少し前に、ある方から徳之島にいたという尚寧王の娘についての伝承が書かれた資料を頂きました。
以下がその資料なのですが、もともとは娘について書かれた話ではなく、徳之島にサツマイモが伝わった時の話に、尚寧王の娘のことが登場しているのです。
話のメインはあくまでサツマイモが伝わったエピソードのようですが、私にとってはそこに登場する尚寧王の話が重要なのです。
この伝承によると、島津藩が琉球を侵攻して尚寧王が捕虜となり薩摩に連行された時に、お妃も同行したというのです。しかもお妃はお産前の身体であったというのですから驚きです。
徳之島沖を船が通るころに船内でお妃は出産し、ウマレガネと名付けた子供だけを面縄港の丘の上にあった唐増という家に預けたというのです。ウマレガネという名は、少々大胆な名前のような気がしますが、、、
産後のお妃は休息ために徳之島には残るように王に勧められたが、聞かずにそのまま尚寧王と一緒に鹿児島に向かったようです。そして2年程経過し、鹿児島からやっと琉球に帰る際に徳之島に立ち寄り、我が身も今後どうなるか分からないし、娘は預けた家でりっぱに養育されていたので、そのままその家で育つ方が幸せだと判断し娘の養育をお願いし琉球に帰ったとのことです。
この伝承が事実であったとするならば、1つ問題があります。琉球の方の伝承では、お妃は尚寧王の帰りをずっと待っていたといいます。お妃が王の帰りを待っている間にご自身の心情を謡った歌があります。
「北風が吹けば、きっと王様が帰ってくると待ち望んでいる」
このような歌があるということは、鹿児島に一緒に同行したのはお妃ではないということですね。
同行したと考えられるのは夫人達ですが、夫人1は1604年に他界していますので違います。夫人2はこの時にはご存命でしたが48歳です。はたして48歳で出産したのか?
お妃が出産後に鹿児島まで同行する予定だったが、産後の身体が負担で途中でやはり引き返した可能性もありますね。
尚寧王が捕虜となって鹿児島に向かったときに、総勢200名程が同行したといいます。王の身のまわりの世話をする女性もいたでしょう。そうなれば夫人2が同行していた可能性はありますね。同行人の名簿などが残っていないのか探してみたいと思います。
そしてこの尚寧王の徳之島の娘、一瞬は沖永良部島にいた思鎌戸の妻であった可能性を考えましたが、年齢がまず合わないですね。薩摩が侵攻してきた時に、既に那覇の国司の婿であったわけですから、ウマレガネはその後に生まれていますから。そうなれば、妻は王の他の娘であったということになります。
以前に書いた徳之島に二人の娘がいた説のどちらかの娘だった可能性があるということです。
この二人の娘については、詳しいことはまだ分かりません。
ただ、なぜ徳之島にこうして尚寧王の娘説があるのか少し不思議に感じます。
徳之島と尚寧王の何か繋がりがあったのでしょうかね。
真相は分かりませんが、尚寧王は突然25歳で王になった人です。
もしかしたら、王になる前は徳之島にいたとか、徳之島を管理しており度々訪れていて現地で娘ができたとか、色々と考えられますが、それもただの妄想です。何かそれらしい伝承などが見つかれば真実味が増してきますが、今のところは不明です。
娘のことが詳しく分かれば、当家のご先祖様のことにも繋がっていくだろうにと期待しています。まだまだ徳之島の尚寧王の娘説からは目が離せないです。