遠島人を受け入れていた島の人々は、どのような気持ちで受け入れて、罪人たちとどのように接していたのでしょうね。
奄美諸島に流される遠島人は、鹿児島から遠くなるほど重罪人であったわけで、沖永良部島には一番罪の重い罪人が来てたわけです。
重罪人と聞くと、殺人などの凶悪犯罪人を思い浮かべ怖いと思いがちですが、実際には遠島罪になる者には、国事犯のような重罪人や知名の士が多かったようです。中央政権に対して邪魔になる存在は遠くに飛ばして、でも有能であるのは確かだから、もしかしたらいつか何か役に立つかもしれないので、とりあえず処刑はせずに生かしておこうといった感じですかね。
そんな知識人たちが遠島で沖永良部にやってきて、島の人々に読み書きソロバンなどの基本から、漢文などの応用まで指導したのが、Vol.108で書いた私塾です。
流刑が決まった者たちは、本土から出発するまでに、親類縁者から島に持ちこめる差し入れが許されたそうです。これを見届け物と呼び、米や現金などを決められた量までは持ち込めたのです。
それなりの量の米穀などを持ち込むことが許されたわけですが、裏を返せば、島での生活には食べるものにも事欠くリスクがあったことを意味していたのだと思います。一般的に昔の島というのは、耕作に適した土地が乏しく、もともと住んでいた島民すらたびたび飢えるし、南島では台風災害も多いですから。
見知らぬ土地に放り込まれて、自活を求められ、食べる物がないと餓死。親族による定期的な差入れも認められていたようですが、全ての食をまかなうことは不可能で、田畑を与えられた場合はそこで作物を育て、そうでない場合は島の農業や仕事を手伝ったりして生計を立てていたそうです。
それなりの量の米穀などを持ち込むことが許されたわけですが、裏を返せば、島での生活には食べるものにも事欠くリスクがあったことを意味していたのだと思います。一般的に昔の島というのは、耕作に適した土地が乏しく、もともと住んでいた島民すらたびたび飢えるし、南島では台風災害も多いですから。
見知らぬ土地に放り込まれて、自活を求められ、食べる物がないと餓死。親族による定期的な差入れも認められていたようですが、全ての食をまかなうことは不可能で、田畑を与えられた場合はそこで作物を育て、そうでない場合は島の農業や仕事を手伝ったりして生計を立てていたそうです。
そして知識人たちは得意分野をいかして、私塾を開いて島民に貢献しながら、食べ物を分けてもらっていたのかもしれません。
殺人罪のような凶悪犯罪人ではなかった国事犯の人たちは、島民にとっては恐れるような相手ではなく、かえって物知りで珍しく憧れる存在であったのかもしれません。そしてこの遠島人たちが一躍買って、島の教育文化の向上に貢献したのだろうと思います。
知名の士としては、西郷隆盛や西郷よりも前に島に来ていた川口雪篷(かわぐちせっぽう)などがいます。川口雪篷は最初に喜美留村というところに配流になっていたが、食料が足らずに空腹に耐えかねて、ある夕方に畑に出て芋を掘りあさっていたところを青年にみつかり、追われて追われて西原村に着き、その後は西原村に居ついて、弟子教育をして生計を立てた話があるそうです。
そうそう、お爺様の書に、当家が昔から代々住んでいた世之主神社の近くにあった屋敷の上の方に(当時は山手になっていました)薩摩からの流罪人であった松下太郎という人が住んでいたことが書かれていました。
Vol.19で書いた、チュラドゥールという当家のお墓に絡んだ話として書いております。
遠島人は、やはり島民の側で普通に暮らしていたことがこのことからも伺えますね。
最後に、沖永良部の薩摩時代の歴史を見ていくと、どことなく他の奄美諸島に比べると薩摩藩からの締め付けが少し緩かった感があります。砂糖地獄と呼ばれた奄美諸島を重税で追い込んだ砂糖政策や、島の最高職であった与人職を1つの家に代々やらせない政策など、沖永良部島に至っては、絶対的ではありませんでした。それは1つに、この重罪者の遠島地になっていたことによる、藩の温情が少しあったのかな?と個人的に考えています。
全てが良かったわけではないでしょうが、政策として重罪者の遠島地になったことでの恩恵は意外に大きかったのかもしれません。そして何より、島の人々の温かい心が遠島者の心を大きく救ったのだと思います。
真面目で勤勉で教育熱心、温かい心を持った人々がいる島は、これからも変わらずいて欲しいなと切に思います。