おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

小林秀雄のベルクソン論である『感想』と辿る物理学の革命の軌跡②-「相対性理論」から「量子物理学」へのパラダイムの転換が小林秀雄にもたらしたもの -

2024-10-06 07:17:08 | 日記
アインシュタインの相対性理論の出現によって、ニュートン的な古典物理学は、根底からの変換を余儀なくされたようであるが、「物理学の革命」はそれだけで終わったわけではなく、もう一段の根本的な科学革命が行われていたようである。

そう、「量子物理学」の登場である。

「物理学の革命」は、単なる物理学内部の理論的深化や発展ではなくて、トーマス・クーンが、「世界観の変革としての革命」と呼び、また「パラダイムの変換」と呼んだところのものであった。

つまり、「物理学の革命」は、思考の内容の問題ではなく、思考の様式の問題であったのである。

小林秀雄が「物理学の革命」に関心を持ったのも、おそらく、物理学という学問の厳密な体系的知や、その有効性のためではなくて、あたかも永久不変の真理のごとく思われる科学的真理ですら、「革命」とともに相対化されざるを得ないのだという、物理学における思考形式の「革命」の部分であったのだろう。

現代物理学の最先端と交差するベルクソン哲学から「科学」や「物理学」の問題を抜き去ることなど、出来ないことを、ベルクソンを論じる小林秀雄は、理解し、決して「科学」や「物理学」の問題を避けて通りはしなかった。

小林秀雄は、ベルクソン論である『感想』のなかで、相対性理論について、
「相対性理論は、物質世界の構造に関する、ベルクソンが言う『ニュートン力学の前進が遂に到達した、デカルト的メカニズムの完全な証明』なのである。
アインシュタインはデカルトの『後継者』なのだ。
絶対時間とか絶対運動とかいう亡霊を、物理学から追い払って了ったという意味合いから、たしかに相対性理論に違いないが、その目指したところが絶対的な、物的世界の構造の包括的・客観的記述にあったという点をはっきり摑んでいないと、相対性理論という言葉は、却って惑わしい言葉になる。
なるほど、この理論は、物理界に、全く革新的な考えを導入したが、私達とは無関係な、独立した客観世界の実在を容認するという近代科学が護持して来た考えは、この理論のうちで少しも動揺していない。
動揺していないのみならず、対象の客観性という概念は、アインシュタインによって、誰も考え及ばなかった高度まで、徹底的に推進されたと言える」
と述べている。

これは「相対性理論」の位置づけとして極めて正確な記述である。

小林秀雄は、「相対性理論」を、あくまでも近代科学の領域内の出来事として理解しようとしている。

その根拠は、「相対性理論」においても、まだ『客観世界の実在』が容認されているからだというのである。

言い換えてしまえば、「相対性理論」においても、デカルト的な主客二元論的世界が生き延びているからだということになるのである。

このことは、今日の科学史や物理学史の研究とも一致しており、小林秀雄の「相対性理論」の理解は、極めて正当である、と私には、思われるのである。

ニュートン的古典力学は、相対性理論という理論体系の中の一部に吸収されてしまったということも、出来るのかもしれない。

ベルクソンが言い、小林が追認しているように、相対性理論はあくまでも、近代科学を極限化した物理学であったのであろう。

「相対性理論」は、ニュートン的古典物理学が自明の前提としていた時空の絶対性という物理学の基礎概念を相対化してしまったという点では、きわめて革命的な理論であったが、それにもまして、より根本的な「物理学の革命」が「量子物理学」によってなされたのである。

小林秀雄は、『感想』のなかで、
「そういう次第で、量子力学は、自然の完全に客観的な記述は、科学者には許されていないという、以前の科学者が夢にも考えなかった考えに到達した。
客観的実在とは、これを観測する観察者と相関関係にあるものであり、私達の観測の方法なり条件なりに無関係な独立した客観的実在とは、科学者にとっては無意味なものとなった」
と述べている。

アインシュタインの相対性理論も革命的であったが、量子論は、さらに革命的であったようである。

量子論に到って、観測行為先立って、観察や観測の対象となるべき客観的実在が消え、むしろ観測行為の結果として、観測の対象が現れるようにも見える。

観測行為が対象を流動化させてしまうため、観測という行為の前後では、観測の対象自体が変化してしまうのであろう。

一般的には、「観測するもの」と「観測されるもの」とが前提されているのだが、量子論においては、この原理は崩れるようである。

廣松渉もまた、この問題について、『事的世界観への前哨』のなかで、
「量子力学がもたらした自然観の変貌は、相対性理論に由るそれよりも遥かに深甚である。
それは、物質観や法則観の次元においてのみならず、認識観の場面においても、『近代的』既成概念を震撼させずにはおかなかった」
と述べたあとで、
「量子力学は、古典物理学の決定論的=因果必然論的な法則観を震盪せしめるという域を超えて、自然観・認識観の一新をわれわれに強請する底のものであることによって、論理学ないしそれを支える世界観の次元に関しても重大な問題を提起している」
と述べている。

廣松渉はこのように言って、現代物理学における科学革命の成果を念頭に入れて、「物的世界像から事的世界観」への世界観の転換を主張しているが、このような問題の立て方は、廣松渉の『事的世界観への前哨』を読んだ当時の人々にとって、あまり目新しいものではなかっただろう。

なぜなら、それは、小林秀雄が、昭和初期に、既に自覚していたものだからではないだろうか。

廣松渉が、マルクスの研究の成果と現代物理学、特に量子力学の成果とを重複させて論じるという構えは、廣松渉が意識していないにせよ、すでに小林秀雄によって切り拓かれていた道である。

小林秀雄もまた、廣松渉が考えるように「量子力学」の登場を、伝統的な、つまり近代的な世界像や物質観に根本的な変革を迫るものとみなしている。

さらに、小林秀雄は、この「量子力学」の問題を、
「批評」=「危機」の問題として対象化していたのである。

(→小林秀雄のマルクス論もまたこのような見地からなされているが、この話はまたの回に。
ただし、小林のマルクス認識の正当性は、物理学的世界認識を前提にすることにより、はじめて可能になったといっても過言ではないだろう、と、考えている。)

さて、社会科学の方法論を考えるとき、自然科学における研究対象は、固定して不動であるから、客観的な科学たり得るが、その対象のなかに人間が入り込んでくる社会科学は、その対象自身が観測や調査という行為に対して反応してしまうので、客観的な科学たり得ない、という意見があるが、量子論においては、自然現象の観測においても、これと同じようなことが起こるのである。

つまり、自然現象自体も、観測という行為によって、攪乱されるため、客観的な観測は不可能になる。

したがって、もし、社会科学が客観的な科学たり得ないとするならば、物理学のような自然科学もまた、客観的な科学たり得ない、ということになってしまうのである。

このことについて、ニールス・ボーアは、
「量子論にあっては、私たちは俳優であるし、観客でもある」
と述べており、また、ハイゼンベルグは
「私たちが観測するものは、私たちの質問の仕方にさらされた自然である」
と述べており、いずれも小林秀雄が『感想』で引用していることばでもある。

相対性理論と量子物理学の差異はここにあるのではないだろうか。

相対性理論は、「実在」の客観的記述が可能であるという前提から出発するのに対して、量子物理学は、「実在」の客観的記述は、原理的に不可能であると考える。

やはり、この「相対性理論」から「量子物理学」へのパラダイムの転換は、「小説家小林秀雄」から「批評家小林秀雄」にいたる物語を意味しているようにも、私には、思われるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

見出し画像は、また購入予定の本の購入ページにある画像にしてみました😊

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


最新の画像もっと見る