明治3年まで3年ごとに開催されていたという、「シニグ祭」と呼ばれた島中をあげての大イベントですが、祭りの期間は20日間もあったようです。その祭りの手順などが和泊町誌民族編に書かれていましたので抜粋してみます。
世之主の墓(ウファ)での神事については既に別記していますので、こちらでは祭りそのものについてです。
事前準備
1.御使(みーつけ)
祭りを開催する前に、全島に案内をしてまわることのようです。
案内役は百、のろ久米、道差司(みちさじ)という役目をしていた人達だったようです。
百(ひゃー)については、全島に上納をとる役目の家があり、それを束ねる首長が余田の百・屋子母の百・西見の百と3名いたようです。そしてその配下に各村ごとに1~2名の百がいたようです。
のろ久米とはいわゆるノロのことです。ノロは各村にいたようで、それを束ねていたのが大あむしられと呼ばれた地方ノロのトップだったようです。
道差司とは役人であり、具体的な仕事内容は分かりませんでしたが、俸給の代わりに永久的に地所を領していたようです。
そして首長の1人である余田の百が上言(ういごと)をいうところから始まるようです。その上言は以下のようです。
アマタ、ヤアジヤー、ハアビヨー、シンビヨー、アシチウラ、クヌギ、ハタユタイノ、ワシタビガ、ヒュウカラ、トウカミカノキノトノ、トイノヒニ、シニグンガナシノ、ガラミチ、チヤブングト、ウンチケシヤブラ、トウト
まるでお呪いのようで、全く意味が分かりませんね。訳するとこのようになるようです。
余田、屋者村、上平川村、下平川村、芦清良村、黒貫の、24人の、私共が、今日から、13日目の乙の、西の日に、シニグという尊い御祭が御始まりでございますから、御招き(御案内)致します。どうぞ拝みます。
やっと分かりました。この上言を唱えて、全員で合唱します。
この時の百の馬への装飾は、立派な馬具鞍、くつわ、鈴、染分の手縄を掛け、本人は真白の着物に白の神スゴキを頭に巻き結び垂れ、黒白の染分手拭を両側に挿していたようです。
2.尻縄試(しじやたみ)
シニグ3日前に馬具のチェックや乗馬に慣れているかの試験があり、練習を行ったようです。
通常は薩摩の代官がいる側の仮屋の馬場からはの乗馬は禁止されていたようですが、この時は許可されており、多くの馬が頭を並べて立っていたようです。そしてこれらの馬たちは騒ぐこともなく神馬とも呼ばれていたような。
ここまではシニグ祭を行うにあたっての事前準備として書かれいる内容を抜粋・要約してみました。
町誌の文面は非常に古語的な表現が多く、理解が難しいところが多々ですので、正しく認識できていないところもあるかもしれませんが、大筋ではあっていると思います。
次回はいよいよシニグ祭の当日の様子です。