小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、合計56回に及ぶ連載評論であるが、49回から物理学の問題が全面に出てくる。
もちろん、これはベルクソンの『物質と記憶』における物質論の延長上に出てきたものである。
科学や物理と深い関係を持つ哲学者であるベルクソンを論ずるとき、小林秀雄がそのなかで、物理学の問題に言及するのは、当然のことなのであろう。
しかし、小林のベルクソン論である『感想』の後半における小林秀雄の物理学に対する分析は、明らかにベルクソン論としての『感想』はみ出しているように思う。
さらに、物理学について言及した部分は8回分に過ぎないのだが、小林秀雄は、『感想』の49回目から、物理学の問題を論じて、物理学の解説が一通り終わったところで、『感想』を中断し、未完のまま打ち切ってしまっているのである。
小林秀雄のベルクソン論である『感想』の物理学を除く部分は、ベルクソン哲学の詳細な分析と解釈に終始しているにもかかわらず、物理学の部分は、言ってしまえば、ベルクソンから離れて、小林秀雄自身の理論物理学に対する詳細な解説と分析が行われているのである。
確かに、小林秀雄は、最終的には、ベルクソンの科学批判が、量子論の出現によって、現実化したという見解をとっているが、なぜ小林秀雄はベルクソン論である『感想』のなかで、ベルクソンから離れて、理論物理学の発展と革命を詳細に吟味、検討したのであろうか。
小林秀雄が、『感想』のなかで、物理学の問題に論を進めていったのは、ベルクソンという哲学者が、物理学の問題と深い関係にあったからであろう。
ベルクソンは、その哲学的思索において、絶えず「科学」を論じ、「科学」を分析し、解明してきた哲学者であったのではないだろうか。
ベルクソン哲学をひとことで言うとするならば、「科学批判」の哲学であったということができるかもしれない。
科学における思考は分析的・空間的思考であり、それに代わって、直観による存続の認識が哲学の思考であるとベルクソンは考えたのではないだろうか。
ベルクソンは、近代科学の成功によって、一般化した分析的・実証主義的な思考を批判した哲学者であり、科学に対して哲学の復権を主張した哲学者ではないだろうか。
言うまでもなく、ベルクソンは、科学の成功や成果を十分に認めた上で、批判したからこそ、徹底して科学を研究し、科学を自分のものにしようとしたのであろう。
その意味で言えば、ベルクソンよりも科学的な哲学者はいないのかもしれない。
ベルクソンには、『持続性と同時性』というアインシュタイン論があるが、『持続性と同時性』は、ベルクソンの哲学を語るときに、決して避けて通ることのできない問題として物理学の問題があることを示しているように思われる。
ベルクソンは、『持続と同時性』という長編の論文を、アインシュタインの批判を受けたことなど理由として、絶版にしてしまった。
小林秀雄が、『感想』を物理学の解説を最後に、未完のままに打ち切り、本にして出版することも、全集に入れることもしなかったということと、奇妙に一致を示しているようにも見える。
このことについて、小林秀雄は、ベルクソン論である『感想』のなかで、
「今世紀に入って始まった科学の急激な革命は、恐らくベルクソン自身にも驚くべきことであったのであり、そこからアインシュタインの『特殊相対性理論』に関するベルクソンの誤解、続いて、自著『持続と可能性』の絶版が起こったが、これについては、いずれ触れなければならない。
当面の問題は、彼の予想のある意味での的中なのだが、これは、『一般相対性理論』がもたらした純粋に幾何学化された世界像、世界の構造の、誰も予想しなかった計量的完成、ベルクソンの言う『ニュートン力学の前進が、遂に到達した、デカルトのメカニズムの完全な証明』を超えたところにあったからだ」
と述べている。
冒頭でも触れたように、小林秀雄のベルクソン論である『感想』のラスト8回は、ベルクソンから離れて、小林秀雄自身の理論物理学に対する詳細な解説と分析が行われているのだが、小林秀雄は、なぜ、理論物理学に興味を持ったのだろうか。
おそらく、アインシュタインの例に見られるような、理論物理学における「矛盾」をも恐れない過激な思考力の展開のためではないだろうか。
その学問の成立根拠を否定し、また解体することさえも恐れない「物理学」における革命的な情熱に対して、小林秀雄は感動していたのかもしれない。
一般的に、小林秀雄は、非合理主義者であり、また反科学的な思索家とすら思われていることを、私はよく残念に思う。
小林秀雄こそ、「厳密な意味において」科学的であったように思うからである。
しかし、ただ、小林秀雄は、「科学主義」的ではなかっただけなのであろう。
そのため、小林秀雄という批評家の誕生が、20世紀初頭の「物理学の革命」と深い密接な関係があると思う人は少ないと思われる。
それほどに「小林秀雄と理論物理学」という問題は、大岡昇平(→前回で触れています)を除いてほとんど問題にされてこなかったのである。
小林秀雄という存在の核心とは、小林秀雄という批評家の思想形式であろう。
したがって、その思想形式を決定したものは何であったのか、という問題を立ててみると、小林秀雄における「物理学の革命」の問題が浮かび上がってくる。
小林秀雄は、数学者である岡潔との対談『人間の建設』のなかで、執拗に理論物理学に言及している。
そして、岡潔が、
「さすがに小林さんは理論物理学も相当に御研究なさっている」
と言ったのに対して、
「とんでもないことです。
私は若いころにそういうことを考えたことがあるのです。
アインシュタインが日本に来たことがありますね。
あのころたいへん、はやったわけです。
このはやり方というものも実に不思議でして、そのとき一高におりましたが、土井さんという物理の先生が『絶対的世界観について』という試験問題を出したのです。
無茶ですよ、ぼくは何もわからないから白紙で出しましたが、それほどはやったわけです。
それから暫くたって、僕は感じたのです。
新式の唯物論哲学というのは寝言かもしれないが、科学の世界では、なんとも言いようのない物質理論上の変化が起こっているらしい。
そちらのほうは本物らしい、と感じて、それから少し勉強しようと思ったのです。
そのころ通俗解説書というものがむやみと出ましたでしょう」
と答えている。
この岡潔との対談は昭和40年になされているのだが、ここで着目したいのは、小林秀雄が一高の時代、つまり、大正11年にアインシュタインが来日したという事実である。
当時、小林秀雄は、21歳であったのだが、アインシュタインの来日が、小林秀雄をはじめ、当時の日本人にどのような影響を及ぼしたのかを、小林秀雄のことばはよく物語っているように思う。
金子務は『アインシュタイン・ショック』のなかで、
「第一次世界大戦によって戦火が『世界的』になったと思ったら、戦後は、相対性理論がたちまち「世界的」になった」
と述べている。
このように小林秀雄は、アインシュタイン・ブームに沸きかえる時代に、その青年期を過ごし、「アインシュタイン・ショック」を深刻に受け止めた者のひとりであった。
この時の「アインシュタイン・ショック」が小林の批評の本質の一部を形成し、小林が、後年、物理学に熱中する原因のひとつに、なったのではないだろうか。
真に創造的な科学者は、科学が普遍、妥当な絶対的に確実な土台の上に築かれた学問だとは思っていないだろう。
そう思うのは、科学主義的だけではないだろうか。
小林秀雄が絶えず批判したのは、科学主義であって、科学そのものでは、ない。
そして、科学は決して、科学主義では、ない。
本当に創造的な科学者は、科学主義というような、ある意味で便利な思考法に頼ってはおらず、直覚に頼っているといっても過言ではないだろう。
科学者の思考も、芸術家の思考もほとんど変わらないように私は、感じることがある。
また、芸術も科学も等価であり、どちらがより本質的であるというわけでもないことを、科学主義者には、よくわかってもらえないのかなあ、と感じることもまた、あるのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。