にある通り、相手のメッセージに「耳」を傾け、声の調子や表情などに「目」で注意を払い、言葉の背後にある感情に「心」を配って話に共感するコミュニケーションの技法です。私は社会福祉士として働いていた時、クライアント(福祉サービスの利用者、その家族等)と面談するとき、このことを心がけて仕事をしていましたし、以来、仕事上だけでなく個人的に誰かと話しをする際、自分がなるべく話さずに、相手の話を聞くことに意識をしています。それでも、自分が話しすぎてしまう時がありますし、失敗も多いですから、まだまだ修行中です。口をコントロールできる人は、人間関係において争いを避けられ、相手と良好な関係を築けるでしょう。コミュニケーションは慎重にしてもし過ぎることはないと思います。

 下記の箇所は、聖書の中でマラキという預言者が記した言葉ですが、なんと、神様は人の話していることを傾聴してくださることが書かれています。特に、主(神様)を恐れるものが互いに語り合っている内容を注意深く聞いておられ、神様の名を心に留めている者のことを覚えておくために、書類に記録しておくというのです。「主を恐れる」とは畏敬、つまり神様を敬い畏れることで、実はこのことが知恵の初めとも書かれています。*1 神を恐れない人は、基本的に神などいないし、自分に対して何の力もないと思い、自分の好き勝手に、自分の基準で行動し、発言します。神を信じている人々に対して、「神なんて、弱い人間が作り出す気休め。 結局、自分なのさ、」と侮ることでしょう。
 一方、日本人はたくさんの神々を祭って、自分の願望にそって祈願し、お参りをしますが、宗教には深入りしないという人が多いのではないでしょうか。なぜなら、特定の神を信じて熱心になることで、今迄の自分自身でなくなってしまうかもしれないという恐れからくる、拒否感があるからでしょう。確かに、カルト宗教のような人を洗脳し、普通の生活ができないような状態にしてしまう宗教は拒否すべきです。しかし、全ての宗教がカルト的ではないし、本当の神を信じる宗教であれば人に平安、愛、善意など良いことを与え、また信徒はそれに基づいて社会の中で行動しているはずです。明治時代に創設された学校、福祉施設、病院は、ほとんど海外からのキリスト教の宣教師たちがキリストの愛に基づいて建てています。このように、キリストが人々をどんなに大切に思い、愛を与えようとし、それを人間同士でもするようにという良い教え、そしてそれを基に人々の福祉のために活動しているというキリスト教と、例えばオウム真理教のような破壊的な宗教を「宗教:怖いもの」となぜ一緒にとらえてしまうのでしょうか。それは無知からきています。知ろうとしない、無関心。

 私達が無関心であっても、神様は私達のことを傾聴し、私たちの願いを聞いて下さり、良くして下さる方です。私達が自発的に神を求め、信じることを忍耐をもって待っておられる方です。恐れにより強制もすることなく、本人の意志を尊重してくださいます。信じるとは神様に対する信頼関係が与えられることでもあり、今自分の起きていること、よいことも、悪いことも、全て神様に委ねようと思えるます。また、私達一人一人の全てを一度に見ることができ、また未来のことも見据えることができる全能な方です。これは、後ろめたいことをしている人にとってはそんな神の存在は恐ろしいかもしれませんが、自分は不完全な者、罪ある者と神さまの前に認め、キリストの十字架を通して全て赦してもらえるという救いを信じる人にとっては、平安と感謝が与えれられます。なぜなら、例え私たちが神様の命令を守れなくても、キリストを信じていれば責められないし、悔い改めるチャンスがあり赦されて、やり直すチャンスを何度も下さり、次第に良い心、行いへと自身が変えられていくという希望を持てるからです。

 また、たとえ何か他者の為に尽くしたことが誰からも評価されなくても、見えない神に向かってしているという心で行えば、くじけることはありません。なぜなら、神様がその善行を記録しておいてくださり、天国で「よくやったね」と、天での報酬が期待できるからです。「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 」*2とあるとおりです。神様に対してするように、目の前の人に、どんなに小さいことでも、良いことを相手にしようと日々心がけたいと願います。まずは、日々出会う人たちに、優しい言葉をかけたり、ドアをおさえて「お先にどうぞ」と譲ることなどからまずは、始められるのではないでしょうか。


 「そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。 」マラキ書3章16節

*1箴言1章7節
*2ガラテヤ人への手紙6章9節
(聖書引用、口語訳聖書)