首都圏に住んでいる両親たち、親族と一年近く会っていません。電話ではまめに連絡を取っていますが、やはり直接顔を見れないのは寂しいです。いつ頃なら安全に会えるか、なかなか見通しがつきません。こういう時は待つしかありませんし、仮に計画を立てたとしても、その時になったら実行できるかどうか、先行き不透明であります。これは個々人の生活においても、企業や団体の事業計画においても共通の抱えている課題でしょうし、いずれにしてもある程度計画は立てるものです。
先日、茨城県の梅林を訪れました。私たちの住む場所は栃木県といっても茨城との県境ですので、気軽に車で行けるところです。この一年は観光地にはいかず、四季ごとに自然の美しさを楽しめる近隣の場所を探索してきましたが、この山沿いに広がる、満開の白とピンクの梅の梅林は圧巻でした。平日なので人はまばらで、マスクをつけていてもほのかに梅の香りが漂い、水戸にある有名な偕楽園とはまた一味違い、山に咲く梅林がこれほどみごととは驚きと感動を覚えました。遠出や観光地へ行けなくとも、近隣で楽しめる場所に恵まれ、感謝であり、幸いだなと思います。
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」*1ドイツの宗教改革者ルターの言葉です。この言葉は今日の下記の聖書にみことばに記されている、信仰の一つの側面がベースになっていると思います。先のことを思い煩わず神様に全て委ね、いつも通りの日常を過ごせるという心構えは、神様から与えられる平安によるものでしょう。
計画を立てること自体は必要なことですし、意味がないわけではありません。その計画の動機が問われます。イエス様は、「もっと儲けるために、先行投資していこう!」と自分の欲のために計画しても明日死んでしまったら意味がないという、愚かな金持ちのたとえ話をされました*2。計画を立てるとしてもこの金持ちのように欲の為の、自分中心の人生設計ではなく、神様から一人一人に委ねられた人生、生活を探りながら、神様のみこころだったらこうしたらどうかなと、神様に祈りつつ神様中心の計画を立てることが、クリスチャンの考えたかではないかと思います。そうすれば例え思い通りに、計画通りにいかなくとも、虚しさや失望で希望を失うことはないでしょう。「そうか、違ったんだな。神様はもっと良い、最善の方向を用意しているのだろう」と、軌道修正すればいだけですから。
中高年になるとあと、何年生きられるかと算定し、このことをやろう、あのこともしようと考える年になります。しかし、いくら健康診断をまめにし、生活習慣に気をつけた生活をしていても、病気になってしまい、計画していたことが実行できないという時もあるかもしれません。私は今元気に過ごせているのは、すべて自分の努力や計画ではなく、神様のみ心だと経験上も思えますので、あまり、気にしないように変えられました。そして、明日自分の命がなくなろうとも、それはそれでよしと。もちろん、もう少し生きたいとは正直思います。もう少し生きられるとしたら、夫婦で神様のために、キリストの愛と希望を伝える宣教活動をしたいというメインの目的のもと、プラスアルファで多くの人との出会いを大切にし、自然の美しさを楽しみつつ、小さなことにも感謝する生活を淡々と続けられればと。「悔いのないように、一生懸命生きなければ!」と気負うのではなく、もっと肩の力を抜いて、今日も神様の恵に感謝しつつ、いつも通り過ごそうと思います。
「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである。」 ヤコブの手紙4章14-15節
*1”Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.” マルティン・ルター(ドイツの宗教改革者)1483年11月10日 - 1546年2月18日。宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。
*2 ルカ12:13-21 「そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
先日、茨城県の梅林を訪れました。私たちの住む場所は栃木県といっても茨城との県境ですので、気軽に車で行けるところです。この一年は観光地にはいかず、四季ごとに自然の美しさを楽しめる近隣の場所を探索してきましたが、この山沿いに広がる、満開の白とピンクの梅の梅林は圧巻でした。平日なので人はまばらで、マスクをつけていてもほのかに梅の香りが漂い、水戸にある有名な偕楽園とはまた一味違い、山に咲く梅林がこれほどみごととは驚きと感動を覚えました。遠出や観光地へ行けなくとも、近隣で楽しめる場所に恵まれ、感謝であり、幸いだなと思います。
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」*1ドイツの宗教改革者ルターの言葉です。この言葉は今日の下記の聖書にみことばに記されている、信仰の一つの側面がベースになっていると思います。先のことを思い煩わず神様に全て委ね、いつも通りの日常を過ごせるという心構えは、神様から与えられる平安によるものでしょう。
計画を立てること自体は必要なことですし、意味がないわけではありません。その計画の動機が問われます。イエス様は、「もっと儲けるために、先行投資していこう!」と自分の欲のために計画しても明日死んでしまったら意味がないという、愚かな金持ちのたとえ話をされました*2。計画を立てるとしてもこの金持ちのように欲の為の、自分中心の人生設計ではなく、神様から一人一人に委ねられた人生、生活を探りながら、神様のみこころだったらこうしたらどうかなと、神様に祈りつつ神様中心の計画を立てることが、クリスチャンの考えたかではないかと思います。そうすれば例え思い通りに、計画通りにいかなくとも、虚しさや失望で希望を失うことはないでしょう。「そうか、違ったんだな。神様はもっと良い、最善の方向を用意しているのだろう」と、軌道修正すればいだけですから。
中高年になるとあと、何年生きられるかと算定し、このことをやろう、あのこともしようと考える年になります。しかし、いくら健康診断をまめにし、生活習慣に気をつけた生活をしていても、病気になってしまい、計画していたことが実行できないという時もあるかもしれません。私は今元気に過ごせているのは、すべて自分の努力や計画ではなく、神様のみ心だと経験上も思えますので、あまり、気にしないように変えられました。そして、明日自分の命がなくなろうとも、それはそれでよしと。もちろん、もう少し生きたいとは正直思います。もう少し生きられるとしたら、夫婦で神様のために、キリストの愛と希望を伝える宣教活動をしたいというメインの目的のもと、プラスアルファで多くの人との出会いを大切にし、自然の美しさを楽しみつつ、小さなことにも感謝する生活を淡々と続けられればと。「悔いのないように、一生懸命生きなければ!」と気負うのではなく、もっと肩の力を抜いて、今日も神様の恵に感謝しつつ、いつも通り過ごそうと思います。
「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである。」 ヤコブの手紙4章14-15節
*1”Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.” マルティン・ルター(ドイツの宗教改革者)1483年11月10日 - 1546年2月18日。宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。
*2 ルカ12:13-21 「そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。