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先祖を探して

Vol.263 玉城が何か関係しているのか?(2) 今帰仁の玉城

沖永良部島の世之主が最初に館を構えた玉城について気になっていた理由がもう1つあります。
これも当家の先祖である平安統が書いた世之主由緒書の附録の末尾にある文面です。

一、北山の古城今帰仁の城下玉城と申候由。右御二男(北山王の二男であった永良部世之主のこと)御渡海の上御館を御構へ被為成ニ付、当島玉城と玉城(稲戸部落)    

この文面は世之主の父親が居城していた今帰仁城の城下町であった玉城と、島の玉城の関係について何か書かれていたと思うのですが、なんと文面が途中で終わっているのです。書こうとして書いていないのか?書いてあったけと紛失したのか?
理由はわからないのですが、北山王の時代の城下町であった玉城と世之主が最初に館を構えた島の玉城との関係について何か伝えようとしていたと思うのです。ここの続きがあれば、もっと詳しく繋がりが見えただろうに、、、
平安統は子孫にあえて謎解きを残したのか!?

謎解きをすべく、今帰仁の城下であった玉城について場所を調べてみました。
この2枚の地図をご覧ください。

沖永良部の世之主が居城した古城地と玉城の位置関係。


北を上にした地図ですが、左の枠内が城跡です。城は西から東に低くなる傾斜のある地形で、東側の延長線上に玉城の集落があります。

次は今帰仁城と玉城の位置関係です。

こちらも北を上にした地図です。今帰仁城も少しずれてはいますが城は西から東に低くなる傾斜の地形で、東の先に玉城があります。
沖永良部ほど真東ではありませんが、間に山を挟みその東向きの延長線上に玉城があるのです。(距離については、今帰仁城と玉城の方が遠く離れております。)

これはたまたまの地形と位置関係ではないような気がしています。
城と玉城の位置関係を示すこの2つの地図を見ただけで、やはり北山時代の今帰仁と沖永良部島は深い関わりがあったのだということか感じられました。
琉球の古い時代を謡ったおもろそうしには、世之主の城を築くために、長老たちが一緒に島に行ったようなことが謡われています。島では後蘭孫八が城を築城したと伝承されているので、今帰仁からやってきた長老たちと孫八が一緒になって親元である今帰仁城をモチーフに築城し、集落を形成していったのかもしれません。

北山の時代に、城と玉城地区の間の集落がどのようになっていたのかは分かりませんが、平安統は玉城が今帰仁の城下と書いていますから、今の地図で見えるように城下町として集落があったのでしょう。
沖永良部島は、現在は地図で分かるように玉城には集落がありますが、古城地と玉城の間には昭和の始め頃までは今よりは集落がありました。


そして平安統が書いた御渡海の上御館を御構へ被為成ニ付、当島玉城と玉城(稲戸部落)の部分ですが、最後の文の「島の玉城と玉城(稲戸部落)」というところは続きがないので意味が分からないのですが、玉城という集落は昔はニャートと呼ばれ、漢字では稲戸と書いたそうです。どうも米が沢山取れた場所だったのでそんな地名だったとかいう話も聞きましたが、そこは定かではありません。
そしてその稲戸がいつのまにか漢字は玉城となり、でも読み方はニャートのままなのだそうです。玉城と書いてニャートなんて地元の方しか読めませんよね。
玉城と表記が確認できるのは江戸時代です。薩摩が島を侵攻して以降ですので、それ以前の琉球時代から漢字表記が玉城であったかは不明です。
ものすごく想像の世界なのですが、平安統が書きたかった、もしくは書いていたのは、この玉城と書く集落は昔は稲戸(ニャート)であったが、今は玉城と書き、その理由は世之主が最初に住んだ場所で、今帰仁から渡海する前は今帰仁の玉城にいたから同じ漢字にしたとかそんなことだったのかな???
あくまで想像なので、真意は不明です。。。

次回はその今帰仁の玉城について書きます。

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コメント一覧

yononushi
@nerotch9055 ありがとうございます!
色々と思いを巡らせ勝手な考察ですが、私自身も楽しみながら書いております(笑)
nerotch9055
こんばんは!
この説は、おもしろい!
私もそのように思えますよ!
(*⌒▽⌒*)
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