「商品」の分析からはじまるマルクスの『資本論』は、単に経済学の書ではあり得ず、経済学という入口から入ってゆくにもかかわらず、経済学を越えた、あるひとつの基礎的な問いを問うた書ではないだろうか。
マルクスは『資本論』のなかで、しばしば古典経済学的な実体論的な思考にとらわれもしている。
たとえば、剰余価値を論じるときに、マルクスは古典経済学的な労働時間説をとっており、また、ふたつの相異なる商品が等価であるためには、なにか「共通の本質」がなければならない、そして、それは、商品に対象化された人間的労働だ、と言っているようである。
これは、価値や意味を実体化した考え方であろう。
しかし、マルクスはここにとどまっているのではない。
柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』のなかで、
「彼は、等価の秘密を諸商品の『同一性』に還元する。
しかし、そのような同一性は貨幣によって出現するのだ。
貨幣形態こそ、価値形態をおおいかくす。
したがって、貨幣形態の起源を問うとき、マルクスは、もはや『等価』や『共通の本質』という考えを切りすてている。
それらこそ、価値形態の隠蔽においてあらわれるのだからである」
と述べている。
柄谷行人がいうように、マルクスの「資本論」は、カントール、あるいはゲーデルの「数学基礎論」、フロイトの「心理学批判」、ソシュールの「言語学批判」と通底する基礎論的な問いの書なのである。(→前回の『隠喩としての建築』の引用を参照のこと)
マルクスの『資本論』は、経済学の書というより、そのサブタイトルが示すように、あくまでも、「経済学批判」の書なのであろう。
柄谷行人が、『マルクスその可能性の中心』以後、絶えずマルクスを引用し、マルクスを問うのは、マルクスのなかに、原理論的な思考をみいだしているからであり、またマルクスのテクストが基礎論的な問いを内包しているからである。
柄谷は、マルクスを問うことによって、経済学や哲学の問題を問うているのではなく、あるひとつの基礎論的な問いを問うているのだといえるのではないだろうか。
しかし、柄谷行人にとって、必ずしもマルクスの価値形態の解釈ではなく、マルクスの文体に在る点が、いわゆるマルクス研究者やマルクス主義との決定的な違いである。
そして、柄谷行人のマルクス論が、小林秀雄のマルクス論に急接近するところが、ここである。
柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』のなかで、マルクスの文体について、
「マルクスの文体がいちじるしく変わるのは、『ドイツ・イデオロギー』以降である。
そして、思想家がかわるとは文体が変わるということにほかならない。
理論的内容が変わっても文体が変わらなければ、彼はすこしも変わっていない。
ヘーゲルから切れることは、さしあたりヘーゲル的ターミノロジーから切れることである」
と述べている。
文体は、理論や思想と切り離すことは出来ず、文体は文体で存在することは出来ず、理論や思想はそれだけで存在することはできないのである。
マルクス自身も、『ドイツ・イデオロギー』において、ドイツの古典哲学の文体を問題にする。
言い換えれば、マルクスは『ドイツ・イデオロギー』以降、ドイツの古典哲学の文体から離れる。
それは、ドイツ哲学、主にヘーゲル哲学から離れることでもある。
しかし、それは単に、理論的な内容のレベルにおいて達成できることではなく、そこには、何かもっと別の困難がある、と、マルクスも考えたようである。
そこで、マルクスは、ドイツ哲学の内容を問題にするのではなく、ドイツの哲学者たちを問題にしたのである。
マルクスが、哲学者という存在を問うのは、そこに哲学そのものの起源があるからである。
つまり、哲学は哲学者によってうみだされたのであり、哲学の起源は、哲学者という存在のなかにあるからである。
このことについて、柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』のなかで、
「しかし『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクスは、むしろ「真理への意志」そのものを解釈しようとしている。
彼が問題にするのは、哲学というよりも哲学者という存在だ。
なぜ哲学者が問題なのか。
「真理への意志」は、哲学者という存在(階級)と切りはなすことができないからである。
ニーチェが言ったように、ある言説で「何が語られているか」ではなく、「誰が語っているか」が問題なのだ。
いうまでもなく哲学者が語っている。
しかし、これまで「哲学者」という存在は誰も問題にしなかった。
真理や本質のなかに、哲学者は身をくらましてきたのである」
と述べている。
柄谷行人は、ニーチェに続いてマルクスも、哲学ではなく、哲学者を問題にしたと言っているが、これは、重要な指摘である。
マルクス研究者やマルクス主義者は、哲学者という問題を扱わずに、あくまでも真理を問題にしたのである。
それは、マルクス研究者やマルクス主義者が、マルクスの文体を問わなかったことであると言い換えることが出来る。
この点において、マルクス研究者やマルクス主義者は、マルクスをその理論体系の次元においてのみ了解し、あとは政治的な実践の問題にすり替えてしまったといっても過言ではないだろう。
古典物理学がそうであったように、「観測するもの」が、「観測されるもの」から切り離され、メタレベルに特権化されていたということであろう。
マルクスが「価値形態論」で明らかにしたのは、むしろそれと逆のことではないだろうか。
価値は交換に先立って実在するものでなく、交換という実践のなかで、事後的に発生するのが価値であり、古典経済学において自明と見做されている相異なる商品に内在する超越論的な価値は、貨幣形態によって与えられるものに過ぎず、貨幣は価値を代弁するのではなくて、貨幣が価値を新しく産み出すのであろう。
古典経済学が理想とする等価交換の実在的根拠は揺らいでおり、交換により価値の同一化は行われているようである。
また、貨幣による交換によって、相異なる商品の差異が消去され、価値=概念=意味として同一化され、その結果、人々は、交換は、同一の価値を有する商品と商品とが交換される、と錯覚するようになるようである。
マルクスが『資本論』の価値形態論で明らかにしようとしたのは、この錯覚であったのだが、この錯覚は、単に経済学の問題にとどまるものではない。
この問題は、言語学、物理学、数学、心理学といった、あらゆる学問領域に通底するもんだいである。
柄谷行人は、それを、
「基礎の不在」とか、「自己言及性のパラドックス」、あるいは「外部」といったことばで表現し、その根底に在る問題を明確化しようとしている。
しかし、それは、理論や思想として語れるものではなく、それが、理論や思想として流通したとき、問題の本質は見失われるであろう。
柄谷行人は、「マルクスが哲学ではなく、哲学者を問題にした」と言い、「マルクスの文体が『ドイツ・イデオロギー』を境にして変わった」と言う。
柄谷行人がこのような問題意識を持つのは、柄谷行人が小林秀雄のマルクス論の影響を受けているからではないだろうか。
小林秀雄は、マルクスの読解において、マルクスの価値形態論を徹底化しており、マルクスの理論を、単なる理論ではなく、理論それ自体、あるいはそれを支持する人、あるいはそれを研究する人をも巻き込む理論であると見做す。
小林秀雄は、『様々なる意匠』のなかで、
「商品は世界を支配するとマルクス主義は語る。
だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。
そして、この変貌は、人に商品は世を支配するという平凡な事実を忘れさせる」
と述べている。
小林秀雄は、マルクスの商品の魔力について語っている。
小林のマルクス主義批判は、「マルクスの理論を用いて」、なされたようである。
マルクス研究者やマルクス主義者は、マルクスの理論を、単に理論としてのみ理解し、その理論の裡に、自分自身の存在が含まれるということを忘れ、古典物理学がそうであったように、観測者が観測対象から独立した存在である、という前提を疑うことができなかったのではないだろうか。
マルクスの商品論も理論であり、理論と実践の弁証法的統一なることばも理論であった。
しかし、マルクス自身にとって、それは、単なる理論ではなかったようである。
小林秀雄のマルクス解釈が、現在でも十分に読むに値するのは、小林秀雄の思考の徹底性の結果であり、マルクスのテクストが、これに耐えるだけの深さと広がりを持っていたからではないだろうか。
マルクスもまた、小林秀雄がそうであったように、徹底して考える人であったのであろう。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。