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先祖を探して

Vol.112 遠島罪についてのあれこれ(1)


Vol.111と112の示現流絡みからの遠島罪ですが、沖永良部島としてのデータが和泊町誌に以下の内容で掲載されていましたので、人口比まで出してみました。


薩摩藩が1609(慶長14)年に侵攻後、1616(元和2)年に徳之島に代官所が置かれ、沖永良部島と与論島を巡回して統治。
1690年(元禄3)には徳之島代官の行政を離れ、沖永良部島に代官所が設置される。沖永良部島に遠島人が来るようになったのは、データではそれから80年程後からのことです。
薩摩藩が奄美諸島を流刑地に定めたのは1789(寛政元年)年からだということですが、このデータでは実際にはそれよりも少し早い時期から遠島人が沖永良部島にはいたことになります。
このデータは「沖永良部島代官系図」から宗門手札改め(これについては後日別記します)の際の人口調査の記録から抜粋されて町誌に掲載されているものです。

Vol.110-111に書いた示現流の東郷実勝が、遠島された沖永良部島から恩赦で鹿児島に戻ったのが延享年間(1744-1747年)です。島にどれくらいの期間滞在していたのかは分かりませんが、「当家のご先祖様が示現流を学んで、そして強かった」という話をもとに考えると、やはり最低でも1年は島にいたのではないかと思われます。
薩摩藩が流刑地を決める前、そして人口調査で流人が記録された1772年よりもずっと前から、実際には流刑人がいたということです。
1690年に沖永良部島にも代官所が出来たので、早くてもそれ以降の受け入れだったのでしょう。

実際の遠島人の数ですが、多いと見るか少ないと見るかは根拠は定かではありませんが、私としてはこんなに遠島人が沖永良部にきていたのか~と漠然と思ってしまいました。人口調査が行われるたびに、平均で約77人の遠島人がいて、多い時は124人もいました。当時は36村(1つの村に平均して約300人ほどの人口)あったようなので、平均すると2人が1つの村にいたことになります。村によってはそれ以上の遠島人がいたところもあったでしょう。

受け入れ側の準備としては、ある村では村有地に砂糖小屋のような遠島人
小屋を作っておいたというような話もあるようですが、詳しい記録や伝承は残っていないようです。

実際に遠島になった人たちの中には、島の文化開発に貢献してくれた人たちもいます。そのあたりは次回に書きたいと思います。


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