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先祖を探して

Vol.375 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ⑤交易商人がいたのか

琉球の中山国の王であった察度が1377年に明国との冊封体制の中で硫黄を献上したのが記録上での硫黄献上の始まりのようですが、その後に北山及び南山も明に使節を送り、中山・南山・北山の王として冊封されて硫黄を献上しています。
ここで以前から私が不思議に思っていたことがあるのです。

この献上していた硫黄はいったい誰のものであったのか。硫黄はもちろん硫黄鳥島からのものであるとして、その硫黄鳥島の権利は誰にあったのかということです。
最初に硫黄を献上したのが中山王であったので、硫黄鳥島は中山の物であったのか。しかし島との距離を考えると北山が近いし、でも南山王も献上している。
では仮に中山王の所有だったとして、北山や南山は中山王から硫黄を購入して献上していたのか?

この時代までは琉球も戦国時代で、三山はあまり仲良しの国同士ではなかったようですし、明国が欲しがっている硫黄は中山王の所有であったなら献上品として独り占めできたはず。北山や南山と差をつけるためにも、貴重な硫黄だったのではないかと思うのですね。
独り占めするよりは、北山や南山に売りつけた方が儲かったのかもしれませんが、そういった売買の記録なども存在していないようですので詳細は不明ですが、いろいろ考察していく中で亜蘭匏の存在が浮上してきました。

亜蘭匏は歴史上では琉球の久米村居住の中国人といわれていますが、琉球で初めて王相(国相)となった人物です。彼は中山の察度王の使者として1382年に進貢副使として渡唐して以来10回も明へ渡り、1394年には中国の皇帝より正五品の位と「王相」に任命されました。初期の対明外交を支えた人物であったわけです。
しかしこの亜蘭匏については出身地や家族などの詳しいプロフィールは分かっておりません。
石井先生がおっしゃるように、亜蘭匏が沖永良部の人物であったとしたら、彼は沖永良部では権力を持った主要な人物ではなかったと思われます。

ではいったい誰が亜蘭匏だったのか?
この時代の沖永良部島の伝承にある人物は島主であった世之主(真松千代)、四天王と呼ばれた優秀な家臣4人で築城の名手や倭寇ともいわれた後蘭孫八、学者の屋者真三郎、豪族の西目国内丘衛佐、力自慢の国頭弥太郎です。
実際に四天王の4人が同時期に存在していたのかは不明ですが、おもろそうしなどから、世之主と孫八は同時期に存在していた人物と見えます。
正確な記録もなく口碑伝承からの推測ですが、永良部世之主はまず北山王(おそらく眠王)の次男であったので、自分の親元の北山を差し置いて中山のお手伝いはしないと思われます。そしてこれも憶測ですが、亜蘭匏が中山の察度王の使者として1382年に初めて渡唐していますが、この時にはまだ真松千代は沖永良部島の世之主ではなかったと思われます。

そうなれば、後蘭孫八が亜蘭匏の可能性が高いのです。孫八は世之主が沖永良部にやってきたときには既に島にいた人物で、倭寇であったといいます。彼が亜蘭匏本人で、硫黄をすでに交易品として扱っていた。硫黄鳥島は彼が所有していたと考えられます。
孫八は北山王と直接は血縁関係がない人物ですので、交易商人として活動していて、中山の察度王や北山、南山の王へ硫黄を商人として販売することができたのかもしれません。
しかし北山は世之主がやってくる前から存在していた国で、沖永良部島は北山王の領土ではあったわけです。
孫八が自由に交易ができていたということは、北山王による島の統治以前から島で権力を握っていた人物であったのかもしれません。

孫八が亜蘭匏で彼は交易商人として活動し海の航海に長けており、硫黄の扱いにも慣れていた。そんなこともあり、中山王に認め頼られ冊封使として10回も海を渡ったのかもしれません。
亜蘭匏は1398年の渡唐以降の記録は途絶えているようです。孫八についても、島にやってきた世之主のために築城をしたこと、船で交易をしたことなどがおもろで謡われていますが、それは1400年以降のものではない可能性があります。

数少ない記録や研究家の先生方の見解などから、1つの仮説として孫八が亜蘭匏説を考察してみました。
永良部にいた孫八が硫黄の保管庫として、伊座敷泊の海岸の崖の穴を利用していたことも考えられます。

この崖穴は他にも様々な説や伝承があるようですので、それは別で書きたいと思います。
この付近には大和城と呼ばれた城跡や源為朝が上陸した地など、古い時代の伝承の地があります。
義本王は為朝の子孫ともいわれていますので、それが事実とすれば為朝とゆかりのあるこの地に義本王のお墓が作られたことになります。

沖永良部島には硫黄採掘の権利を持った者がいたとした場合、もう1つ気になることがあります。
それは1306年4月14日千竃時家(海上交通を掌握したとされる)の次男である経家が永良部を相続(長男と三男はいくつかの島を相続だが、次男は永良部だけ)しています。
千竈氏は桓武平氏高望流秩父氏の末裔であり、尾張国千竈郷を本拠地としていたようですが、源頼朝の上洛に従った後陣の随兵の十七番の一人に「近間太郎」の記載が見られ、その読み方から「千竈太郎」であると考えられており、源氏派だったようです。
そして千竃氏は薩摩国川辺郡に活動の舞台を移していったものと推測されているようです。

1306年にいきなり本土の千竃家が沖永良部島を相続だなんて驚きですが、道の島と呼ばれる奄美大島や徳之島なども他の兄弟姉妹が相続しています。
この頃はこの千竃氏の権力が島々に及んでいたのだと思いますが、源氏繋がりもある千竃氏ですから、島の為朝伝説や義本王伝説もまんざら伝説ではない気がします。
そしてこの時代には既に硫黄は採掘されていたのではと思います。となれば大和に繋がりがある者が硫黄鳥島の権利を持ち、永良部にその関係者がいた。なので大和城なるものもあった。
いろいろな情報を繋げてみると想像が膨らみます。
たいへんに興味深い伊座敷泊からの考察でした。


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