沖永良部島が北山領土だった時代、北山にある今帰仁城の城主は樊安知。そして沖永良部島は真松千代という名の世之主と呼ばれた城主が、島のほぼ中央に位置する山上にあった城に居城していました。時は1300年代後半頃から1416年頃です。
この世之主が島主として最初に館を構えたのが城の東側にある玉城という村の金の塔(ふばどう・ふばどー・こばのとう)と呼ばれた場所で、現在は居住跡として案内板と石碑が建てられています。
島主となってどのくらい経過した頃かは分かりませんが、当家の平安統が1850年に書いた世之主かなし由緒書には、与和の浜の海で大城村川内の百(ほーちのひゃー)というものと釣りをしている時に、そのひゃーの提案によって家臣であった築城の名手の後蘭孫八に命じて城を3年がかりで築城したということです。
そもそもなぜ初めに玉城のこの地に館を構えたのかがずっと気になっていたのですが、この説明文にあるように神祭などと関係したからだと知り、詳しく調べてみました。
琉球は古くからおなり神が信仰されていたようですが、Wikipediaによると以下のような説明がされています。
おなり神(おなりがみ)またはをなり神(をなりがみ)とは、妹(をなり/おなり/うない)が兄(えけり/えーり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する沖縄地方の信仰である。かつて琉球王国の版図であった奄美から先島まで広く見られるが、唯一宮古島では、おなり神信仰は希薄となっている。
柳田國男は、女性の霊的な力によって、妹が兄を守ったり、姉が弟を守ったりする精神的な力による支配を「妹の力」と述べ、これをおなり神信仰に当てはめた。1927年、伊波普猷は柳田の指摘を発展させ、琉球のおなり神信仰が姉妹と兄弟の家族関係だけでなく、王とその姉妹である「聞得大君」によって支えられたと指摘した。
この俗世を支配する男性(国王)を、神に仕える女性(ノロ)が男と社会を霊的に守護するという観念に転化され、政治を男が行い、その男を守護する女が神事を司り、神託を得て霊的に指導するという祭政一致の体制が、琉球国王球時代の尚真王の時代に組織化されたそうです。
この尚真王の時代に就任した初代聞得大君は妹である音智殿茂金(うとぅちとぅぬむぃがに)(神名、月清)といわれており、その後は王女・王母がその職につき、1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)に至るまで15代続いたのだそうです。
このように組織化されたのはこの尚真王の時代ですが、最古の系図と言われる長濱系図に北山王 仲昔中山英祖王の御長女 聞得大君が聞得大君の名を伝える最初の記述となっているそうです。
そのような古い北山の時代から既に支配者と神事を行う者の関係ができていたのであれば、北山の時代に生きた世之主がこの玉城の神高い地に最初に館を構えた理由は納得できますね。
世之主が居城した城と玉城の関係が少し見えてきた気がします。
玉城の関係は次回に続きます。