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先祖を探して

Vol.68 ご先祖様の位牌が語った情報2


本家にあるご先祖様の位牌の中に、「神主」と書かれている方が3名います。歴史研究家の先生の話では、神道系の戒名であるとのことです。他の方々の戒名は全て仏教系の戒名で、「居士・大姉」が使われているのに、なぜこの3名だけが「神主」なのかが非常に気になっておりました。
そこで神道系の戒名について調べてみました。


神道系の戒名

神道では、亡くなった人は「霊号」という御霊の名前を頂きます。
この霊号は、生前の名前の下に「称名(たたえな)」と「尊称(そんしょう)」を重ねて書くのが一般的です。称名は、その人の性別や身分、年齢を表す言葉です。
成人男性なら「大人(うし)」、成人女性なら「刀自(とじ)」が使われます。そして称名の後にくる尊称には「命(みこと)」が使われます。
故人が成人の場合では、名前の後ろに「大人之命(うしのみこと)」「刀自之命(とじのみこと)」をつけて書かれます。
木主の裏には故人の誕生日の他に、亡くなった年月日、亡くなった年齢が「令和○年○月○日帰幽 享年○歳」という形で記載されます。

これが一般的な神道の「霊号」のようです。しかし、当家のご先祖様の場合は、書き方が少し違っております。

OOOOOOOO  XXXX  神主
生前の役職名  名 前  神主


当家に関わる神道と言えば、古城地跡に建立された「世之主神社」です。実際に私たちの祖父である義経お爺さまは、この「世之主神社」の神主をしておりました。ただ、世之主神社の神主を当家が代々やっていたという話はあるのですが、記録で分かっているのはお爺様の祖父にあたる方からなのです。代々というわりには3代しかやっていない?(お爺様の後は親族の方が引き継いで、4代目まではいましたが、3年程前に他界され現在は神主不在)しかも、この世之主神社の建立年は不思議なことに不明なのです。
手掛かりをつかむために、島の神社事情について調べてみることにしました。


島の神社事情

沖永良部島には島の規模のわりには大小様々な40ほどの神社があるようですが、その神社の殆どが民族系の神社で「ティラ」と俗称されており、神話や民話などの個人的なものを祭った神社となっているようです。よって奄美在来の民俗宗教ではなく、また琉球神道でもなく、南島文化の固有性を体現する宗教とは言い難いようで、奄美地方の神社ないし神道について関心を寄せる人が少なく、あまり研究が進んでいないというのが実情のようです。
また、島には平家や源氏などの伝承もありますが、それに関わる神社が無いのも1つの特徴のようです。

建立由来を見ても、武運長久や航海安全、交通安全、合格祈願、元旦のお宮参りの類等のように個人的な信仰が主体であり、その時々に応じて参拝されているのが実状であって、特に現代では年中行事として折目ごとの地域の祭としてはあまり信仰されていない傾向にあるようです。


世之主神社

和泊町:歴史編に世之主神社について以下のように書かれていますので、一部を掲載します。

*******************************
島の守り本尊として尊崇され、往年は祭日に島中の人々が参拝し、催し物も行われ、盛んであったが、戦後は一部の人たちによって祭典が守り続けられてきている。


<祭神> 世之主加那志(よのぬしがなし)
<御神体> 高さ約60センチで色彩が施してあり、衣冠束帯姿の座石像と御神鏡、更に神殿の中にはさびた一振りの刀身がある。
<奉納> 明治4年、土持政照の銘のある花瓶と清明、平安統と刻銘のある絵馬(扁額)が神社の中に納められている。
<建立> 建立年月日は不詳であるが、内城の越山尾根に一峯の山頂、小字上城(ういすく)の世之主の城跡に建立されており、鳥居が遠く玉城方面からも望見される。


世之神社御神体:和泊町誌歴史編より
御神体のお顔、何だか南方系の方のお顔に見えます。もしかしたら建立した方のお顔か、世之主のお顔をイメージして作られているのかもしれませんね。


世之主神社とご先祖様のつながり

当家のご先祖様の位牌に神主と書かれている①~③3名の方の生存年代、実際に神主をしていた④~⑥3名の方の生存年代を見ると以下のようになります。

①1715-1772 神主1 (享年57歳)
②1741-1814 神主2 (享年73歳)
③1767-1814 神主3 (享年47歳)

④1839-1904 係員 (享年66歳)
*係員との記録で神主かは不明
⑤1869-1945 神主(享年79歳)
⑥1903-1986 神主(享年84歳)

②③は同年に他界していますので、恐らく伝染病などで急死したのではないかと思われます。
①~③の人は、平安統という名がつく方々です。奉納品に平安統と刻銘された扁額があることは1つのポイントだと思います。そもそも扁額とは、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額で、書かれている文字はその建物や神社名であることが多く、建物にかける創立者の思いなどを記すこともあるようです。
町史の記述には扁額についての詳細は書かれていませんが、私の推測では①の平安統がこの扁額を書いた(作った)のではないかと思います。そして神社を建立したのはのも①の方。何故なら、霊号の中に「善述」という文字があるからです。善を述べる方。
更に、霊号に「神主」と書かれているのは、実際に「神主」をしていた可能性があります。①~③の妻は、仏教の戒名である「大姉」になっているのです。
世之主神社はそもそもは島の統治者であった「世之主」を祭った民族系の神社で、格式が高い神社ではありません。しかも島は神仏共存なようで、島に住む叔母の話では、神主さんをお坊さんと呼んでみたり、仏教でも神式のお葬式だったりとバラバラだよとのこと。
よって、当家のご先祖様も宗教的には仏教であるが、世之主の子孫として島の守り神としての世之主神社の建立。神社の神主として当家の先祖が関わったので、その人だけが位牌に神主と明記。霊号事態は、正式な記載方法ではなかった。このようなことが見えると思います。

しかし、③の方が亡くなったあとに、④の方が神社に関わるまでの期間が45年ほど(④が成人することを考えるとプラス20年として45年)空白の期間があります。この期間に神主が誰であったのか?神社はどうなっていたのか?については、まだ不明です。
空白期間:1814-1859年頃


まとめ

位牌にある「神主」の文字、先祖代々と言われていた神主のこと、神社に奉納されている平安統と刻銘された扁額などから2つのことが言えると思います。

1.世之主神社の建立をしたのは①の方で、時期については生存期間の1715-1772年の間であった可能性が非常に高い。

*この方、久志検与人になったのが39歳で1754年であるので、それ以降の可能性が高い。傾向として与人になった以降に墓石建立などをしているご先祖様が多いので。

2.位牌にある「神主」は、実際に神主であったことを示している。


扁額などは島に行った時に見せてもらうつもりです。私の推理である世之主神社建立時期についても、関係者の方々にシェアしたいと思います。
それにしても、建立されている刀身も気になりますね。。。当家の義経お爺さまが持っていた刀だったのかもしれない。(Vol.32 刀の話)


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