本家のご先祖様の位牌に、こんな文言が書かれている人がいます。
御薬園掛与人間切横目
1856年(安政3年)に60歳で他界した平安統惟雄という方です。この方は、当家に伝わる「世之主由緒」の古文書を書いた方でもあります。
上記の文言は薩摩藩の侵攻以降に与人という島で最高位の管理職と、間切(現在で言う町みたな区切りです)横目という警察官みたいな職業の兼任ということでしょう。
御薬園掛というのは、当時薩摩藩が薬草の栽培をやっていたようで、沖永良部島でも薬草の栽培をしていたことを表しています。そして、その薬草を栽培していた場所の与人(最高管理職)だったことが推測されます。
しかし、不思議なことに沖永良部島で薬草を栽培していたことが伝わる話が出てこないようです。いつのころから栽培されていたのか?どこで栽培されていたのか?なぜ当家のご先祖がこの薬園の与人であったのか?謎多き薬草栽培です。
そこで、薩摩藩が栽培をしていた薬草について少し調べてみました。
世界の薬草と日本
インドから東南アジア、南中国にかけて自生するシナモンが貴重な香料としてユーラシア大陸での重要な交易の商品となり、16世紀になるとヨーロッパでの香辛料需要の増大を背景に、グローバル商品となっていったそうです。このシナモンが生薬として日本でもよく知られている葛根湯などの漢方薬の中に使われるようになり、多くの漢方薬に処方される基本薬材となっていったそうです。
日本でシナモンの一定量の輸入が始まったのは、朱印船が東南アジアに多く渡海するようになった16世紀以降と考えられているそうです。そして江戸時代に入り、人口増加や医療の大衆化を背景として、17,18世紀にかけてシナモンの輸入量が増大していってます。しかし17世紀のアジアの経済危機などの状況から、良質のベトナム産のシナモンの入手が難しくなっていったそうです。
そもそもシナモンに限らず、当時の薬材の多くを海外からの輸入に頼っていたため、生薬需要の急増が日本の貿易輸入量を押し上げていたのだそうです。
幕府による国産化政策
薬材の輸入が増大してくると、貨幣が海外に大量に流れていきます。貨幣の素材となる貴金属の流出を危惧した幕府が貿易統制を進める中で、8代将軍吉宗の時に、生薬原料となる植物の国産化政策が行われました。この政策のポイントは2つで、1つめは国内の植物への代替についての全国調査、2つめは薬草園における外来植物の栽培実験であったようです。
2つめの栽培実験の場所として、気候や土壌の適性を考慮して全国各地に設置された薬草園に植物種苗が下賜され、栽培を試みたようです。その中の1つに沖永良部島があったのでしょう。
2つめの栽培実験の場所として、気候や土壌の適性を考慮して全国各地に設置された薬草園に植物種苗が下賜され、栽培を試みたようです。その中の1つに沖永良部島があったのでしょう。
薩摩における薬草栽培
明確な記録は残っていないようですが、薩摩藩は早くも1659年(江戸、京都、尾張に続く4番目)に最初の薬園山川薬園開かれ、多数の薬草木が栽培されたようです。記録が正しく残っているのは1783年に御薬園掛が設置され、各地に御薬園が開かれ、1792年には各地の御薬園掛を統括する御薬園奉公が設置されています。薩摩本国や奄美琉球諸島の栽培に適した土地に御薬園を設置したようです。品種は数百種に及んでいたようです。
沖永良部島でどのような品種がどこで栽培されていたのかは分かりませんが、薬草系の植物としては、タバコの葉とハッカが栽培されていたことが、和泊町誌:民族編に記載されていました。
これが薩摩藩の政策によるものだったのかは、はっきりしません。
沖永良部島でどのような品種がどこで栽培されていたのかは分かりませんが、薬草系の植物としては、タバコの葉とハッカが栽培されていたことが、和泊町誌:民族編に記載されていました。
これが薩摩藩の政策によるものだったのかは、はっきりしません。
このような薬草栽培の情報を得ることができました。当家の平安統惟雄が薬園の与人になった理由の1つとしてあげられるのは、惟雄氏の祖父が医者であったことも関係しているのではないかと思われます。1792年に各地の御薬園掛を統括する御薬園奉公が設置されていますので、平安統惟雄が与人になった時期を考えると、初代か2代目あたりになると思われます。
そしてこの医者をしていた祖父の件は別記で書く予定ですが、家族に医者がいたので薬草にも詳しかった可能性がありますね。
本家には、薬草用であると思われる大きな石のすり鉢と乳棒が残されています。
ご先祖様の位牌から、当時の状況が見えました。位牌もご先祖様調査に大きく貢献してくれています。
そしてこの医者をしていた祖父の件は別記で書く予定ですが、家族に医者がいたので薬草にも詳しかった可能性がありますね。
本家には、薬草用であると思われる大きな石のすり鉢と乳棒が残されています。
ご先祖様の位牌から、当時の状況が見えました。位牌もご先祖様調査に大きく貢献してくれています。