当家のご先祖様である沖永良部の世之主は島の歴史によれば、琉球が北山・中山・南山の3国時代であった時に、北山王の怕尼芝の次男として生まれ、1300年後半から1400年前半に島主として君臨していたようです。世之主統治時代の島は大変善良な政治で、島民にも慕われて平和な時代だったようです。
そんな世之主ですが、子孫である当家にであっても、彼がいつ生まれたのか?どのような人物であったのか?何歳で島の島主になったのか?など、今のところ詳しいことは分かっておりません。
そんな中、このブログの一番最初に投稿した記事が中山の察度王と武寧王の時代に王に仕えた亜蘭匏という人物が、実はエラブ世之主では?という新説の記事でした。この新説は、長崎純心大学:石井望准教授によるもので、以下の内容でした。
*****************************************
琉球の初期の國相・王相(宰相)は、程復のほかに王茂、亞蘭匏(あらんぱう)、懷機の計四名だけである。唐人王茂は、程復と同じく明國皇帝から任命されたのだが、亞蘭匏と懷機は皇帝の任命ではない。今日は亞蘭匏の話をしよう。
明國朝廷の議事日誌的な史書『皇明實録』の洪武二十七年(西暦千三百九十四年)三月の條文には、琉球中山王察度(さと)の請求として、「王相亞蘭匏、國の重事を掌す。乞ふ品秩(官階)を升授せよ。」と述べる。
皇帝は、「其の王相をして秩、中央の國(明國)の王府の長史と同じからしめ、王相を稱すること故の如くせしむ。」と返答した。琉球側でもともと宰相であり、皇帝から下賜された職ではないことが分かる。
亞蘭匏は久米村の華僑だとかアラブ人だとか推測されてゐるが、普通の唐姓ではない。また伊良波(いらは)とする説もあるが、匏の字音に合致しない。
私の新説としては、亞蘭匏は永良部か伊良部であらう。「亞」を福建南部字音で讀むと「え」となり※、琉球方言では「え」と「い」の區別がないので、永良部でも伊良部でも充てはまる。
「蘭」などの「N」尾音は次の字と組合せで濁音(BやDなど)に充當される場合が多く、例へば平戸は「飛蘭島」と書かれる。匏は福建南部字音で「PU」だが、N尾と連讀の「蘭匏」は濁音の「らぶ」だと考へられ、亞蘭匏は「えらぶ」か「いらぶ」となる。
亞蘭匏は實體のある宰相であるから、これが永良部か伊良部だとすれば、琉球の實權を握るのは唐人程復や王茂ではなかったのである。北の永良部島の按司か、宮古島のそばの伊良部島の豐見親(とよみや)か、いづれも古琉球の豪族であるから、亞蘭匏はどちらか分からない。琉球倭寇は奄美諸島から來たので、亞蘭匏は永良部であった可能性が高いであろう。
※等韻の假攝二等「家、馬、唖、把」は福建南部で「け、べ、え、ぺ」となる。
*****************************************
石井先生とは何度もやり取りしてこの件を含め見解を伺ってみましたが、まず中国人と言われている亜蘭匏が日本人である、そして亜蘭匏の読み方はエラブ。国相クラスの人物であるので、その頃の沖永良部の権力者は世之主であるので、世之主=亜蘭匏であろうというのが、先生の見解です。そして、1383年に「えらぶ」と名乘る人物が初めて登場して明国に行き、翌年北山王が初登場して、北山王の使者と共に再度明國に行きます。えらぶのお蔭で北山王は貿易できたように見えますとのことでした。
私なりに色々と調べ考察してみたのですが、「亜蘭匏=エラブ」と読むことについては、なるほどと思っています。(中国語は分かりませんが) では、「亜蘭匏=世之主」という点についてですが、こちらは今後の研究・調査が必要だと思っています。確かに時代的には亜蘭匏が国相として活躍された時代と、世之主が島主としていた時代はかぶっていますが、亜蘭匏の方が少し前の時期になります。
では少しだけ前の時期となると、沖永良部島にすでにいたとされるのが、世之主の四天王の1人と言われている後蘭孫八と言われる人物です。彼は平家の落ち人の子孫であるとされており、築城の名手でもでもあったとか。孫八の研究資料が少なく詳しいことが分からないのですが、世之主が島をおさめる前に島の豪族として既に島に住んでいたようです。
後蘭孫八の居住地跡
この孫八ですが、実は倭寇であった説があります。ウィキペディア(Wikipedia)によると、 「倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人に対する中国・朝鮮側での蔑称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。」となっています。私の個人的な見解としては、倭寇であった後蘭孫八=亜蘭匏だったのではないかと思っております。
ちなみに、世之主という言葉は、琉球3山時代に使われていた言葉で、「おもろさうし」の中では、権力を持つ者、船で活発に交易をする者、支配者に不似合いなほどの富を蓄えている者、他の男性支配者と交流のある者、富を集め武具を愛用する者、を指す言葉であると、福 寛美, 吉成 直樹先生のレポートに書いてありました。(P14)そう考えると、当家の先祖である世之主の可能性も全くないわけではありませんが、今のところは亜蘭匏=エラブ=後蘭孫八 が私の中では有力候補です。
歴史研究家の先生方に、今後ぜひともこの件の研究をお願いしたいところです。
参考レポート
倭寇おもろ : ヤマト、沖縄の文化的距離 著者 福 寛美, 吉成 直樹 国際日本学 巻 4ページ 1-39 2007-03-31 http://doi.org/10.15002/00022595
後蘭孫八の居住跡は、昭和の戦後すぐ後頃までは、子孫の方が居住されていたようです。現在は島の観光地として整備され、パワースポットとしても人気があるようです。
子孫の方の記事↓
https://amahorizon.exblog.jp/20289221/
後蘭孫八の居住跡