Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

自問自答が宣言に変えられる時

2019年09月02日 | 日記
 先週、一泊二日で湯河原という温泉がある街へ行った時のことです。その夜から大雨が降り続け、ホテルの傍の小さな川の水位があっという間に上がり、流木を含む濁流へと変貌、このまま溢れてしまうのではと恐れを感じました。翌日もこの雨は降り続け、帰りの電車に乗る際、この嵐で電車が止まるのではと思った程です。そして、無事に帰宅し夜のニュースを見ますと、この大雨で佐賀県の家々が浸水している映像が報道されていて、驚きました。被災された方々の苦悩を思い心が痛みます。災害大国、日本と言われる程、近年何十年に一度しか起きなかった災害が毎年のように起きているので、次は自分の住む地域に起こってもおかしくはありません。

 今日の聖書の箇所は、著者が現在の境遇を嘆き、神様に訴えている詩が祈りとなっているところです。この著者は、紀元前6世紀頃、自国(イスラエル)が他国(バビロニア帝国)に侵略され、バビロニア地方へ捕虜として連行され、 移住させられていました。彼らの元住んでいた街、エルサレムにあった神殿も含み、全てが破壊され、異国の地で捕囚の民として嘲られ、辛い日々を送っていたのです。しかし、イスラエルの民は、その嘆きを神様への祈りとして詩に記したので、詩編という形で聖書に残されています。

 詩編42編から43編は、もともとは一つの詩で、3つの部分に分かれているそうです。各区切りが、下記の「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。…」で終わっています。3回同じフレーズが歌われていますが、この語調がその文脈で変化していきます。最初は、過去の良かった時代を思い出し、現状を憂い、自問自答的に、自分の魂に呟くような語調です。しかし、2回目、3回目と前向きに変えられていき、最後の「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。」は、神様が助けくれるから大丈夫だと確信をもって宣言するかのような、神様への賛美になっています。

 これは、著者が神様に祈っている間に希望が与えられたことによります。その希望とは、「あなたの光とまこととを送ってわたしを導き」(3節)とあるように、神様の光とまことがあれば、自分はこの状況を乗り越えられる、自分の力には限界があり、状況も変わらない、先行きが不透明であっても、神様の光とまことが自分を平安に導き、助け出されるという信仰が与えられ、希望がもてたのだと思います。その光とまこととは?イエス・キリストのことです。この祈りが記されてから数百年後、キリストは光として、まこと(真理)としてこの世に来られたからです*。それは、全ての人々を暗闇から光へ導くため、また当時の哲学者達を通しても、時代によってかわらない真理などないと語られ、絶望と諦めしかない状況に、変わらない真理として神の救いの福音をもたらすために来られました。この筆者は、この光と真理が、いつ来るのか、またどのように来るのか明確に示されていなくても、神様の霊によって示されてこの詩を書くように導かれたのだと信じます。

 どの時代でも、どの国でも、様々な環境により、苦難に会っている人々はうめいています。今、日本でも。その方々に必要な助けが与えられますように、そしてその支援は目に見える者を通して与えられるのですが、その背後に働かれている神様の光とまことを見出し、希望を持ってほしいと、願いつつ、特に今困難な状況にある人の為に祈っています。

「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしは なおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」 詩編43編5節

* 「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。 」ヨハネ福音書12章46節、「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 』」ヨハネ福音書14章6節

(引用、口語訳聖書)