シニグ祭は沖縄本島の北部に今でも残る祭りであるため、島での由来は北山王の二男であった世之主の時代かそれ以前からあったものではないかとの見方があるようですが、少し気になることがあります。
以前にも記事として書いたことがある、1711(宝永8)年に当時の与人4名が連名で薩摩に提出した書類に、シニグ祭についても書かれていました。
前文省略・・・成人の後沖永良部島成下され御渡海の上、内城へ御城御普請之あり世之主と称へ奉り御付人外役々の儀琉球に準へ召し建てられ、夫々官位に応じ金銀の髪差、朝衣大帯等差用仕申されたる由之あり、依て御在世の時三年に一度島中御巡視之あり村役々の者共、白黒赤の鉢巻、木綿白地の胴衣袴着にて中途御迎罷出候由、今にしにぐ祭と申伝その例えあり申候云々とあり。
前文の部分には、今に残る世之主伝説して世之主がノロと琉球王との間に生まれた経緯が書かれています。琉球王と書かれており、北山王とは書かれていません。そして続きとして世之主が成人して沖永良部島に成下(任命)され渡海してきたと書かれています。更に、その時に付人を連れてやってきたようですが、その時に官位に応じて金銀の髪差し、朝衣大帯を着用していたということです。
官位や官位に応じて簪の色などが制定されたのは、第二尚氏の三代目尚真王が中央集権体制の確立をした時だといわれています。在位期間は1477-1527年ですから、ここに書かれている世之主が付人を連れて島にやってきたのは1477年以降と見れます。尚真王は幼少にして王位に着いていますし、妹の月清を聞得大君に就任し神女を組織化していますので、中央集権体制の確立を行ったのは成人して以降のことと考えれば、1500年前後頃になるのではないでしょうか。島に付人を連れた世之主が渡海してきたのも、この頃なのかもしれません。
また与人達の文面には、その世之主が在世の時は、三年に一度のシニグ祭りが行われたとあるので、北山地方にゆかりのある世之主であったからこそのシニグ祭だったのかもしれません。
文面の流れから、ここでいう世之主は北山王時代の世之主ではなく、その後の時代にやってきた世之主であり、その人が在位中にシニグ祭をやっていたととれるのですよね。シニグ祭りはこの世之主の時に始まったのか?
尚真王の時代は、中央集権体制の確立がなされノロ制度も組織化され、祭政一致体制が確立されました。そして奄美群島の服属も強化され、親族の者たちが島々に派遣されたともいいます。そう考えると、ここに書かれている世之主はやはり尚真王の時代の人ではないのか?尚且つ、北山地方にゆかりのある、島のノロとの子供。 北山地方で育ったのか?色々と謎が残ります。
シニグ祭の話から世之主についてまで広がってしまいましたが、この不思議な世之主については改めてまた考察してみたいと思います。