Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

笛ふけど踊らず

2019年11月25日 | 日記
 子供の頃、「ごっこ遊び」をしたことがあると思います。お店やさんごっこ等、子ども達は大人たちが実際していることを真似、それを遊びの中に取り入れます。ただ私が覚えている限り、「お葬式ごっこ」はしたことがありません。おそらく近代日本ではお葬式が家で行われず、葬儀場で行われるようになり、人の死というものを積極的に子供に見せないようになされているからかもしれません。一方、2千年前のイスラエルでは冠婚葬祭に幼い子供も一緒に参加していて、生活の様々な場面で必ず歌を歌っていたため、子ども達はお葬式ごっこを歌と共に遊びに取り入れていたようです。

 「のりがわるい」と言われるように、「笛吹けど踊らず」とはあることを手を尽くして準備し、誘っても人々の反響・反応が悪い様子を現わすことわざです。これは聖書の中でイエス・キリストが言われたことば「笛吹けど踊らず、弔いの歌を歌えど泣かず」*が由来となっています。子供たちが広場に座って互いにごっご遊びをしているなかで、お祝いの笛を吹いたのに一緒に喜んで踊らないし、葬儀の歌を歌っても誰も悲しみ涙を流さないという、無反応・無関心の様子をたとえで話しています。

 無反応、無関心。イエスはこのたとえを、当時の人々の心の状態を現わすために話されました。その当時、洗礼者ヨハネという預言者が人々に罪の悔い改めを説き、荒野で仙人のような生活をしていると、ある人々は彼を批判し、彼の呼びかけに無反応でした。その後イエスが宣教を開始し、神の国の福音を説き、様々な奇跡を起こして病気の人々を癒し、社会的弱者やのけ者にされている人々に寄り添っていると、形骸化した宗教システムに縛られている指導者達がイエスをねたみ、拒否しました。当時の多くの人々が、自分たちの現状維持にしか興味がなく、新しいイエスの教えと神からの権威の多くの業に無反応、無関心、批判的だったことをたとえられたのです。

 これは2千年前の中東の国の出来事だけではなく、現代の日本でも同じ状態ではないかと思わされます。表面的に多くの情報をネット等で得られますが、人として大切なことや、心温まるような出来事があまり注目されず、逆に批判されることもあります。真剣に取り組まなければならない事:生きること、その目的、死ぬこと、その後に無関心で、ある意味考えることがタブー視されています。これは知恵がない状態によると思います。人間の間で何が正しいか悪いかが相対的なため、知恵といっても様々な知恵がありますが、ここでは「神の知恵」についてです。神の知恵は普遍的で時代や国によって変わらないものであるということが、それを信じて従う人によって証明されるだろうと、イエスはこのたとえの続きで話されています。

 もし、人が神によって創造され、神に愛されて大切にされている存在だと受け入れ、信じられれば、神は人間の小さな考えや視野を超えたレベルで、全ての人にとって正しく、善いこと、平和的なことを持っておられるはずだと、自ずと理解できるようになるでしょう。「キリストが来て以来も、社会は良くならないし、戦争もなくならず、何も変わらないではないか」と表面的には見えたとしても、見えないところでは変革が起こっています。だからこそ、約2千年にわたりキリストの福音が伝えられ、個々人の心の中に変革があり、神に従おうとする人々の国が広がり続けているのは事実です。どんな弾圧,懐柔政策によってもこの信仰はなくなることはありませんでした。私はキリストを信じて従った人々のしてきたこと、言ってきたこと、たとえそれらが完全ではなくても、これらのことを神の摂理や恵という視点で捉え、ああ、やはりこのキリストが本当の神であり、今も生きておられると感謝をもって信じ続け、それを他の人に伝えていきたいと日々願い、祈り続けたいと思います。

「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」 ルカによる福音書7章35節

*ルカによる福音書7章32節  (聖書引用、新共同訳聖書)