終身刑により沖永良部島に流された東郷実勝ですが、そもそも遠島人たちの島での生活はどうだったのでしょうかね。島流しの刑っていつから始まったのでしょうか。まずはこの流罪について少し調べてみました。
流刑にする目的
生活の拠点から遠く離れた島で簡単には帰れないような不便で寂しい場所へ追いやることで、生きる気力を奪い罪を償わせるのが目的。流刑となった流人(るにん)は慣れない土地で厳しい生活を強いられ、一度流されると恩赦などの特別許可が出ない限り、二度と故郷に戻れないという過酷な刑であったそうです。
流刑の歴史
日本で最も古い流刑とされる記録は5世紀頃、允恭天皇の娘・軽大娘皇女が実兄と禁断の恋に落ちてしまい、伊予(愛媛 )へ流されたというものでした。日本初の最古の流刑が恋愛がらみなんて何ともロマンチックな話ですが、飛鳥時代の701年に大宝律令によって流罪が正式に刑罰として定められた後は、天皇や貴族、僧侶などが権力闘争に負けて流刑になるケースが主流になったようです。
罪人たちの島での暮らしぶり
刑罰として島に流されるというと、行先は無人島だと思いましたが、実際は普通に人が住んでいる有人島でした。ですから、薩摩藩の流刑先の島は奄美大島や徳之島、沖永良部島と普通に島民が生活していた場所だったのです。
そして、意外かも知れませんが、隔離されるわけではなく島の人たちと共に普通に生活をしていたのです。
そして罪人たちは、村内における囚人の数が村全体の10%以下になるように、それぞれの村に分けて配属されていました。
そして、5人組と呼ばれる犯罪防止のために連帯責任組織に帰属させられ、監視を受けて生活をすることになりました。
それぞれの村には囚人たちのための粗末な家としての小屋も用意されており、わずかながらも畑なども与えられたようです。
基本的には自由な生活をすることが出来たのですが、あくまで罪人ですのでいくつかの制約は受けました。
制約といっても「島から抜け出さない」「他の村に行かない」「流人同士で交際をしないこと」といった程度のもので、特に生活に支障の出るようなものではなかったようです。
流罪の目的であった死刑につぐ厳しい刑罰というには、実際はかなり程遠い、かなり自由なものだったのですね。
西郷隆盛は奄美大島に流された時に、島の女性と結ばれて子供もいましたからね。島流しとはいっても、かなり自由な生活をしていたのでしょう。しかも奄美諸島は美しい自然がたくさんあって、綺麗な海とビーチもありますから、刑ではなく楽園に近い生活だった可能性もありますね。
平安統惟貞との出会いは
ここからは私の憶測によるメインテーマの話ですが、島に来た流刑人には5人組と呼ばれる犯罪防止のために連帯責任組織に帰属させられ、監視を受けて生活をすることになっていたので、当家がその監視役だったのではないかと思われます。実際に西郷隆盛が流刑で沖永良部島にきたときには、当時の与人であった土持正照が面倒を見ています。土持政照に良くしてもらったことで、西郷は土持に色々な教えを授け、二人は義兄弟の契りを結んだそうです。
このように西郷と土持のような感じで、当家が東郷実勝の面倒を見たことで良い関係ができて、示現流を指導してもらうことになり、 実勝が恩赦により鹿児島に帰る時にお礼の気持ちとして二人が対戦?しているような絵をプレゼントされたのではないかと勝手に思っております。
しかし示現流は武士の御流儀であったのに、当時に島役人であっても立場は平民なのに指導が許されたのか? そこは島の風土で緩かったのでしょうかね。
300年ほど前の話しで詳しい記録や伝承もないので、まだ謎は残ります。
この件に関しては、また何か詳分かり次第、追記したいと思います。
今回流刑について調べていく中で、この島流しの刑そのものについて少し詳しく知ることができたので、別記事として書きたいと思います。