長崎県に対馬という島があります。朝鮮半島向けた玄界灘に浮かぶ国境の島で、壱岐と対馬が並んで存在します。対馬は対岸の韓国の釜山までは約40キロの距離しかなく、釜山の花火大会が見えるほどの近さだそうです。
位置的にはどちらかというと佐賀県や福岡県に近い場所に位置する島ですが、なぜか長崎県なのです。なぜ長崎県なのか?調べてみると、これには明治時代にまでさかのぼる必要がありました。
現在の県制度の前は、各地域ごとに藩が存在していました。対馬は、対馬府中藩と呼ばれていました。この藩は対馬全域と、佐賀県の一部をおさめていました。さらに壱岐は、平戸藩という別の藩の管轄でした。こちらは現在の長崎県の一部と、壱岐全域をおさめていました。現在の佐賀県と長崎県にまたがる地域には、ほかにも島原藩や大村藩、福江藩など多くの藩が存在していました。明治時代に入り廃藩置県が行われると当初は佐賀県と長崎県はひとつの県となる構想があったそうです。しかし、佐賀県が独立した県となったため、残る部分が長崎県となりました。そこへ壱岐、対馬、さらに五島列島をおさめていた福江藩などが加わり長崎県ができあがったのです。昔の藩がそのまま県となった例も多いのですが、長崎県の場合は島が多く事情も複雑だったのです。
そんな事情で長崎県になった対馬ですが、この島には宗家という武士の家がありました。宗家というのは、元々太宰府の官人で、それが後に武士化したものです。当時の本拠地は筑前の宗像(むなかた)郡で、さらにそのルーツをたどれば惟宗(これむね)氏で、江戸時代、公式には平氏一族の平知盛を祖とするとしています(惟宗という姓は平氏系に多いそうです)。この惟宗氏が対馬守護・地頭の少弐氏の代官として、しだいに島での実権をにぎります。
宗貞茂(?~1418年)という人物が倭寇を鎮圧したことで朝鮮から対日貿易の窓口として保護されます。ちなみに彼はその前に、対馬を支配していた宗家の支流を倒し、対馬を宗家の本拠とします。
そして1443(嘉吉3)年、息子の宗貞盛は朝鮮と嘉吉条約をむすんでほぼ貿易を独占することに成功。
倭寇に悩む朝鮮にとって、それを追い払ってくれる宗氏が非常に役に立ったようでこれが朝鮮とのつながりを密にしました。貞盛はまた、朝鮮に渡航する際には宗氏の発行する許可証を必要とさせる文引制度を作り、ますます対朝鮮関係の窓口として勢力を拡大しました。
宗貞茂(?~1418年)という人物が倭寇を鎮圧したことで朝鮮から対日貿易の窓口として保護されます。ちなみに彼はその前に、対馬を支配していた宗家の支流を倒し、対馬を宗家の本拠とします。
そして1443(嘉吉3)年、息子の宗貞盛は朝鮮と嘉吉条約をむすんでほぼ貿易を独占することに成功。
倭寇に悩む朝鮮にとって、それを追い払ってくれる宗氏が非常に役に立ったようでこれが朝鮮とのつながりを密にしました。貞盛はまた、朝鮮に渡航する際には宗氏の発行する許可証を必要とさせる文引制度を作り、ますます対朝鮮関係の窓口として勢力を拡大しました。
13世紀から16世紀にかけて対馬から朝鮮半島、中国沿岸部を荒らした日本人を中心とした倭寇と呼ばれる海賊集団ですが、倭寇の根拠地は長崎県の五島列島や佐賀県の松浦、鹿児島県の坊津などが中心であったといわれ、主に東シナ海を舞台に活躍していたそうです。
倭寇は時代によって前期倭寇・後期倭寇とも呼ばれており、日本人が中人だった時期や朝鮮人が中心だった時期、活動の拠点など移り変わっていったようですが、この倭寇を取り締まったのが、対馬の宗家なのです。
対馬あたりから琉球方面は随分と距離がありますが、勢力のあった倭寇は東シナ海の五島列島を通過しながら南下し、道の島を通って琉球界隈まできており、宮古島などは一時倭寇によって占領されていたようです。
このような倭寇ですが、沖永良部島においても倭寇につながる伝承があります。これについては別記しますが、倭寇や対馬宗家が「4月8日:対馬の宗家との繋がりが?」の記事で書いたように、当家のご先祖様としての繋がりがあるかもしれないのです。
一説には北から南下した倭寇や武士が琉球国を作ったなどと言われていますので、その武士の中にはもちろん対馬宗家の武士が含まれていたでしょう。その対馬宗家の武士が琉球国の王のいずれかの先祖であったとしても不思議ではありません。
また沖縄本島のグスクから発掘される出土品は武士の武具なども多いそうです。
当家のご先祖様を探すにあたって、倭寇や対馬宗家のことは重要なポイントの1つなのかもしれません。
叔母が話していた対馬宗家の菩提寺に足を運べば、何か分かるのかもしれませんね。
コロナ渦で自由に行動が出来ない現状、ご先祖様探しにもしっかり影響が出ております。早く終息して欲しいですね。