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先祖を探して

Vol.264 玉城が何か関係しているのか?(3) 西と東の関係

沖永良部島の世之主城と北山の今帰仁城が、どちらも城と玉城の位置関係が西と東であることから、国を治める権力者(西)とそれを守護する神(東)の関係があるのではないかと思えてきました。
沖永良部島の場合は、前回の記事で書きましたが西にある世之主城と東にある神高い場所であった玉城、その関係が成立すると思います。では今帰仁についてはどうなのか調べてみました。
あまり詳しい情報がなく詳細は分からなかったのですが、今帰仁村のHPに玉城のことが以下のように書かれています。

岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である。その名残は三つの神アサギに見ることができる。三つの村が合併するが、もともとノロ管轄が異なるため、合併後100年になるが祭祀は一体化していない。玉城の山手にスムチナ御嶽があり、そこは玉城ノロ管轄の玉城・謝名・平敷・仲宗根の四カ字の御嶽である。

100年程前に3つの村が合併して玉城となったようですが、今でも旧の3つの村には御嶽がそれぞれにあるようです。そして玉城のスムチナ御嶽は、4つの御嶽を管轄する中心となる御嶽のようです。それぞれの御嶽ができた時期は定かではありません。そして玉城の場所にそれが出来たのが立地的な要素であったのか、特別に有能なノロがいたためなのか、その他に何か理由があったのかについても分かりませんが、4つの御嶽を束ねる特別な御嶽があったということです。
この今帰仁の玉城については、もう少し詳しく知りたいと思っていますので、また何か分かれば追記したいと思います。


少し気になったので、三山を統一した琉球王の居城となっていた首里城を確認してみました。


こちらも北が上の地図ですが、首里城一帯が西から東に向けて低くなる傾斜の地形で、そのすぐ東側にノロの頂点に立つ王府の聞得大君の御殿がありました。単なる偶然なのか西と東の関係がここでも見えました。

そういえば、お爺様が書いていた記録の中に、島のチュラドゥールのお墓の大和式の墓石の位置について書かれていた内容を思い出しました。要約すると以下の内容です。

現世では東側に位の高いものが位置するが、あの世(ここでは神の世界の事かも)では鏡のように反転して、西と東が逆になる。よって、当家の墓石が中央入口の西側に配置されているのは、その意味があってのことだ。

当時の思想が本当にそうだったのかは分かりませんが、お爺様が書いているように、「城と玉城=支配者の王と神に仕えるノロ」との西と東の関係があの世にまで続いているのかと思うと、大変興味深い世界だなと感じております。
色々な視点で歴史や物事を見ていくことは面白いですね。
ただし、この考察や解釈については研究者のかたの正式な見解とかではなく、あくまで一部の情報から見た個人としての興味深い解釈ですので、ご参考程度に。


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