前回までシニグ祭の一連の流れを紹介してきましたが、もう1つシニグ祭の中で行われていた「初シニグ祭」という大きなイベントがありました。
初(うい)シニグとは、男子が本年9月10月のシニグ祭後又はその当日に生まれ、翌々年のシニグ祭までに生まれたるという。
町誌にはこのように書いてありますが、シニグ祭が行われていた月がはっきり分からなかったのですが、この文面からみると9月か10月ということでしょうか。それ以降に生まれた男子は、次のシニグ祭の対象となるということでしょう。
この初シニグは、その昔は衆多(シュータ)と呼ばれた士族の子弟のための祭だったようで、百姓の子は富豪の子弟であっても許されなかったようです。
しかし対象となった士族の中にも貧富の差はあり、身分は高いけど同等とはいかなかったようで、使用する旗の大小や装飾品にも違いがあったようです。
そしてこの初シニグ祭に参加するための費用はかなりのものだったようです。
馬を準備し、子供を抱く人1名、馬の口引別当1名、旗持3人のみならず、家族や親族も総出で一人も家に残ることなく参加したようです。
当家の場合、当時にどの位の一族がいたかは分かりませんが、昭和の始め頃のお爺様の記録では島在住の一族は分かる範囲で300名は超えています。江戸期の終わり頃でもそれに近い人数がいたのではいでしょうか。
他の古くからいる士族の家も同様であったと思われます。
そしてシニグへの行列の参加だけではありません。「陣担荷:じんたんぐ」という水くみ用の頭に乗せる大きな桶よりも更に大きな桶を2つ用意し、にぎり飯や野菜の料理をこしらえてその中に入れて担ぎ、大きな家は豚を1匹、または2・3戸共同にて豚を殺し料理にしたそうです。まるで正月さながらのようで、その1週間は祭のもてなしを行い、その経費は実に多額であったといいます。
この初シニグ祭も明治3年を最後として終わりました。もし現代までこの祭りが残っていたとしても、士族などは今はもう関係ないので、きっと現代版としてその内容は変わっていたとは思いますが、金銭的負担がかなり大きかったようなので、いつかは廃止になっていたかもしれませんね。
いつの頃から始まった祭であったのかは定かではありませんが、沖縄北部から入ってきたといわれるシニグ祭。明治3年頃の祭りは現在の沖縄の伝統的なシニグ祭の内容とは大きく違っていたのが気になりますが、各字で行われていた小さなシニグ祭は沖縄と同じような内容だったそうです。
そう考えると、やはりルーツは北山時代の文化圏から入っており、時代を経てその内容が変わっていき、薩摩侵攻以降に大きく変わっていったと見て取れます。
3勢に分かれて行った擬合戦の意味は知りたいところですね。そこが分かれば、シニグの謎、島の歴史の謎が1つ解明できそうな気がします。どこかに記録があれば良いのですが。