おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

三島由紀夫が待っていた「告白」するに足る内容の挫折の到来-三島由紀夫の『檄』の一文から-

2024-09-20 07:13:38 | 日記
「待った」ということばが、なんと多く使われているのだろうか。

三島由紀夫の『檄』のなかに、

「われわれは4年待った。
最後の1年は熱烈に待った。
もう待てぬ。
自らを冒涜する者を待つわけには行かぬ。
しかし、あと30分、最後の30分待とう、共に起って義のために共に死ぬのだ」
という一文がある。

三島由紀夫の自決に際して、公表されたこの『檄』のなかの数行の文章で、三島由紀夫は、はじめて思い切り「告白」し、あれほど依拠してすらいた「告白の不可能性」をも捨てているようである。

(前回、前々回の日記のなかで)三島由紀夫や江藤淳が太宰治の魅力を認めながら、それを激しく嫌悪するのは、太宰治における自己欺瞞的な倒錯の論理を、許さないからであるが、この倒錯は、太宰治にのみあるのではなく、むしろ近代文学の存在根拠であるのではないか、ということや、
三島が『仮面の告白』で「告白」という形式への批判や作中人物と作者自身を同一視する者たちへの批判であることについて触れた。

しかし、三島はこの『檄』ではじめて心情を「告白」し、ある意味では、「告白」という近代文学の装置に屈服したといってよいようにも思われるのである。

その意味で考えるならば、この『檄』は、三島由紀夫にしてはめずらしい哀切な響きをともなっている。

その理由は、この『檄』のなかには「仮面の告白」ではなくして、単なる「告白」があるからではないだろうか。

告白とは、言語表現のなかに「私」が登場することである。

つまり、言語表現のなかに「私」が登場したことによって、言語表現それ自体が、論理的な自己矛盾を抱え込むことになった。

言い換えるならば、自己を語ること、つまり自己告白という表現形式は、常にその語り手の意志を超えたところで、自己矛盾を起こしているため、近代文学≒私小説は、この自己矛盾を内包したままに成長、発展してきたところがある。

また、この矛盾を徹底的に追求することが、近代文学のであり、私小説であった、といっても言い過ぎではないであろう。

そして、それを、批判することは容易であるが、それを克服することは、決して容易ではないのである。

三島由紀夫の生涯は、「批評」との闘いの生涯でもあった。

「批評」が「文学批判」に他ならないとするならば、三島由紀夫の文学的営為は、その批評を克服することが中心であった。

「三島由紀夫は、作家としてよりも、むしろ評論家としての方が一流である」という考え方があるが、このような考え方が、三島由紀夫の問題の、ひとつの傾向を捉えていることは確かであろう。

小林秀雄以降の作家たちは、小林秀雄の批評、つまり文学批判を避けることは難しいはずである。

しかし、実際には、多くの作家たちが、小林秀雄の批評とは無縁なところで、文学という形而上学に耽り、「批評の恐ろしさ」など知り得なかった。

当然、そのような作家と三島由紀夫は対立するのであるが、三島由紀夫は、小林秀雄以降の、小林秀雄の批評を模倣、反復しているに過ぎない、いわば「小林秀雄擬き」の批評家とも対立している。

なぜなら、三島由紀夫は、小林秀雄の「批評」、つまり「文学批判」を乗り越えて、文学の再建を試みる側の人だからである。

だからこそ、三島由紀夫は、かつて近代文学が依拠したであろう近代的な知のパラダイムに依拠するわけにはいかなくなった。

さらに、単に、小林秀雄的な文学批判を模倣し、反復するのはないとすれば、近代的な知のパラダイムを批判し、否定するだけで満足するわけにもいかないのである。

つまり、
「告白は不可能だ」という自覚の下で、つまり『仮面の告白』として、もういちど「告白」を行うことは、三島由紀夫の直面したパラドックスであったのだ。

三島由紀夫における「告白」から『仮面の告白』への視座の移動は、三島由紀夫の「文学批判」としての小林秀雄的な批評の地平から、それを内在的に反批判し、再度、文学の形而上学の構築に向かおうとする構えを示しているのではないだろうか。

しかし、結果的に、三島由紀夫もまた小林秀雄的な批評を乗り越えることは、できなかったのではないだろうか。

冒頭の「待った」という動詞をいくども反復する『檄』のなかの数行の文章を思い出してほしい。

三島由紀夫は、「待つ人」であった。

それは、三島が「主体性」の人ではなく、「関係」の人であったことを意味するのではないだろうか。

三島は、自立的存在ではなく、あくまでも他者との関係のなかでしか、存在しえない人ではないだろうか。

三島は、主体性が関係性のなかでしか存在しえないことを、言おうともしていた。

むしろ、三島由紀夫ほど強烈な「意志の人」はいないだろう。

つまり、三島由紀夫ほど主体的であり続けた人はいないだろう。

そして、主体的、意志的であり続けることが、いかに空虚であるかを、三島は思い知らされていたはずである

冒頭の
「われわれは4年待った。
最後の1年は強烈に待った。
もう待てぬ。」
という三島のことばを文学的コンテクストに置き換えれば、それは、三島由紀夫が、
「告白」のできる状況の到来、もっと言うならば、「告白」するに足る内容としての挫折の機会の到来を待っていたということである。

そのとき、作者三島由紀夫は、作中人物たらんてしていただろう。

しかし、作中人物になることの不可能を自覚したとき、三島由紀夫は、作品の内部においてではなく、実生活のレベルでそれを果たそうとしたのではないだろうか。

三島由紀夫の問題は、「美学」の問題でも、「倫理」の問題でもなく、「論理」の問題だったのであろう。

三島由紀夫の小説のなかの作中人物たちは、感情や生活に拠って生きるというよりも、論理によって生きており、論理によって破滅するようである。

だからこそ、私たちは、三島由紀夫を手放しで批判したり絶讃したりする前に、まずは、三島の強靱な論理思考のプロセスを追跡することからはじめなければならないのかもしれない。

三島由紀夫の死は、私たちに、今もなお、論理や思想を徹底的に突き詰めたとき、何がその先に待っているのかということを厳然と象徴しているようである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

原点を思い出して、ここ数回日記を描いています😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


最新の画像もっと見る