近年は食物摂取の際に起こるアレルギー反応が問題となっています。特に子供たちは、大豆、乳製品など健康に良いとされる食物でも体が反応してしまうので、食品に何が含まれているかを生産者側で表記しなければ、最悪命の危険を伴う結果となります。一方、宗教的理由や主義で肉を食べない人々もいます。ユダヤ教・イスラム教はたくさんの食べてはならない食物規定がありますし、動物殺生を一切したくない主義の方々は動物の毛皮、皮製品にも反対します。
その人の体に害がない限り、またそのことで他者に害を加えないのであれば、基本的に何を食べても飲んでも自由だと私は思います。動植物も不自然に操作してたりせず、育てたられたものを感謝して頂のが理想です。また、自分の宗教、主義を守りつつ、そうではない人々の文化、習慣を理解する広い心も必要ではないでしょうか。しかしそれによって害が生じる場合には、公共政策的に法律で制限することも必要でしょうし、法律で制限される程でないとしても周りに与える影響を考える、という配慮を持つということは大切だと思います。
一世紀にキリスト教がユダヤ人の間から始まり、世界に広がって行った時、ユダヤ人とそれ以外の民族の信徒の間でこの食事の問題が生じました。ユダヤ人としては、キリスト教はユダヤ人から始まったのであり、他の民族も自分たちが守ってきた食物規定やその他の法律を守ってほしいと思ったのです。しかし、当時の伝道者であったパウロはもっと広い心を持っていました。そしてそれは彼が考え出したことでなく、彼の信じているイエス・キリストご自身が言われたこと「全ての食物は聖いのです」*1とその愛の教えに従って、このことでもめている信徒たちに勧めを手紙に書いています。
その勧めとは、何を食べる、食べないという問題、またどの日が重要かどうかで、互いに裁きあわないことです*2。なぜなら、全ての人のためにキリストは死なれたのであって、それ程全ての人は神様に愛されているのだから、食べ物のことで人を裁くなということなのです。また、キリストを信じている者は神様の恵み受けて、感謝し、何をしても自由であると。ただその自由によって、相手をつまづかせないようにするという配慮は必要であり、全てして良いからといって、全てのことが益になるわけではないと言っています*3。こうしてユダヤ人であるパウロは、自身は肉を食べることに何の問題を感じないけれども、問題視する人々を配慮して、自分も肉を食べることを控えていました*4。
お互いに違いに目を留めるのではなく、それぞれが大切にしていることを尊重しつつ、自分自身は人に縛られず、神様に感謝して、平和的な関係を持つことを目指していきたい、実際失敗も多いですが、そう祈り求めていきたいと思います。
「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。 」ローマ人への手紙14章17-20節
*1 マルコによる福音書7章18-19節 「『あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである』。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。」
*2 ローマ人への手紙14:1-6 ユダヤ人は土曜日を安息日として大切にしている。
*3「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」 第一コリント人への手紙10章23-24節
*4 ここでは、肉全般のことではなく、異教の神にその神殿で捧げられた肉が、その後市場に売り下げられ、その近くのレストランの食事に使われているという想定で、その肉が汚れているから、食べるべきでないという論争があった。第一コリント人へ手の手紙8章、10章18-33節
(聖書引用、口語訳聖書)
その人の体に害がない限り、またそのことで他者に害を加えないのであれば、基本的に何を食べても飲んでも自由だと私は思います。動植物も不自然に操作してたりせず、育てたられたものを感謝して頂のが理想です。また、自分の宗教、主義を守りつつ、そうではない人々の文化、習慣を理解する広い心も必要ではないでしょうか。しかしそれによって害が生じる場合には、公共政策的に法律で制限することも必要でしょうし、法律で制限される程でないとしても周りに与える影響を考える、という配慮を持つということは大切だと思います。
一世紀にキリスト教がユダヤ人の間から始まり、世界に広がって行った時、ユダヤ人とそれ以外の民族の信徒の間でこの食事の問題が生じました。ユダヤ人としては、キリスト教はユダヤ人から始まったのであり、他の民族も自分たちが守ってきた食物規定やその他の法律を守ってほしいと思ったのです。しかし、当時の伝道者であったパウロはもっと広い心を持っていました。そしてそれは彼が考え出したことでなく、彼の信じているイエス・キリストご自身が言われたこと「全ての食物は聖いのです」*1とその愛の教えに従って、このことでもめている信徒たちに勧めを手紙に書いています。
その勧めとは、何を食べる、食べないという問題、またどの日が重要かどうかで、互いに裁きあわないことです*2。なぜなら、全ての人のためにキリストは死なれたのであって、それ程全ての人は神様に愛されているのだから、食べ物のことで人を裁くなということなのです。また、キリストを信じている者は神様の恵み受けて、感謝し、何をしても自由であると。ただその自由によって、相手をつまづかせないようにするという配慮は必要であり、全てして良いからといって、全てのことが益になるわけではないと言っています*3。こうしてユダヤ人であるパウロは、自身は肉を食べることに何の問題を感じないけれども、問題視する人々を配慮して、自分も肉を食べることを控えていました*4。
お互いに違いに目を留めるのではなく、それぞれが大切にしていることを尊重しつつ、自分自身は人に縛られず、神様に感謝して、平和的な関係を持つことを目指していきたい、実際失敗も多いですが、そう祈り求めていきたいと思います。
「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。 」ローマ人への手紙14章17-20節
*1 マルコによる福音書7章18-19節 「『あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである』。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。」
*2 ローマ人への手紙14:1-6 ユダヤ人は土曜日を安息日として大切にしている。
*3「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」 第一コリント人への手紙10章23-24節
*4 ここでは、肉全般のことではなく、異教の神にその神殿で捧げられた肉が、その後市場に売り下げられ、その近くのレストランの食事に使われているという想定で、その肉が汚れているから、食べるべきでないという論争があった。第一コリント人へ手の手紙8章、10章18-33節
(聖書引用、口語訳聖書)