おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

DSM-5がバイブルになってしまうまで③-DSM-3からDSM-3Rまで-

2024-07-24 07:30:45 | 日記
DSM-3は、画期的な「多軸」システムを導入することで、内包する問題点をを埋め合わせようとした。

つまり、患者の判定に使われるのは、第1軸の精神医学上の症状のみではなく、第2軸のパーソナリティー障害、第3軸の内科疾患、第4軸の社会的ストレス要因、第5軸の全体的機能レベルも考慮する、というものである。

しかし、残念なことに、多軸システムは、ほぼ無視されてしまった。

悩んだスピッツァーは、一時、「百花斉放プロジェクト」を提案している。

これは、記述的診断に限らず、完全な評価に役立つすべての要因を取り上げようとするものであったのだが、実現することはなかった。

さらに、心理学的モデルや社会的モデルの提唱者は疎外感を感じるようになり、そして、DSM-3の発表以降、地位や影響力を失ったのである。

確かに、どの分野でも、改革は、決して容易くなく、終わりもないのかもしれない。

DSM-3は、表面的な類似性に基づいて患者をひとまとめにし、個々の違いを無視した。

これに対して、心理学志向の臨床医は、共感や独創的な直感を用いて、それぞれの患者の複雑な身の上、無意識の動機、そして社会的背景を理解しようとする方を好んだのである。

精神科医が診断で一致するためには、DSM-3の単純ともいえるアプローチは絶対不可欠ではあったが、DSM-3のアプローチでは、患者の最も興味深い点の大半を見落としてしまうようにも思われた。

スピッツァーは、「リンガ・フランカ(共通語)」を用意したのだが、それを使わなければならない人の大部分にとっては、歓迎の出来る提案ではなかった。

当時のことを、フランセス博士は、
「スピッツァーは、個々の患者という『詩』を、DSM-3という『散文』に変えつつあった」
と表現している。

(→ちなみに、フランセス博士は、DSM-3に対する強硬な懐疑論者であり、その後かなり経ってから転向されたが、完全に転向なさったわけではなかったそうである。)

DSM-3は必要ではあるが、売り込みすぎ、買われすぎたのかもしれない。

確かに、DSM-3は、科学に基づく精神医学の救世主とはなったものの、精神医学の分野の視界を狭め、有害な診断インフレの引き金を引いてしまったのである。

精神疾患の診断と治療を体系化したという点で、DSM-3は、不可欠だった。

しかし、盛んに宣伝されたDSM-3の信頼性は、あまりにも、「売り込みすぎ」であった。

なぜなら、理想的な研究環境のもとで得られるほどの診断の一致率は、予測不能な混乱に満ちた通常の臨床医療の現場では、決して、得られないからである。

また、DSM-3は、あまりにも、文字通り意味でも、比喩的な意味でもだが、「買われすぎ」であった。

毎年、数十万部が売れ続ける息の長いベストセラーとなったのだから。

ちなみに、売れた本の数は、精神医療従事者の数をはるかに超えている。

DSM-3は、精神医学の「バイブル」のようになりはじめていた。

診断は、総合評価の一部で在るべきなのに、総合評価を支配したり、
患者全体の理解をしばしばチェックリストの記入に落とし込んだり、
患者の人生の物語や症状の発生に影響する背景要因を見落としたりした。

これは、DSM-3に元から在った欠陥ではなく、DSM-3があまりにも大きな権威を与えられたために生じた欠陥である。

権威を与えたのは、臨床医、教師、学生、研究者、保険会社、学校、障害者福祉施設、裁判所であり、一般の人々であった。

DSM-3の診断はあまりにも速く、広く、信頼され、浸透しすぎたのかもしれない。

そのように急速に広まったDSM-3の最も悪い産物は、診断のインフレであろう。

DSMの書き方に全く責任がなかったわけではないが、DSMが濫用されたことに責任があるのである。

とりわけ、製薬企業の病気作りに影響された乱用には大きな責任があるだろう。

DSM-3は、細分派の分類学者にとっては、幸せな夢であり、併合派の分類学者にとっては悪夢であった。

そして、細分は、どうしても診断のインフレに繋がってしまう。

臨床医の診断を一致させやすくするために、DSM-3は診断自体を非常に細かく分け、そのため、ずっと多くの人々が診断されやすくなってしまったのである。

それに加え、DSM-3はあまりにも多くを詰め込みすぎていたのである。

軽い症状が出る新たな精神疾患を多数載せたが、それらは、「正常との境目」に位置し、あてはまる人が多かったのである。

DSM-3が、急速に臨床医と患者の大きな興味を引いたことも、診断の増加を促したのであろう。

DSM-3が発表された1980年当時の状況を考えれば、DSM-3は、感度と特異度のかなり適正なバランスを取っていた。

そして、その頃は、誰も、感度と特異度のシーソーが、特異度、つまり、過剰診断の側に大きく傾くとは思っていなかったのである。

DSM-3が蒔いた診断のインフレの種子は、製薬企業のマーケティングから養分を与えられ、やがて巨大な豆の木へと成長していくのである。

DSM-3の発表から、わずか7年後の1987年、DSM-3Rが、発表された。

DSM-3Rは、DSM-3の発表以降に指摘された誤りや抜けを修正して次までのつなぎとするだけの小さな改訂になるはずだった。

スピッツァーが再び指揮を執った。

しかし、DSM-3Rは誤りであり、混乱のもとであったといっても過言ではないだろう。

DSM-3の目標のひとつは、精神疾患を客観的に定義して、一種のリンネ式の分類、または元素の周期表のようなものを編み出し、それにより、臨床研究や基礎科学研究を促進することにあった。

自己修正を反復するシステムになるよう意図されていたのである。

どうしても作り物になりがちなDSM-3の基準から出発しながらも、研究に基づいて基準を確認したり、変更したりするつもりだったのである。

しかし、診断システムが、気まぐれな意見に基づいていて、むやみに動き続ける研究ターゲットしか提供しなかった場合、この循環は、決して巡ることはないのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

中途半端?なところで終わりましたが、次回以降に続きます( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。


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