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先祖を探して

Vol.148 琉球侵攻時に捕虜となった人


1609年2月26日、薩摩軍は総勢3000人、80余艘で大将は樺山久高、副将平田増宗で山川港を琉球に向けて出発しましたが、風待ちをしていた樺山に、島津家久から五ケ条の「覚」が届いたそうです。

一、琉球より和睦申し立てがあれば異議なく談合に応ずること。
一、できるだけ早くカタをつけ、六、七月中には帰還すること(短期決戦)。
一、琉球歴々の人質、そのほか島々の頭々まで人質に取ってくること。
  以後の琉球の措置は薩摩が定める。
一、琉球国王が居城(首里城)にこもり、長く篭城の様子が見えたら、ことごと
  く焼き払い、人数も少しもためらわず引き取り、あたりの島々の者まで人
  質に取って帰陣すること。
一、(奄美諸島への)兵糧米の徴発は、琉球より軽くすること。


この「覚」を受けて、琉球侵攻軍は山川港をついに出航したのですが、3つ目の条に、人質のことが書かれています。
「島々の頭々まで人質に取ってくること。」

奄美群島の島々から頭が人質がとられていたのか?
調べてみましたら、徳之島で人質がとられていたことが分かりました。他の島々で人質がいたかは分かりませんでした。
徳之島では、Vol.145で書いたように、島の役人であった若き兄弟が、島民と一緒にわずかな武器で薩摩軍と戦って戦死しております。戦いがあったので、人質をとったのかもしれません。
ではいったい誰が人質に?

この時に、徳之島には琉球の平等所:びらじょ(統治役所)があったようで、琉球守備隊が迎え撃ってきたのでが、薩摩は鉄砲を浴びせながら進軍したため、守備隊は山中に逃げ込んだようです。そして薩軍は山狩りをして、「番衆主取」(守備隊長)を捕らえたのだそうです。
この守備隊長は、向洪基=与那原親雲上朝智という人物だったそうです。
この方は三司官であった名護良豊の甥にあたる人物だったとのこと。
これ以上の詳しい情報が今のところ見つからないのですが、親雲上(ペークミー)は、一村を采地として賜り、脇地頭の職につき黄冠を戴いていました。琉球本土の島尻地方の大里間切りの中にある与那原村を領地にしていたようです。

そんな脇地頭職の人が、徳之島に前年の1608年に派遣されていたとのこと。
どういった経緯で、どういった役職で派遣されていたのか?それは大屋子としての派遣だったのか?
1608年といえば、徳之島の東之主(幼名:思禰戸兼 号:安佐珍)が2月に急死し、沖永良部の首里之主であった思鎌戸が徳之島も兼任します。もしかしたら、その東之主の後釜として来島していたのかもしれませんね。

1つ見えてきたのは、徳之島には琉球の役所があって、島役人以外にも琉球から派遣されていた役人がいたことが分かりました。
沖永良部ではどうだったのか?
同様に役所が設置されていたのか?それとも徳之島に設置された役所の管轄だったのか?

この尚洪基という人物の情報がもう少し分かれば、沖永良部と徳之島の大屋子の状況が見えてくるかもしれません。
新しい人物が判明して、少しだけ前に進みましたので、もう少し調査をしてみようと思います。


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