ご先祖様の調査をしていく中で、京都に住む叔母から驚くべき情報が入りました。何と!?当家は対馬の宗家がご先祖様になり、対馬に菩提寺があってご先祖様のお墓があるというのです。
いったいどういう事なのか?
叔母の話によると、この叔母の姉にあたる二女の叔母が奈良県に住んでいるのですが、この二女の叔母はお爺様が昭和の初期にご先祖の調査をしていた時に、カバン持ちのようにしてお爺様にずっと付き添っていたらしいのです。
お爺様が昭和27年~28年に沖縄に渡って調査をしていた時も、一緒に沖縄に行っていたそうなんです。そんなこんなで、二女の叔母さまはお爺様から話を聞いており、色々と詳しかったとのこと。その叔母がずっと、対馬のご先祖の話をしていて、対馬にお墓参りにいきたいと言っていたそうなんです。
二女の叔母にすぐにでも話を聞きたいところなんですが、叔母は高齢で介護施設に入居しており体調もすぐれず、話ができる状態ではないとのことでした。
叔母の体調が少しでも戻れば、何とか話を聞きたいところです。
他の叔父や叔母にこの対馬の宗家について聞いてみましたが、今のところ誰もその話はご存じではなかったです。
今の時点では、対馬の宗家がご本家である確たる証拠は無いのですが、以前にも少し書きましたが、倭寇=対馬の宗家 倭寇=琉球のつながりがありますので、対馬の宗家=沖永良部の宗家 のつながりがあっても何ら不思議ではありません。この件に関しては、少しずつ調査を進めておりますので、対馬の宗家のことや調査の進展があればまた記録します。
お爺様には三男六女の子供たちがいますが、不思議なことに殆どの子供たちはご先祖様の話を詳しく聞いたことがないのだそうです。もちろん当家が島の王様であった世之主の子孫であるということは知っていますし、島にいるころには、周りの方々にもそのようなことを言われていたそうです。しかしそれ以上の詳しいことを知らないのです。それはなぜだったのでしょうか? 叔父や叔母の話を聞いていくなかで、私なりに次のようなことが理由で考えられました。
①お爺様が島で生活していた時代は戦時中で、島は大変な状態であったので生活するのにいっぱいで、そのようなことを伝えていくような生活環境ではなかった。
②時代や環境のせいもあったようですが、男尊女卑の傾向が強く男子優先の考え方で、3人しかいない男子に伝えるべきことであったが、長男と次男は中学卒業後はすぐ島を出て働いたので話が出来る環境ではなかった。三男はまだ島にいるときは幼児であった。
③お爺様自身も詳しいことは知らず、親族会の代表で調査はしていたものの、なかなか詳しい話が分からずに子供たちに伝えることが出来ていなかった。
④家族で島を出て北九州で暮らし始めたら、戦後で生活苦であったため、尚更生活に追われてしまっていた。数回引っ越しもしていますし、島を離れたので新たな調査が出来なかった。
⑤そもそもお爺様がとても厳しいかたで、家族にフランクに話をするような方ではなかったそうなので、日常の生活の中で伝えてこなかった。(お爺様と子供たちはあまり会話が無かったようなので)
⑥記録で残して伝えようとしていたが、それも全てを記録できずに途中で終わっている。その記録していたものも、お爺様が亡くなって以降は何も知らない子供たちが遺品整理で破棄した可能性がある。子供たちに伝えられていなかったので、何がどこにあるかも分かっていない。
⑦最大の理由は、島をでてから成長した子供たちが多いので、そもそも先祖のことを知らずに育ち話を聞く機会が少なかったので興味もなく、「ご先祖は王様やったらしい」程度の認識しかなかった。
薄れていく口碑伝承で伝えられてきたご先祖様のことを、これから先の子孫に確実な形で伝え残すために立ち上げられた親族会。その活動を通じて、記録に残していくことが目的の1つであったのでしょうが、時代は戦争に突入し生活環境が大きく変わっていった結果、口碑伝承も記録もどちらも最後は出来なかった。なんという時代の悪戯だったのでしょう。
親族会での皆さんの思い、お爺様の思いをいま私が引き継いで調査に乗り出しています。確かなる証拠を見つけ出すことも含めて、活動はまだまだ続きます。