おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

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小林秀雄が近代批評を確立したといわれる理由②-「当為」ではなく「存在」を問題にしていた小林秀雄-

2024-10-11 07:28:11 | 日記
小林秀雄以後の文芸評論家たちが、「思想家」とでも呼ぶべき存在へと転換した理由は、文学作品の分析を通じて、文学という問題を越えた、ある基礎論的な問題を問うような存在へと変身したからなのではないだろうか。

その代表的な文芸評論家のひとりは、吉本隆明であろう。

吉本隆明は、1961年、「試行」に『言語にとって美とは何か』を連載するころから、急速に原理的思考の世界に移っていった。

以後、『共同幻想論』、「心的現象論」というような、文芸評論の世界では対処できないような問題作といっても過言ではないような作品を次々と発表するのだが、吉本隆明は、あくまでも「文芸評論家」の名において、これらの仕事を進めているのである。

『言語にとって美とは何か』という言語論はともかくとしても、どうして、「文芸評論家」にとって、『共同幻想論』や「心的現象論」が必要なのかについて、吉本隆明は、『心的現象論序説』のなかで、

「いうまでもなく、この領域は、心理学、精神医学、哲学の領域に属していて、私はひとびとがわたしの専門と考えている文学の固有領域から、すくなくとも具体的には一段と遠ざかることになる。
しかし、現在では、一個の文芸批評が独立した領域として振る舞おうとするとき、このような文学的常識からの逸脱は免れがたいものである。
そしてこの逸脱が、いつの日か文学芸術の固有領域を根源において惹きつけるということを信ずるほかはない」
と述べている。

では、吉本隆明は、なぜ、文学的常識からの逸脱を必要とし、なぜ、文芸批評の名において、『共同幻想論』や「心的現象論」を必要としたのだろうか。

おそらく、それは、吉本が、批判的に対決しなければならなかった当面の敵が、ロシア・マルクス主義であり、それに根拠をおく社会主義リアリズム論であったからである。

吉本隆明もまた「マルクス主義」との対立上から、必然的に原理論的な次元からの考察を余儀なくされたといってもよいのかもしれない。

吉本隆明は、マルクス主義とマルクス区別し、史的唯物論と弁証法的唯物論を基礎にしてロシアで発表されたロシア的マルクス主義とマルクスの思想とを区別し、それを「マルクス主義者」と「マルクス者」という呼び方で区別し、前者と批判的に対決したようである。

この吉本隆明のマルクス主義に対する構えは、小林秀雄のそれに極めて近い、というのも、吉本隆明は、マルクスの理解の仕方を、ほとんど小林秀雄のマルクス理解から受け継いでいるようなのである。

このことについて、磯田光一は『吉本隆明論』のなかで、
「吉本隆明をマルクスに近づけたのも、あるいは吉本のマルクス理解を決定したもの、それは小林秀雄の初期評論以外の何ものでもなかった」
と述べている。

吉本隆明は、『心的現象論序説』のなかで、
「わたしは、ここで現象学とも悪しき唯物論とも違った仕方で『観念論か唯物論か』という二次元的な問題の立て方を越えてみたい」
と述べているが、これもまた小林秀雄のマルクス解釈とそれほど違ってはいないだろう。

そしてこのことばは、「心的現象論」のテーマを要約しているようである。

つまり、「唯物論か観念論か」という二元的構えそれ自体の無効を宣言することは、結局のところ、ロシア・マルクス主義的な「唯物論」への批判ともなっているのではないだろうか。

わが国における文芸評論とは、物事を原理的に考える場所として確立されたのであり、それは単なる文芸時評や文学研究とは異なる、私には、思われる。

小林秀雄以後、文芸評論家に要求される役割は大きく変容し、文芸評論家は、単なる文芸の評論家であることは許されなくなったようである。

哲学者や思想家の役割をも担うことによってはじめて、文芸評論家という新しい存在形式が確立したからであろう。

文芸評論が、文芸という拘束を離れて、一種の哲学的な原理論へと転換したとき、そのときはじめて近代批評が確立したのであり、その逆ではないのではないだろうか。

小林秀雄が近代批評を確立したといわれるのは、小林秀雄が文芸評論を文芸という専門領域から解放したからであり、「考える」ということの具体的な実践の場所を確立したからであり、文芸評論が哲学的、原理的な思考の世界を獲得したからであろう。

原理的思考とは、根拠を最後まで追い求める思考のことであるが、言い換えてしまえば、前提条件や思考の枠組みを形成する仮定や前提を、暗黙のうちに容認するのではなく、それ自体も問い直す思考であろう。

小林秀雄は、いたるところで「学者」や「学問」を批判している。

小林秀雄は、学者を、学問の狭い固定概念に閉じ込められて本当は何も考えていない、として批判し、学問は方法論や概念のために押しつぶされて死んでいる、と批判しているようである。

小林は、学者や学問は、原理的にものを考えるという姿勢が出来ていないといい、そのような学者的、学問的思考の代表として、「科学主義的思考」を挙げ、それを批判し、否定しているのである。

しかし、私たちの多くは、どこかで「科学」を絶対視し、「科学」を学問や思想の方法や原理としており、「科学」の根拠を問うことよりも、「科学」的思考に近づき、その方法をいかにしてうまく利用するかに関心があるのかもしれない。

前に触れたが、小林秀雄は、科学的思考とはなにかを明らかにするため、その最も根本にある物理学を問うことによって、その本質を見極めようとしたようである。

小林秀雄の科学批判は、単に「科学」と「文学」、あるいは、「科学」と「人間」とを対比させて「科学」を批判したのではないことが、小林秀雄の『表現について』のなかの、

「科学の進歩は、決して停止しやしないが、科学の思想、科学的真理の解釈の仕方は変わってくる。
十九世紀に科学思想が非常な成功を勝ち得たというのも、科学が人間の正しい思考の典型であると考え、思想のシステムの完全な展開は、物事のシステムに一致するという信仰によったのであるが、そういう独断的な考えも、科学の進歩に伴い、十九世紀末には、科学者自身の間から否定されるようになりました」

ということばからもわかるのではないだろうか。

小林秀雄が問題にしたのは、科学の発展が、科学それ自体の根拠を否定するようなレベルでの科学であり、科学の基礎であり、科学主義的思考の起源であったといってよいだろう。

それは、マルクス主義、あるいはプロレタリア文学から芸術派に到るまでの、いわゆる昭和初期のあらゆる思想的流派と、小林秀雄が、まったく違った位相にいたことを示してはいないだろうか。

小林秀雄が、近代的思考の「基礎」であり「根拠」となっている物理学や数学に非常な関心を向けたことについては否定のしようがないことのように思われるのだが、このことから明らかになるのは、小林秀雄の原理性であり、ラディカルさであるように思う。

小林秀雄は、他の文芸評論家が問題にしなかった物理学や数学の基礎に向かっていった理由は、「原理的」に物事を考えるという小林秀雄本来の思考スタイルのためであろうが、それだけではなく、そこにはやはり、「科学的理論」として登場してきたマルクス主義という思想体系の影響があろう。

小林秀雄は、マルクス主義者やマルクス主義の研究者たちが、マルクス主義は科学的理論であるということに満足して、専らその解釈や応用にのみ関心を向けたのに対して、科学そのものの根拠を問い返した小林秀雄の原理的思考の徹底性は、驚くべきものであるように、私には、思われる。

例えば、本多秋五は、『小林秀雄論』のなかで、

「小林秀雄は、そのころの僕等の眼には変な奴としか映らなかった」
と述べたた上で、さらに、

僕等は学校の昼休みの時間に、「あいつは、批評とは他人の作品をダシに使って、自分を語る仕事だといっているよ。」とさも奇妙そうに噂しあい、『マルクスの悟達』にいたっては、表題を見ただけで失笑するのであった。
......マルクスの学説は、科学的理論として、客観的妥当性だけを論議されるものであった。
そこに「悟達」の問題などあるべきはずのものではないと考えられていた」
と述べている。

本多秋五の甚だしい誤読は、それなりに正しい部分も在るようにも、私には、思われる。

本多秋五が
「マルクスの学説は、科学理論として、客観的妥当性だけを論議されるものであった」
というのは間違ってはおらず、問題は、当時のマルクス主義者やマルクス研究者が考えた「科学的理論」とはいかなるものであったか、ではないだろうか。

現代でも、小林秀雄出現の意味は、明確になどなっておらず、小林秀雄は依然として「変な奴」のままであるように見える。

小林秀雄が「変な奴」であったのは小林秀雄の問題意識の位相の独自性のためだろう。

恨み節になってしまうが、私に言わせれば、小林秀雄が問題にしようとしたものが、私のような一般Peopleにはあまりに異様であり、不可解だからだよう、となってしまうのである。

私のように、小林秀雄の問題意識の位相がどこにあるかを考えずに、小林秀雄を読む人間には、小林秀雄が「変な奴」として見えてしまったとしても、それは、当然の報いかもしれない。

本多秋五は、正直に、当時は小林秀雄の批評の意味が理解できなかったと言っている。

その原因は、小林秀雄には、「いかに生くべきか」という問題がなかったからだと言っている。

小林秀雄に「いかに生くべき」という問題がなかったというのは、小林秀雄の批評が原理論であったということではないだろうか。

小林秀雄が問うたのは、思考とはなにか、認識とはなにか、科学とはなにか、ということであり、それは、極めて原理的な問題であったが、小林は、日常言語で、文学作品や作家を語ることによってその問題を追求したのではないだろうか。

もし、本多にとって「いかに生くべき」かが課題であったとすれば、小林秀雄にとっては、「いかに生きているか」あるいは、「なぜ生きるのか」が重大な関心事であったといってよいのかもしれない。

本多秋五が「当為」を問題にしていたのに対して、小林秀雄秀雄は「存在」を問題にしていたのではないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、また、数日間、不定期更新になりますが、また、よろしくお願いいたします😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

(追記)
日仏哲学会以降考えることが多いです😊
ありがとうございます😊