小林秀雄は、『様々なる意匠』というデビュー作のなかで、マルクス主義から新感覚文学から大衆文学まで、あらゆる「意匠」を批判している。
それが「意匠」であるかぎり、実在と一致することはないし、もし、一致したならば、それはもはや意匠ではないだろう。
小林秀雄は、『様々なる意匠』のなかで、
「子供は母親から海は青いものだと教えられる。
この子供が品川の海を写生しようとして、眼前の海の色を見た時、それが青くもない赤くもないことを感じて、愕然として、色鉛筆を投げだしたとしたら、彼は天才だ。
然して嘗て世間にそんな怪物は生まれなかっただけである」
と、意匠批判の論拠を説明している。
小林秀雄の意匠、言語、概念の批判の徹底ぶりをここに見ることができるように、私は、思う。
しかし、小林秀雄の批評には、認識を徹底的に批判し、否定する側面と、逆に、認識を全面的に肯定し、容認する側面をあわせ持っていることに、注目したい。
そして、このどちらを欠いても、小林の批評は成立しないだろうと、私は、考えている。
小林が、認識を批判し、否定するときに依拠しているのは「概念の欺瞞性」という理論体系であろう。
「概念の欺瞞性」は、言い換えるならば、「認識の相対性」ということであり、小林の批判、否定の論拠は、概念や認識が、実在を正確に捉えきっていないという点にあるのではないだろうか。
無論、小林は、「概念と実在の一致」が真理であるという真理観を前提としており、この真理の公準に照らして、小林は、あらゆる認識や表現を批判し、否定ているようである。
つまり、「海は青い」という概念と、眼前の具体的な品川の「海の色」という実在が一致したならば、それは、真実である、が、一致することなどあり得ないため、「海は青い」という概念は、決して品川の「海の色」を表すことは出来ない。
もし、ことばにあらわしたならば、そのとき、ことばは、もはや「海の色」を表してはいないし、それは、何か、他のものに代置されただけであり、海そのものではありえないので、概念と実在の不一致はあきらかである、となるのである。
もし、概念と実在の一致が真理であるとすれば、結局のところ、だれもが「概念の欺瞞性」から逃れることは出来ないのである。
小林秀雄の批評は、批判・否定の真っただ中で、突然、肯定に転じる。
つまり、「概念の欺瞞性」という公理を捨て「宿命の理論」へと転換するのである。
そのとき、小林秀雄は、「概念と実在の一致」が真理であるという真理観、世界観をも捨て、もうひとつの、真理観、世界観へその思考軸を転換させているのである。
先に、小林秀雄の批評は、認識を徹底的に批判し、否定する側面と、逆に、認識を全面的に肯定し、容認する側面を合わせ持っている、ことについて触れたように、小林の評論には、様々なる意匠を、つまり概念や思想を批判・否定する面だけではなく、小林秀雄にいわせれば
「ある人の観念学は常にその人の全存在にかかっている。
その人の宿命にかかっている」
という「宿命の理論」という面も持っているのである。
「宿命の理論」とは、「概念と実在の一致」が真理であると考えるような認識論の崩壊のあとで、それに取って代わるべき認識論として出現したものである。
小林秀雄は『様々なる意匠』のなかで、「宿命の理論」について、
「中天にかかった満月は五寸に見える、理論はこの外観の虚偽を明かすが、五寸に見えるという現象自身は何等の錯誤も含んではいない。
人は目覚めて夢の愚を笑う、だが、夢は夢独特の映像をもって真実だ」
と表現している。
これは、認識の相対性を表しているのではないだろうか。
認識を厳密にしてゆくと、それ以前の認識は結果的に虚偽ということになる。
また、小林秀雄は、古典物理的な認識論を前提にする考え方から離れて、『感想』のなかで、
量子力学という、
「新しい物理学は、客観的自然の客観的記述という物理学の仮定を捨てた」
とすれば、
「五寸に見えるという現象自身は何等の錯誤も含んではいない」
ということばがいきてくるような表現をしている。
小林秀雄が、「概念の欺瞞性」に拠る批判から、「宿命の理論」による肯定的批評へと転じるときは、このような表現のなかにも現れているように思う。
小林秀雄は、この認識論の転換についつい、実は、すでに昭和7年の頃に、『アシルと亀の子』のなかで、
「全自然が一つの運動ならば、もはや、人間は自然の外側に立って、存在する真理を認識し、表現する者として現れはしない。
認識する主観も、認識される客観も対立して存在するものとして現れはしない。
思惟と存在の区別も、ただそんなたとえ話も可能であるというに過ぎぬ。
すべては運動の形態である」
と、説明している。
これは、小林秀雄の古典物理学への批判であり、また、近代哲学への批判であるといってよいだろう。
「主観と客観の二元論」、「思惟と存在の二元論」あるいは、自然の外側に立ち、存在する真理を認識し、表現するという形而上学、これらは、いずれも量子力学が相対化してしまった概念であろう。
しかも、これは、小林秀雄も言うように、ベルクソンがつねに批判し続けてきた概念である。
「すべては運動の形態である」という主張は、明らかにベルクソン哲学の主張と重なっており、小林秀雄は、『感想』の第54回目で、ベルクソン哲学と量子力学の一致を確認している。
小林秀雄は、『感想』のなかで、
「内省によって経験されている精神の持続と類似した一種の持続が、物質にも在るというベルクソンの考えは、発表当時は、理解し難い異様なものと思われたが、今日の物理学が到達した場所から、これを顧みるなら、大変興味ある考えになる」
と述べている。
小林秀雄にとってベルクソンの哲学と量子力学の知見とは、ほぼ同じ意味を持っていたようである。
小林の「宿命の理論」は、ベルクソン哲学と量子力学を前提にして読み直す必要があるのではないだろうか。
世界観ないしは存在感の転換という問題を理解せずして、小林秀雄の「宿命の理論」を理解することは出来ないように思う。
小林秀雄は、その批評の内部で「物」的世界観から、「場」的世界観への転換を行っており、前者に固執するひとたちをよそに、小林自身は、古典物理学の世界を踏み越えて、相対性理論や量子力学によって切り拓かれた、現代物理的な「場」の世界像のなかにいるようである。
小林が、昭和10年前後から戦後まで、一貫して「物理学」に関心を持ち続けた理由は、「物理学」の革命のドラマを追体験したからであり、小林の批評が独特の深さを持つことができた理由は、「物理学」という実証科学との緊張関係を持ち続けたからではないだろうか。
小林秀雄は、量子力学との一体感さえ、『人間の進歩について』のなかで、湯川秀樹と行った対談の際に述べており、小林にとって「量子物理学」が、小林自身の芸術論、批評論とほとんど同じものであったのではないだろうか。
小林秀雄が、
「五寸に見えるという現象自身は何等の錯誤も含んではいない」
というとき、量子物理学における観測の不確定性という問題が念頭に在ることは明らかであるように見える。
小林秀雄の「概念論」から「宿命論」への、言い換えれば、認識の相対性から認識の絶対性への転換は、小林秀雄の批評の基礎構造を形成しているのだろう。
小林秀雄の『様々なる意匠』における「人間喜劇」から「天才喜劇」への転換もまた、この問題を批評の位置と構えという側面から捉えると、また、小林秀雄の転換を、違う視点で、眺められるのかもしれない、とも思う。
こんなときは、また、ニールズ・ボーアの
「量子論にあっては、私たちは、俳優であるし、観客でもある」
ということばが、なんだか、思い起こされても、くるのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。
*見出し画像は、近所にあった面白い自販機です😊
いつからあったのかしら......😅
昨日、気づきました😊