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先祖を探して

Vol.271 シニグ祭(7) 与人の島廻い

皆川での擬戦が終わると、次は与人達が島廻りをしたようです。
島廻りの同行者は、目指3人、時の百1人、本掟3人、城サバクイ1人、大アンシャリ(地方ノロの統括者)1人とお供1人で、白装束で馬に乗り島廻りをしたようです。
以下の地図では島廻りのルートを見てみましたが、あくまで現在の地図で現在の道路でのルートです。地点から地点へのルートもいくつかありますので、どこを通ったのかは分かりませんので、あくまでイメージです。

1日目:余多村を経て屋者まで行き帰宅。




2日目:久志検、上平川、芦清良、黒貫、瀬利覚を経て屋子母に1泊。




3日目:屋子母、大津勘、徳時、島尻、田皆を経て西見(現在の新城あたり)に1泊。




4日目:田舎平、永嶺等を経過して内城に行き全島を一周を終了。




島廻りのルートを地図上で追って見ると、世之主の居城であった内城から島の南部(現在の知名町)の中央にある大山の周りをぐるっと廻ったようですね。なぜ北部には行かなかったのかは分かりませ。北部には山がなく、神様は山手に多く祀られているようなので、それも関係していたかもしれません。
いずれにしても道が今のように整備されていない時代に馬で廻るのは時間も労力も大変だったでしょう。
このシニグ祭の際に実際に通った道は「シニグ道」と呼ばれ、現在でも数か所でその場所を確認できるそうです。その道が確認出来たら、まとめてシェアしたいと思います。

ぐるっと島を廻ったあとは、内城の世之主の墓で参詣し、3年前のシニグ祭の時に世之主の霊前に供奉したお酒一升を新しいものに取り換えて新たに供奉し、次のシニグ祭まで備え置く。
その際に、瓶の口に紙で蓋をしていたお酒や水に、埃がある時と無い時があり、埃がある年は必ず大風が吹き、無い時は大風は無く豊年の兆しだとの風説があったようです。
解散の時には、島廻りをした人々が、内城の「トムい堤(ちぢ)」という所で相撲をとって一同解散したということです。トムい堤とはどこになるのでしょうか、調べてみようと思います。


まるで大名行列のような島廻りの様子は、島中の人たちへ与人の顔見せや権力の誇示という意味合いもあったのかもしれません。
この参列者について1つ気になることがあります。島廻りに参加していた「城サバクイ」、これはいったいどんな役職であったのでしょうか。
様々な資料を見ても、琉球時代・薩摩時代共に島でそのような役職は見当たりませんでした。島言葉でしょうか。
これはシニグ祭の時にだけ出現する疑似的な役職なのか?

この「サバクイ」の語ですが、1539年以降の尚清王の時代に登場した捌理(さばくり)と呼ばれていた琉球での役職がありますが、この語に似ているなと。
捌理とは資料によると奄美地方を統括する役割だったようで、初代は1539年に任命された毛姓上里家の4世である盛實という人物です。毛姓といえばあの護佐丸の家系で、上里家は本家3世の時に3男が分家した家です。

捌理は通常は琉球王府内に在勤し、現地には部下役人を派遣して統括にあたらせていたと考えられているそうです。では現地に派遣された部下役人も捌理と呼ばれていたのかは不明です。もし城サバクイと捌理が同義であれば、そこには情報の薄い島の琉球時代の歴史にまた新しい謎ができて面白いなと思います。

もう少しシニグ祭が続きます。


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