1609年に薩摩が侵攻してきた際に、徳之島で薩摩軍に捕虜となった人物「与那原親雲上朝智」についてVol.148で書きましたが、その人物の詳細が分かりました。
この人物は第二尚氏3代目尚真王の3男であった尚韶威・今帰仁王子朝典(童名・真武體金、号・宗仁)の6世の弟になります。尚韶威が今帰仁監守について以来、向氏具志川御殿として代々監守を務めています。その六世であった向縄祖・今帰仁按司朝経の弟が与那原親雲上朝智です。分家して辺土名が家名となっています。
今帰仁監守
- 一世:尚韶威 今帰仁王子朝典(尚真王の3男)
- 二世:向介紹 今帰仁按司朝殊
- 三世:向和賢 今帰仁按司朝敦
- 四世:向克順 今帰仁按司朝效
- 五世:向克祉 今帰仁按司朝容(朝敦次男。兄に嗣子無きため家督を継ぐ)
- 六世:向縄祖 今帰仁按司朝経 ➾弟:与那原親雲上朝智:辺土名家の始祖
この辺土名家の子孫には、玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん、康熙23年8月2日(1684年9月11日) - 雍正12年1月26日(1734年3月1日))がおり、琉球王国の官僚でした。 中国からの冊封使をもてなすために踊奉行に1718年任命され、奉行職就任後は翌年の重陽の宴にあたり初めて組踊を創作し上演したようです。また歌三線にもすぐれ、湛水流を向日長・新里親方朝住に学び、それを子の向廷瑛・奥平親雲上朝喜に伝えたとのこと。
近代の子孫には、有名なミュージシャンもいるそうです。
琉球時代の奄美群島の島々には、琉球王家や士族の者が大屋子や役職者として派遣されていたとはいいますが、誰がどこにといった詳しい情報は少ないです。
こうして1人でも情報が分かると、どの家の筋の人が、、、というのが見えてきて、当家のご先祖さま探しの有力な情報となっていくと期待しております。
今回は、尚真王の3男の分家からの流れの家の人が分かりました。王族筋の人が島に派遣されていたとは、やはり事実ですね。今帰仁はもともと北山領であったので、その地方にいる王族からの派遣だったわけです。
ただ、どういった役職として派遣されていたのか?
薩摩が侵攻する前年に徳之島の東ケ主という大屋子は急死し、沖永良部にいた首里之主:思鎌戸が兼任しています。この時期には徳之島にはこの家の筋の方についても、他に派遣された人がいないか調べてみようと思います。
この両家の家譜から見える情報で1つだけ不可解なことがありましたので、追記しておきます。
玉城親方朝智の父は向克祉:今帰仁按司朝容のはずですが、朝智の辺土名家の家譜には、朝智の父親は今帰仁按司朝典5世孫向之俊中城親方朝芳と書いてあるのです。朝容と朝芳の漢字ミス?
そして、父である朝容は1582(萬暦10)年生まれ、長男である朝経は1601(萬暦29)年生まれ、次男である朝智は父と同じ1582(萬暦10)年と家譜に書かれているのですよね。
これも単なる記録ミスなのか?
このあたりのミスマッチも、今後の何かの発掘に役立つかもしれないのでメモしておきます。